まくら

読んだ本や好きな文章の感想

宮本輝『星々の悲しみ』読んだ

以前読んだ『青が散る』がめちゃくちゃ面白かったので、それ以来宮本輝の作品をいくつか読んでいる。

今回は『星々の悲しみ』という短編集を読んだ。

 

 

 

 

好きだったシーンはまず、表題作「星々の悲しみ」の、天体観望のシーン。

レンズの中に煌々と浮かんだ星々の、それぞれ異なった寿命やら光の強さやら、もはやどんな強力な天体望遠鏡ですらとらえることの出来ない、はるか彼方の無限の星の数と星雲の大きさ。

 ぼくは時間も忘れて、望遠鏡にしがみついていた。

「さびしいもんやなァ」

 ぼくは心からそう感じてつぶやいた。

「うん、さびしいもんやろ」

 勇も同じようにつぶやいて、それきり黙ってしまった。

満天の星を見て出てくる言葉が「さびしいもんやなァ」なこと、それに対して当然のように「うん、さびしいもんやろ」と友人から返されること、これが良い。

私だったら多分星空見ても「美しいなぁ」みたいなことしか言えないと思うんですけど、「さびしい」って感想を聞いて初めて、たしかに私たちは星の下で寂しいのかもしれない、と思った。それを感じて言葉にできる主人公(と作者)が羨ましいと思った。

(あえて書くことでもないだろうが、「さびしい」のは星だけじゃなくて、私たち人間も、だと思う。そういうセリフだと思う)

 

 

私は小説だけでなく漫画もめちゃくちゃ読むんだが、経験上漫画でしか得られないもの、文学でしか得られないものってあって、その(純)文学でしか得られないものの一つがこの「さびしいもんやなァ」だと思うんですよね。

 

私の感覚だけど、(大衆向け)漫画と大衆小説は「共感性」が重要で、「ああ、わかるわ〜」「この場面ではそうなるよねぇ」ってなる展開を見せてくれるもの、という印象がある。つまり「登場人物の心の動きに対する意外性」があんまりないんだよね。もちろん考え方がぶっ飛んでるサイコパスキャラもたくさんいるけど、やっぱりほとんどの場合は「クレイジーなキャラ」として予測できる範囲に収まるというか、「胸をつかれるような意外性」に出会うことって少ない。

一方、そういう意外性に出会えることが多いのが純文学で、そしてその意外性は表面的には意外だけど深いところでは理解できる。「ああ、確かにそうかもしれないな」と理屈を超えたところで理解できるものに、純文学では比較的頻繁に出会う。

そういうものが読みたくて文学を読んでいる。

 

この「さびしい」を読んで、吉野弘「I was born」を思い出した。

吉野弘「I was born」(+日記) - まくら

 

 

 

 

もう一つ好きなシーンは、「小旗」の中で、父を亡くした直後の主人公が、交通整理している青年を見るところ。

 青年が道の端に直立不動で立っていた。(……)バスはどちらの方向からも、いっこうにやって来なかった。そのあいだは用事がないのだから、道端に腰を降ろして休憩していればいいのにら青年は身じろぎもせず、片方の手に赤い小旗を持って日差しの中を立ち続けているのである。

 青年の顔が、何かの漫画の主人公に似ているような気がして、ぼくが思い出そうと頭を巡らせ始めたとき、青年は猛然と旗を振りだした。坂道の頂点でバスの屋根が光っていた。青年の仕草があまりに烈しかったので、停車を命じられた対向車が急ブレーキをかけ、運転手が窓から顔を出した。

 青年は、全身全霊を傾けて、自分の仕事を遂行していた。赤い小旗が振られるたびに、ぼくは何もかも忘れて、青年の姿に見入った。そうしているうちに、父が死んだことが、たまらなく哀しく思えてきた。ぼくは、父の死に目に立ち会わなかったことを烈しく悔いた。

それまで父が死んでも悲しそうな素振りを見せなかった「ぼく」が、なぜ小旗を振る青年を見ていたら「たまらなく哀しく思えてきた」のか。

それは、この青年が「生」の象徴だからですね。愚かしいほどひたむきに、些末なことに必死になって取り組む人間、これが宮本輝にとっての「生」なんだろうなぁと思った。

 

青が散る』に出てきた、ボールにスピンを掛け続けたテニスのおじさんと同じですよね。見ていると悲しくなるほど愚直で、しかし烈しく生きているただ一つのもの。

 

あと、「青年の顔が、何かの漫画の主人公に似ているような気がして」というのも示唆的。多分、才能のない主人公がひたすら努力して成功する系のスポ根漫画なんじゃないでしょうか。私の中では、ちばあきお「キャプテン」の谷口みたいなイメージ。谷口好きなんですよね。

 

いいなぁ。宮本輝はこういう、生の中の愚かしさ、愚かしさこそが生み出す命の火みたいなものを書くのが上手いですね。みっともなさと美しさを同時に描いてくれる作品が好きです。