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読んだ本や好きな文章の感想

上野千鶴子・小倉千加子・富岡多惠子『男流文学論』(1)――村上春樹『ノルウェイの森』

『男流文学論』、めちゃくちゃおもしろ大当たり本でした。

著名で評価も高い男性作家の文学作品に対するフェミニズム批評です。上野千鶴子(社会学者)・小倉千加子(心理学者)・富岡多惠子(作家・詩人)による鼎談形式ですね。歯に衣着せぬ物言いが痛快でキモチイイ~~♡になりました。

 

ラインナップはこんな感じです。読む前からこんなにワクワクする目次ある?

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村上春樹の『ノルウェイの森』は読んだことがあったので村上春樹から始めます。

 

私のための村上春樹年表↓

 

で、『男流文学論』のあとがきを見ると「最初の吉行淳之介の小説をいくつか読んで話し合ったのが、たしか一九八九年十一月である」とあるので、村上春樹についての話し合いが行われたのはきっと『ダンス・ダンス・ダンス』と『ねじまき鳥クロニクル』の間ですね。

 

 

 

上野 村上春樹の初期短篇は、これまでは、けっして嫌いではなかったんですが、『ノルウェイの森』はあまりのつまらなさに仰天しました。損した、入場料返せ、という感じです。同人誌小説なら三十枚におさまるはずのものを、九百枚に引き伸ばしやがって、この野郎、私の時間とカネを返せっていう感じ。

 

村上春樹の章始まっていきなりこれ。ワロタ。もっとやれ。

私は村上春樹の長編が好きでだいたいのものは読んでるんですが、正直読んだ中では『ノルウェイの森』が一番おもしろさがわからなかった。なのに『ノルウェイの森』が売り上げダントツの1000万部(売り上げ2位は『1Q84』300万部)。なんで?

(参考:村上春樹の売り上げ&発行部数ランキング【どれが一番売れている?】 | あやとブログ)

 

私は『ねじまき鳥クロニクル』が一番好きです。村上春樹はその長編小説の中で描かれる複層的な世界、スリップストリーム文学ってやつですか?現実世界とメタファー的世界(異世界)が隣接して存在してて、その中を主人公が行き来するようなそういう話が好きなんですよね。そしてあの分量でも全く疲れないし、読んでる間ずっと続きが気になる。文章自体は平易ですごく読みやすいのに書かれている内容とか世界観は難解で重層的なんですよね。それがメチャ好き。「村上春樹みたいな本を読みたい!」って思ったら村上春樹の本読むしかないですからね。

で、そういう「隣接するメタファー世界」が感じられない短編とかはあんまり好きじゃないんですが、『ノルウェイの森』はそれ。5年ぐらい前に1回読んだだけなので内容あんまり覚えてないんですが、確かに上野さんの言うように引き伸ばされた短編って印象。読み終わったときの感想、「そッスか……」だった気がする。

 

 

 

上野 いま的な感じがするのは、これほど受動的な男主人公を描いたこと。その点では、ちょっとエポックメーキングでしょう。ワタナベくんがなんか虚焦点というかブラックホールみたいになっていて、そのブラックホール接触する人びとの反応のおかげで彼の輪郭がやっとわかる。中身はまったく暗黒で、そこにみんな何もかも陥没してしまう。

 

このブラックホールのたとえはわかりやすかったですね。確かに村上春樹の小説の主人公はその輪郭が周りの人間から語られるばっかりな気がする。主人公の人格が中心にドン!!とあるんじゃなくて、あくまで他人との関わりの中で主人公が見えてくるんですよね。

 

 

 

上野 「やれやれ」ということばは、実際にはそんなに流通していることばではありません。一種の春樹語ですね。「やれやれ」というのは、その事態に対する距離と同時に、その事態を自分から変更する意欲が何ひとつないことを示しています。「やれやれ」とつぶやきながら、事態をありのまま受け入れる態度を表しています。それは村上春樹の世界全体の恐るべき受動性を象徴しています。恋愛というのは関係だけど、これは関係を描いた小説だとは思えません。むしろディスコミ小説だと思うの。

小倉 最後のほうを読むと、この主人公がやっぱり成長していく。最初とは違うみたいに本人も言ってますよね。

上野 いちばん最後に、生まれてはじめて、コール・フォー・サムシング、何かを求めて呼ぶという行為をやりますね、電話ボックスから。(略)そのとき、敏感な緑は――そこが私、リアリティだと思うんだけど――実は彼が呼んでいるものが自分ではないものだと察知したんですよね。だからおそろしく冷めた声で――。

小倉 〈「あなた、今どこにいるの?」〉長い沈黙の後で。

上野 それは自分に対して距離をつめようとしたということじゃないんだと彼女は察知した。(略)春樹が単純に馬鹿じゃないのは、自分が距離をつめないということを他人にちゃんと察知されている、ということまで書くじゃないですか。他人にちゃんと察知されていることの、お互いの一種の明るい絶望みたいなものを、会話の中で、ディスコミとして淡々と描く。それが絶妙にうまかったのが初期の短篇でしょうね。

 

ノルウェイの森』は恋愛関係じゃなくてディスコミュニケーションを描いた小説だ、っていうの読んで、私は今までそんな風に考えたことがなかったのでハッ……としました。春樹語の筆頭「やれやれ」が「村上春樹の世界全体の恐るべき受動性を象徴して」いる、とな……。私がいままでモヤ~ッと読んでいた小説をズバンと一般化して抽象化して説明してくれるの、気持ちエエ~~~~!!!

 

 

 

あと村上春樹の書くセックスシーンについての言及もありましたね。

 

富岡 いままでの性描写だと、下手なメタファーなんですよ。この人、メタファーじゃないのよ。

上野 女の子の直接話法が生きているのね。

富岡 そう。女の子の話体とか、話しことばの次元で表出されてきているわけね。いままでのセックス・シーンにも、同じように、手で出そうが何しようが、そういうのはいっぱいありましたよ。だけど、それは男の隠語符丁の世界なのよ。

上野 あ、そうか。

富岡 だからここにだって、あからさまに、私はあのとき一回しか濡れなかったけど、もうずっとこれからあんなに濡れることないんじゃないかしら、って直子が言っているでしょう。それが昔の小説なら、ほとんどの場合、男が書くから、愛液が果汁のように溢れたとか、そういうふうな描写だったわけなの。そうじゃないでしょう、今回。

富岡 思い入れのない性描写というのは実はものすごく少ないですよ。そういう意味ではこれは珍しいです。男の隠語を連発しなければ書けないというのは、それはひとつの思い入れでしょう。女というのは、こういうふうなもんなんだという思い入れをもって、それでセックスの描写をしているわけよね。これは、それがわりにないでしょう? いまの女の子たちがしゃべっているような調子そのもので書いている。むしろあからさますぎるというか。

 

確かにな~。村上春樹の描くセックスシーンって使われる言葉は直接的なものなんですけど、でもそれがあっけらかんとしていてかえって清潔感があるように思う。ちなみに私が今読んでいる小説は男性器のことを「ナルシス」、アナルのことを「エデン」と表現していて「マジ?」となりました。

 

私は春樹のセックスの扱い方、好きですね。なんというか、言葉自体は直接的なものがあるんですが、「セックス」というもの自体がメタファーにされているというか、生々しい肉体同士がぶつかる性交渉じゃなくて、セックスの概念だけが抽出されて残っている感じなんですよね。『ノルウェイの森』もそうだったかは覚えてないですが、夢の中でのセックス、概念的なレイプ。メタファーとしての殺人なんかもありましたね。

ねじまき鳥クロニクル』の「近親相姦〈的〉行為」、「身売り〈的〉行為」なんかは、読んだとき「こんな書き方があるんだ……!」「これで話が成立するんだ……!」って衝撃を受けました。(参考:Kyoto University Research Information Repository: 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』論 --クミコの「心」と「身体」の分裂--

 

とにかく、村上春樹の描くセックスは「汚くない」。性の匂いがしない。私はそこが好きです。

 

 

 

村上春樹の章で一番好きだったのは多分ここ。

 

上野 (……)高校生ぐらいの女の子がね、あのとき、淋しくて彼に抱いててもらいたかっただけなの、セックスしちゃったのはほんのはずみだったの、みたいなことってよくあるでしょう? あのぐらいの年齢の女の子たちが、そのとき男の子にしがみついていたいというときの気持ちって、性欲とか肉欲とかじゃないですからね。

富岡 なんなの、接触欲?

上野 たとえば親とのトラブルとかいろんな問題を抱えていて、淋しくてしかたがない。だから、ほんというと、性的に無害で、脅威を感じさせないような男に、抱いててもらうだけのほうがいい。(略)自分が完全に受け身にまわって客体になってくれる。あなたのリクエストに応じますよって。

富岡 それ、男をばかにしているじゃないですか。女もそうだけど、自分が甘ったれたいだけで人に抱きしめてなんていうの? 淋しいの、じっと我慢すればいいじゃないですか(笑)。

上野 ちょっと待ってください。我慢すりゃいいじゃないのって、これまで男のほうは我慢せずに、ご都合主義で女を抱いてきたわけでしょう? 今度は女のほうも、我慢せずにご都合主義で男に抱いててもらいたい。

富岡 なんで自分で我慢しないの? 幼稚なの?

上野 強くないからですよ。だって、人間の弱さを描くのが小説でしょう。強さを描いたって物語にならない。

 

「幼稚なの?」、超ドストレートで草。一気に富岡さんのこと好きになっちゃった。私は幼稚です。

「淋しいの、じっと我慢すればいいじゃないですか」、こう言えるのツエ~~。カッケ~~~~

 

 

富岡 ウーン。どうして幼児のように他人に抱っこしてもらわなきゃすまないの? それに、そういう場合、なぜ女同士じゃいけないの。女はなぜ需要がないの?

上野 それは、異性愛の神話が根強いから。

富岡 男ならいいわけ? ホモの男でも。

上野 そう。でも、男の弱みにつけこんでいるのはたしかだと思いますよ。女だったら相手を尊重しなきゃいけないから、そういうふうに自分勝手な頼みを人に押しつけちゃいけないという自制心が働くかもしれないけれども、男の異性愛にはつけこめる。だからこそ、ショートケーキを買ってきてもらっても放り出して、「私はこんなもの欲しくなかったの」って、男にだったら平気で言える。

富岡 私、その媚態が不愉快なのよ。

 

富岡さんに同意~~;;;;私もこれぐらい強い人間になりてえ……。

あと私は接触欲は多少あるんですが、相手は同性のほうがいいので、「男に抱いてほしがるのは男の異性愛につけこんでるから」っていうのは新たな視点でした。おもしろ……。実感がないのでよくわからないのですが実際そうなんでしょうか。

 

 

『男流文学論』、こんな感じでメチャオモロだったので、取り上げられている他の作者の本も読んだらまた記事書きたいです。