まくら

読んだ本や好きな文章の感想

宮本輝『青が散る』を読んで完全に「大学生」になった

人からもらった宮本輝の『青が散る』を読んだ。読む前はあんまり期待してなかったんだけど、読み終わってみたら「め……めちゃくちゃ面白かった~…………」って空を仰いで呆然とするぐらいに良い小説だった。

 

青が散る』の舞台は1960年代、大阪。茨木市に新設された大学に燎平が入学するところから始まる。物語は燎平が大学を卒業するまでの四年間の話で、その間に彼はテニスに打ち込んだり、女(夏子)を好きになったりする。

書いてみればそれぐらいに要約できてしまうような、80年代以前?の純文学でよくあった(憶測)、人間たちの日常と起伏を乾いた筆致で描く系の小説でね……読み始めの方では、いつの間にかタイパ重視で生きるようになってしまった私が果たしてこういう小説を今でも楽しめるのかという危惧があったんですけど、上巻の半ばぐらいで「メ、メッチャおもしれ~~~~~;;;;;」になりました。

これだよこれ。今の時代にあってほしいのはこういう小説だよ。

 

宮本輝は有名な『螢川・泥の河』だけ読んだことあったけどあんまり印象に残らなかったから、この本を自分で買うことはきっとなかった。私にこの本くれた人も別に私に薦めてきたとかじゃなくて、多分家にあっていらなかったからくれたやつだと思う。古びてるわりに全然読まれた形跡がなかったから。でもね~そういう本がこんなに面白いということが、あり得るんですよ。

久しぶりのいい読書体験だった。中高生のころ、わけもわからず松本清張五木寛之折原一を読んでいた、Amazonの評価も楽天の売り上げランキングもブクログの口コミも知らずに文庫本の小説コーナーに直行し目についた小説を適当に買って読んでいた”あの頃”を、思い出した。小説は「その他大勢の評価」じゃねえ、「お前が好きかどうか」です。

 

 

以下、物語の展開への言及があります。

 

 

 

 

 三月半ばの強い雨の降る寒い日、椎名燎平は、あまり気のすすまないまま、大阪郊外茨木市に開学となる私立大学の事務局へ行った。

小説の書き出しです。見て!このcoolさを……。説明的で、視点が遠く(情景)から近く(人物)に近づいていく形ですよね。私が読んでいる最近の小説は「自分」の視点でいきなり書き出す印象が強いので、こういうオーソドックスな書き出しの純文学を見ると安心感を覚えるようになった。今でもミステリーとかはこういう形で書き出すのが多いのかもしれないけど。

 

 

 私たちが東京タワーのふもとに着いたのは、散歩を始めてから三十分ほどが経った頃だった。(金原ひとみ『星へ落ちる』)

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみをいれる容器ではない。(池澤夏樹スティル・ライフ』)

例として、手近にあった現代純文学の書き出しを挙げてみました。どっちも「近い」よね。いやまあ一人称小説と三人称小説の違いってのももちろんあると思いますが、それを差し引いても始まり方のキャッチ―さってのが時代が下るにつれどんどん求められるようになってきていると感じる。『推し、燃ゆ』とかもそうですね。

こういう唐突な形で小説が始まるようになったのも、音楽のイントロ時間がどんどん短くなっていってる(もはやサビで始まる)っていう現象ときっと同じことですね。

 

 

 

青が散る』でよかったことの一つに人物描写がある。

ゆかりが白いカーディガンを脱いで雀斑(そばかす)だらけの肩を見せた。雀斑を陽に灼くとシミになるのだといつもこぼしているくせに、ゆかりはその艶やかな肩から腕へと散っている砂の粒みたいな模様が自慢なのであった。胸も尖って大きく、尻や大腿部も形良く張りつめていたが、顎が細く唇も薄かった。裕福な家庭で育ったにしては言葉つきや表情のどこかに品の悪さがあり、そのために一部の男子学生からは特殊な人気があった。

このほどよい文体の硬さ。まあまあ長いけど冗漫に感じない乾いた文体。いいっすね~

こういうの、何て言えばいいんだろう、自然主義ってやつ? いやそういうの全然わからんのやけど……

「裕福な家庭で育ったにしては言葉つきや表情のどこかに品の悪さがあり、そのために一部の男子学生からは特殊な人気があった」、ここ妙にリアリティを感じて好き。

 

ところで村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』読んだときも思ったけど、女の胸を「尖っている」って表現するの小説でしか見たことない気がする。服の上から女の胸を見て「尖ってる」って思うこと、あるか? ブラをつけていれば基本的に丸く膨らんで見えると思うんですが……それとも昔のブラってつけると胸が尖って見えたのか?

 

 

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この小説の二大トピックは「テニス(スポーツ)」と「恋愛」だと思うんですけど、どっちも力いっぱいに青臭くて最高だった。もう本当にね、大学生、等身大の青臭さと汗臭さと苦悩、だけどちっとも幼稚ではなくて人生かけて考える「哲学」がその奥にずっと流れていました。転びながら進んでいる彼らの足のもつれ具合は誰にも馬鹿にできません。

 

まずテニス。最初は好きな女・夏子の気を引くために渋々入ったはずのテニス部に燎平がいつのまにかぞっこん夢中になっていくのがアツくて泥臭さがまぶしくて そうだよな青春って一生懸命な人間をスカして馬鹿にして終えられるほど単純なものじゃないよな って思った。

燎平をテニス部に勧誘した男・金子と二人で汗だくになりながらテニスコートを手作りするところから部は始まる。新設校であるがゆえに全部自分で作り上げる大学生活、っていう設定もよかったな、そんなの思い出としてまぶしすぎるって。

 

テニスの話で印象に残ったのは、やはり「王道と覇道」の話。

燎平はテニス経験者の男・貝谷といっしょに、ある老人のやる「凄いテニス」を見にテニスクラブへ行く。実際その老人のテニスはすさまじく、「ゆるやかに飛んでいるのに、着地した途端、猛烈に跳ねあがったり、横に滑って行ったりする」「ボールはラケットから放たれたときは死んでいるのに、相手のラケットに当たる寸前で生き返って、すばしこく踊り狂うのだった」

 

それを見ながら、燎平と貝谷がこんなやり取りをする。

「サーブ・イン・ショルダー、ボレー・イン・ショルダー、スピン・イン・ショルダー、スライス・イン・ショルダー。……あの爺さんの口癖や。小学生のときは何のことかわかれへんかったけど、やっとこのごろ納得がいったよ」

「何が?」

「力いっぱい変則に徹したら、それはそれで正統やということや」

「王道と覇道という言葉があるやろ?」

「……うん」

「俺は、どんな世界でも、覇道が好きや。たとえば、あの爺さんのテニスは覇道や。理屈も理論も通用せえへん。あの回転にはお手上げやないか。基本通りに一所懸命練習して、なんぼ見てくれのええ華麗なテニスが出来ても、あの気持の悪い回転にかかったら、結局はきれいごとや。あの回転は、やっぱりすごいよ。あれこそ覇道や」

 燎平は何かを言い返そうとして、口をひらきかけたが、貝谷のいやに熱っぽい目を見たとき、反論する気持を失ってそのまま真っ青な空をあおいだ。反論しようと思えば、いくらでもその余地がある貝谷の言い分に、燎平はそれなりの、ある真実を感じたのだった。

それまではスカした雰囲気の嫌な奴として描かれていた貝谷に対して「お前熱いところあるじゃん、そういうの嫌いじゃないぜ……」と思わせる、いいやり取り。「力いっぱい変則に徹したら、それはそれで正統」、妙に胸にストンとくる言葉だ。「上手いテニス」じゃなくて、「強いテニス」が勝つ。

そしてこの話は続きがあって、ちょっと先を読んでいくと、ここでお爺さんすごいなぁと素直に感じ入っていた心に急に冷や水を浴びせられる。

 

テニス部にいる祐子という女子もその凄腕老人のことを知っていて、燎平とこんな話をする。

「私、早瀬のお爺さんのこと、好きよ。このクラブの人は、何となくけむたがってるけど」

「……へえ、なんでや?」

「早瀬のお爺さん、絶対に容赦してくれへんから……。これでもか、これでもかって、やっつけるのよ」

「祐子も、やっつけられたの?」

「うん。早瀬のお爺さんとテニスをしてたら、何か、哀しくなってくるの」

 燎平は、暮れなずむテニスコートに視線を移して、早瀬老人を見た。確かにそう言われれば、老人にはどこか、対戦相手を哀しくさせるものがあるような気がした。早瀬老人のフォームは、独自でもあったし同時に異端でもあった。それは、ある奇妙なリズムに乗って、宙を飛んでくる仮想の敵を斬り払っている孤独な古武士の、静謐な太刀さばきを連想させるのである。

「あのテニスを完成させるのに、早瀬のお爺さん、三十年もかかったのよ。三十年間、毎日毎日、ボールに回転をかけてきたの。上下に回転をかける人はたくさんいるけど、あんなふうに、左右にも回転させる人は、他にはあんまり見たことがないわ」

 燎平は祐子の言葉を聞きながら、自分がひどく愚かな人間であるような思いにひたっていた。いや自分だけではなかった。ゆかりも、夏子も、それから傍らに並んで立っている星野祐子の清楚なたたずまいの奥にも、愚かで哀しいものが隠されているような気がするのだった。それは、ボールに独自な回転を与えるために、三十年間もひたすらラケットを振りつづけてきたという早瀬老人の、ある哀しみを帯びた動きから伝わってくるものであった。

 

「ゆかりも、夏子も、それから傍らに並んで立っている星野祐子の清楚なたたずまいの奥にも、愚かで哀しいものが隠されているような気がするのだった」

 

ここですよ。この哀愁、たった一つのことだけを続けてその一事に卓出した人間を見たときになぜか感じてしまう哀しみ。私にも覚えがあるけど、この哀しみについて書いている文章って思い返してみると今まで見たことがなかったかも。前から薄々知っていた感情を取り出して言葉という形を与えて示されたとき、いつも新鮮に感動してしまう。

 

 

しかも上の引用部分のすぐ後に続く、この章の終わり方が本当にいい。出色だと思う。

 風にあおられて、ポプラの並木が揺れ動いていた。赤い雲が流れていた。老人も、若い男も、祐子のやわらかそうな髪も、どれも一瞬も休むことなく動いていた。動いていたけれども、燎平の眼には、ゆるやかに飛行していって、着地と同時に予測のつかない方向に跳ねあがる回転のかかったボールの、蛇みたいな動きだけが、烈しく生きているただひとつのものであるようにあるように思えていた。

老人の愚かしさと哀しさを詰め込んだようなボールだけが「烈しく生きているただひとつのもの」であるように思える。これ……この……この起伏、重層的な描写。スゴイよ。頭の情景描写もさりげなくしかし大きくここの描写に深みを与えている。

老人の凄さを熱っぽく語る貝谷、その老人の動きがまとう哀しみ、その二つを書いた後で、この終わり方。言葉を知らなくて本当に悔しいが、ここを読んで「ああ、文学だ」って思った。ここでの「文学」は「人生」「哲学」とかと同じような意味なんだけど。異端で孤独で力いっぱい変則に徹した覇道の人間、そういう人間は哀しいけど、烈しく生きているって言えるのもまたそういう人間だけなのかもしれない。

 

「生きるということは全くバカげたことだけれども、ともかく力いっぱい生きてみるより仕方がない。」坂口安吾、「教祖の文学」。

 

 

 

 

で、恋愛の話なんですけど、さっき読み返しててテニスだけじゃなくて恋愛についても「王道」「覇道」の話が適用されているのかなと思った。

作中にメインで出てくる女は夏子と祐子の二人で、彼女たちは見た目も中身も正反対。夏子は華やかで大胆なふるまいをする美人、祐子は顔立ちの点では夏子のような華はないが清楚で、その意味で美しく、つつましやかな女。この夏子と祐子がそれぞれ「覇道」「王道」になってるのかな、って思った。それぞれの生き方の点で。

そう考えると、覇道に徹しようとした貝谷が王道の人生を選んだ(ように世間からは見える)祐子と恋人になれなかったのも、なるほどねという感じだが……この小説はそこまで単純なつくりではないような気もする。

 

それはさておき、ヘラついた感じの貝谷がつつましい祐子に対して真剣に恋をしている、ってのがなんか、めっちゃよかったな……祐子を好きな貝谷が好きだ。

祐子が見合い相手と結婚することになったと知らされた後の、貝谷とテニス部の男たちとの会話が好き。ああ、こういう女いるよね、そしてそういう女のことは好きになっちゃうよね……と読みながら思った。

「祐子みたいな女の子は、絶対に俺みたいな男には惚れへんのや。俺は祐子の結婚相手の顔が、だいたい想像出来るんや。男前でもない、ごく普通の、そやけど俺には太刀打ち出来ん顔をしてるんや」

「そら、どんな顔や?」

 燎平が訊くと、金子がテーブルを叩いて怖い顔でさえぎった。

「顔なんかどうでもええやないか。祐子は男のみてくれに惚れたんと違う。そこがじつに祐子らしい、しゃくにさわるところなんや。俺は祐子をますます好きになった」

「こないだ、学生食堂の窓から何気なく坂道を見てたら、祐子がおんなじクラスの女の子四、五人とのぼって来た。なかなか美人揃いの一団で、他の連中と比べると、祐子が一番目立てへんかった。祐子よりも美人で華やかな女の子に挟まれてたんや。祐子は、そやけどやっぱり際立ってたよ。祐子は華やかではなかったけど、よく見ると一番華やかやった。ああ、祐子て、やっぱりええなァと、俺は思ったんや」

 

貝谷・・・・・・・・・・・・・・・・・お前・・・・・・・・・・・・・・・強く生きてくれ。

 

「祐子は華やかではなかったけど、よく見ると一番華やかやった」「ああ、祐子て、やっぱりええなァと、俺は思ったんや」

この言葉が妙に胸に刺さった。凡庸な言葉のように見えるけど、この素朴な感情を素朴な形のまんまで言葉にしてくれているのがよかったのかな。

 

 

それから、失恋した貝谷を慰める金子の言葉もスゲ~よかった……

「きょうは貝谷にとっては哀しい一日やから、みんなでこいつの心のうさを晴らしてやろうやないか。まずうまい中華料理を食おう。それからどこかのホテルの静かなバーで、よく冷えたマティーニなんかをたしなんでから、サウナに入る。それからマッサージをして体をほぐし、爽やかに生ビールで喉をうるおし、場所を変えてどこかのバーでテニスを語り、青春を論じ、文学について考えるというのはどうや」

もう発想が完全に大学生のそれでしかなくて最高だよ。私もこんなこと言われたいし言いたい。どこかのバーでテニスを語り、青春を論じ、文学について考えるというのはどうや、酒飲んで終わるんじゃないところが良き……

と思った直後に「腹ごなしにパチンコというのはどうや?」っつって全員でパチンコ屋に入っていって草だった。ご馳走食べに行く前にパチンコ屋へ入るな。

 

 

 

そして、夏子よ……。夏子、この女、燎平を翻弄しやがる。だけど端々からにじみ出る「イイ女」感、夏子も祐子もそれぞれ好きになっちゃうよ……

作中の登場人物は結構みんな方言は強めなんですけど、夏子は方言が控えめで、それもなんだか夏子との距離を感じさせるというか、華やかで手の届かないところにいる女という印象を生んでいた。

 

夏子の体重を体の左側に受けて、頬に生温かいものがよぎるのを感じた。燎平は立ち停まり、目をあけて夏子を見た。夏子も目をあけて、燎平を見つめ返していた。

「夏子、いま俺の頬っぺたにキスしたの?」

「そうよ。お礼のキスよ」

「……へえ」

 燎平は自分の頬を指先でさわってから、

「気がつけへんかったから、もういっぺんしてくれよ」

 と言った。夏子はあたりをうかがい、それから笑顔を浮かべて近寄って来、両腕で燎平の頭をかかえ込んで、頬に長いこと唇をつけていた。夏子の全身を包んでいる細かな水滴が、燎平にまといついている水滴と混ざり合ってつぶれ、そこだけ液体になって濡れそぼった。

夏子の全身を包んでいる細かな水滴が、燎平にまといついている水滴と混ざり合ってつぶれ、そこだけ液体になって濡れそぼった。マジでここ……エッチで美しくて天才だった。なにこれ?エッチなのに全然いやらしくない、透明な、あとで何度も思い出す、青春時代の恋ですよ。

初めて出会ったときの夏子も雨に濡れてたんですよね。作中では夏子と燎平の印象的なエピソードのときは雨が降っていることが多かったように思う。この作品は情景描写も豊かでめちゃくちゃいいんですよ、景色、温度、湿度、空の色がある。

 

 

 

燎平は夏子にずっと恋心を抱いてるんですけど、でも夏子は、婚約者がいる別の男(田岡)と恋仲になって寝てしまうんですよね。別に夏子は燎平と付き合ってるわけでも何でもなかったけど、それにしたって自分のことが好きだとわかっている相手にこの言葉はさすがに残酷だと思った。

「きょ年の十一月に、六甲の駅で、燎平私に訊いたでしょう? 夏子は男の人を知ってるのかって。私、正真正銘の処女よって答えたの覚えてる?」

 燎平は桟橋に坐って、海に足をひたしたまま、傍らに立っている夏子を見あげた。

「でも、いまは違う。もう何遍も何遍も、田岡さんに抱かれたわ。真っ裸にされて、何遍も何遍も田岡さんに」

 燎平は、自分の顔が紅潮しているのか青ざめているのかわからなかった。白くふやけたように見える海水の中の足を見つめて黙っていたが、それきり夏子が口を閉ざしてしまったので、そっと顔をあげた。夏子は瞬きひとつせず燎平を見下ろしていた。

もう何遍も何遍も、田岡さんに抱かれたわ。真っ裸にされて、何遍も何遍も田岡さんに、片思いしている女から聞きたくない言葉No.1でしょ。こんなこと言われた日には呆然自失として家帰ってからめちゃくちゃに枕を濡らすと思う。

 

でも、ひどい、ひどすぎるよ~~;;;;;;と思っていたら、少し後で美しすぎる「救済」があって、燎平は救われた。私も救われた。青年をどんぞこに突き落とすのも青春なら、そこから救い上げるのも青春なのかもしれない。

青が散る』は本当に、浮き沈みというか、ストーリー上の起伏のつけ方が本当に見事で、読者を置いてけぼりにすることのない等身大の速度で、残酷な出来事、哀しい出来事、美しい出来事を展開していくんですよね。小説家の技量をさりげなくまんべんなく見せつけられた気持ち。

 

 

 

夏子との恋に燎平が翻弄されている傍ら、だけどこんな言葉も書かれている。青春・恋愛小説とくくってしまうことも可能な小説でこういうことが書かれているのがめちゃくちゃいいんですよ、文学ってサイコー!!

 以前、金子が、人生で最も心ときめくものは恋であると言ったことがあり、それはある種の共感をもたらしたのだったが、いま燎平はそのことに対して漠然と反撥を感じた。恋など、ある部分にすぎないのだと思った。もっと大切なものがあるはずだ、もっと大きなことがあるはずだ。夏子の、人目を魅く、彫りの深い顔を見つめて、燎平は大きく溜息をついた。無為な日々をおくっている気がした。何物かを喪いつづけている気がしたのだった。

喪われている「何物か」ってなんだろう。もっと大切なものってなんだろう、でもこういう理由のわからない「焦り」みたいなのって青年期につきものだよなぁ。ただし、青年期に顕著なものというイメージはあるが、でもこういう焦燥感は一生を通じてつきまとうものかもしれない。

 

 

 

まだまだ言及したいことあるんですけどもう8000字も書いてしまった。人間の駱駝、発狂と自殺、祐子とのこと、ポンクとの試合、教授とのことも書きたかったけどこの辺にしておきます。

 

最後に、森絵都さんが書いた解説にも好きな文章があったので紹介。

 そういえば、そうだった。青春は光に満ちた時代だ、という頑なな思いこみが若い頃にはあって、だからこそ自分の薄暗い青春を嘆いたり、妙な引け目を感じたりしていた。そして大人になればなったでそんな過去など棚に上げ、青春は光に満ちた時代だと再び思いこみ、「若いって、いいな」などと目を細めたりもする。しかし、青春最大の特徴は、光よりもむしろその色濃い影にあるのではないか。

「これ」だよなぁ……。「青春」って言葉で紹介されてる作品ってなんとなく読む前・観る前からさわやかそうなイメージを抱いてしまうけど、青春の本質って「影」なのかもしれない。鬱々として、泥臭くて、吐き気がするほど気分が悪くなるようなことがたくさんある。『青が散る』はそういう作品だった。光と同じくらいかそれ以上に「暗さ」が作品を覆っていた、だけどまごうことない「青春」だった。

 

そこかしこに「色濃い影」が落ちているこの本を「青春小説」と呼んでしまうのって、読後のすがすがしさが理由かもしれない。ハッピーエンドだったという意味ではない。救われなかった人間もいる(というか、わかりやすく「救われた」と言えるような登場人物はゼロかもしれない)。だけど後味の悪さや胸糞悪さはなくて、「ああ、人生って確かにこういうのだよね」っていう普遍性が胸の中にするすると流れ込んでくる感じというか……

なんか、もう、気持ちよかったんです。哀しさとかやるせなさもひっくるめて、読み終わったあと気持ちよかったんです。

良い本だった。宮本輝は小説が上手かった。もう一度大学生をやらせてくれて、ありがとう……

 

 

 

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以下お返事です。1/27にメールフォームよりメッセージお送りいただいたマさんへ(ここを見てるかわからないのですが……)

薄い字にしてるので反転してお読みください↓

メッセージありがとうございます!そして反応が遅くなってしまい申し訳ありません。

お言葉とっても嬉しいです……(;;)マさんのような方に見つけてもらうために書いているようなところもあるので、そう言っていただけると記事を書いた甲斐があります!

RIN好き仲間を見つけられてHAPPYです。周囲の人間に理解されない孤独を描いた作品はたくさんありますけど、RINはその見せ方が鮮やかで衝撃的で、「唯一無二」感が圧倒的なんですよね。しかしなぜか周りに読んでいる人があまり見つからないという……

メッセージ本当にありがとうございました!RINって最高ですよね。

↑ここまで(この文字色薄くして反転して読ませる手法、個人サイト時代からやってますけどまだ生きてますか?)

 

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