まくら

読んだ本や好きな文章の感想

私じゃないけど私だった 川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

5年ぐらい前に初めて読んだときも「あ〜〜いい本だな〜」とは思ったんですけど、それからいろいろあって、転職して、首都圏にやってきて、すさまじい人混みに揉まれて、友達の結婚式に出て、「人生」をそろそろ真面目に考えるようになった今読んで「私だ」って思った。

 

 

いや、私と主人公の生い立ちや置かれている状況がそっくりというわけではないんですが、でもこの主人公は「あり得る私」なんです。

 

 

主人公の「わたし」の名前は入江冬子で、34歳。フリーランス校閲者をやっている。独身の一人暮らし。元は小さな出版社で校閲の仕事をしていて、そのときの年収は320万。生まれは長野で、性経験は高校3年生のとき、同級生にされたレイプのような1回のみ。化粧はほとんどせず、パーマをかけたことも、海外に出かけたこともない。

一年に一度だけ、誕生日の真夜中に、散歩にでることが楽しみ。でもそんな楽しみなんてきっと誰にも理解されないだろうし、誰かに話したこともない。ふだん話をするような友達もいない。それだけ。自分について話せるのはそれしかなかった。

「自分のことを話すのは好きじゃない?」と聖がからかうように言った。

「そんなんじゃなくて」とわたしは言った。「あんまりないんだよ、ほんとうに」

「じゃあ付きあってる人とかは?」

「今は、いない」

「別れちゃったの?」と聖は眉間にしわを寄せてすこし身を乗りだして、顔をこちらにぐんと近づけてにっこり笑った。聖の首のあたりから香水のふわりとした匂いが漂った。

「うん」とわたしは返事した。

「そっか」

 

聖っていうのは主人公の友人で、大手出版社の社員。主人公に校閲の仕事を回している。美人で、きちんと化粧をして、おしゃれで上質な服を着て、バリバリ仕事をこなして、気が強くて、いろんな男性と関係を持っていて、男性編集者と口論になって論破するような女性。つまり主人公の対極にいるような女性です。

この、エネルギッシュで物言いキツめの聖と、ぼんやりと淡々と生きているように見える主人公の対比が、作品全体を通してとてもよく効いているんですね。

 

上の引用の「別れちゃったの?」って質問も、この文脈からすれば「恋人いたことあるんだ?w」って意味だと思うんですけど、その煽りというか小さな悪意?に主人公は気づかない(ように見える)。

(そしてこの主人公、おそらく恋人いたことないんですが、「別れたの?」という質問に「うん」と答えるこのリアリティがね……胸がグゥってなる)

 

ここより前であった「入江さんはお化粧まったくしてないの? それ?」だとか「あなたは飲まないの? 飲めないの?」だとかいう棘のある言葉から、聖はうっすら主人公のこと馬鹿にしてるんだろうなぁというのが伝わってくる。

だけど聖は完全に嫌な奴として描写されているわけじゃなくて、ああこういう人いるよね、強くてカッコいし私もこうなれたらいいのかもしれないけど、私はそこまで強くないから、その強さを押し付けてこないでほしい。って思わせるこの人物描写がリアルなんです。

 

「石川さんって今さらフェミなの? とか、強い女とかがんばる女とかもう流行らないとか、今までそんなことについてろくに考えたこともないくせにいいかげんなこと平気で言われるわよ。石川さんだからできるのよとかね。あなたみたいにみんなが強いわけじゃないのよ、ほとんどの人は弱いんだから、とか。でもね、そういうのは弱いっていうんじゃなくて、鈍いっていうのよ。わたしのは強さっていうんじゃないわよ。正直っていうのよ。流行りって何よ。そんなの気にして生きたことないわよ。ただこういう性格なだけよ」

「鈍さ」とわたしは小さな声でくりかえした。

 

これだけ聖がバーッとまくしたてるように話しても、主人公の反応はとてもぼんやりしていて鈍い。「そうだね」「そうかもしれない」「いろいろ考えててすごいな」、せいぜい「わかるような気がする」と言う程度。主人公こそ、聖の嫌いな「鈍くてぼおっと生きてる」人間なんじゃないのか?と思ってヒヤヒヤしてたけど、案の定終盤でその回収がありました。

 

 

そしてこの、主人公と聖のサシ飲みが終わって解散するときの描写がこれ。

 聖はわたしを先にタクシーに乗せてくれた。何度か失敗しながら窓を下げて、今日はありがとう、と礼を言って手をふった。聖はすごくうれしそうな顔をして笑ってみせて、こっちこそありがとう、と言いながら腕を伸ばしてわたしの手のさきをきゅっとにぎった。信号が青になって、車が加速しはじめた。わたしは聖ににぎられた指さきをさわりながら、ふりかえって小さくなってゆく聖をみていた。

まずこの「何度か失敗しながら窓を下げて」。窓を下げるのに何度か失敗する、とは…? こういうちょっとした描写で主人公の「鈍さ」に対する解像度が上がるよね。主人公の鈍さ、世間知らずさを説明する描写がたびたび出てきて、そのたびに あ~こういう人、いるよね~と思うと同時に、主人公に対する小さな苛立ちがちょっとずつ溜まっていく(同族嫌悪かもしれない)。

 

そして「わたしは聖ににぎられた指さきをさわりながら、ふりかえって小さくなってゆく聖をみていた」。ここから主人公は決して聖のことを嫌っていない、というか大分好いていることがわかる。あれだけ圧のあるチクチク言葉があったのに? でも主人公はそういう潜んだ悪意に気づかないし(もしかしたら気づかないようにしているだけかもしれないけど)、聖の笑顔と手の温かさのほうを信じる。こういう愚直なところが「ぼんやりしていてムカつく」ところなんだろうし、でも、私もこうなのかもしれないと考えてドキッとする。

 

 

 

 

産んだ女、働く女、産まない女

この作品は、主人公の恋愛(後述)を主軸にしつつ、「女の生き方」ももう一つの軸として扱っていると思う。

この作品に出てくる3人の女、主人公、聖、そして典子という主人公の高校時代の友人が、それぞれ違った「女の生き方」をしていて、それらを比較して読むのが面白い。

 

主人公は恋愛経験がほとんどなく、見た目を女性らしくすることにもあまり興味が無くて、家で淡々と校閲の業務に取り組んでいる。

聖はバリバリ働きながら、「外見だって女おんなして」、誰とでも寝る(という噂がある)。

典子は子供を産んだときに仕事を辞め、それから専業主婦として生きている。そして夫とはセックスレス

 

「(…)家庭にセックスが存在しないの。友達には――自分のことだっていうのは伏せてね、セックスレスで困ってる夫婦ってどう思う? けっこう多いらしいけどって感じで話したことあるんだけどさ、そんなの当りまえじゃないっていう人もいるのよ。家庭なんだからセックスがあるほうがおかしいって、そんなの気持ち悪いって、そんなふうに考える人もいることはいるのよ。だからわたしも、そうかあ、そんなものかなって、まあ日々のほとんどはそんなふうに、あまり考えないでやってきたのよ。でもさ、ふつうに考えてさ、わたし死ぬまでこのまま誰ともセックスしないで生きていくのかなってそんなふうに考えてたら、なんかやっぱりそれは、ふつうのことじゃないような気がしたんだよね」

「うん」わたしはコーヒーをひとくち飲んだ。

「どう思う? 入江くんだったら、なんていうのか……どっちを選ぶ?」

「選ぶ?」わたしは驚いて言った。「選ぶって、何と何を」

「だから」と典子は身を乗りだして顔をこちらに近づけた。

「刺激もセックスもどきどきも何もない、けれども穏やかで、子どもの母親として、死ぬまでそんなふうに生きるそんな毎日と」

 そう言うと典子は黙ってしまった。わたしは黙ったまま話の続きを待った。

「――まあ、そうやって生きていくのかあ、わたしは、って、そういう話」そういうと典子はおおげさに笑ってみせた。

 

ここの「わたしは驚いて言った」って記述がな~~……イラッ……としちゃったな……解像度がすごいよ。

話の流れでわからんか?  わからんか。なんていうか、主人公は相手の話を聞いてはいるんだろうけど、自分と関係のない世界(バリキャリの生き方、結婚、出産、セックス)の話に関して、本当に何も自分から言いたいことがないんだろうな。って感じがする。こういうところが人の神経を逆なでするんだろうな、というのが読んでてわかる……。

 

 

ところで、作中で印象深かったのが主人公と典子のこのやり取り。

「でも、もしわたしに職があって、ある程度の貯金があったら、子どもがいてもさ、もしかしたら離婚したかもしれないなあ。パートとちょっとの養育費じゃ、ぜったいに育てられないもんね。生活できないもの。子どもには罪はないんだし」

「でも、ひとりで子ども育てて、仕事もしてるシングルマザーとか……どうしてるんだろう」とわたしは思いついたことをなんの考えもなしに口にした。すると典子の顔が一瞬こわばるのがはっきりとわかった。

これな……典子はきっと考えたことあるんだろうな。自分の生き方は逃げじゃないのか、甘えじゃないのか、と。そして離婚しないという自分の選択を正当化するために、「子どもに罪はない」という理由を持ち出しているように見える。

「ひとりで子ども育てて、仕事もしてるシングルマザー」の存在によって、典子みたいな人間はうっすらと責められてるような気持ちになるんだろうな。

 

 

そして、主人公との別れ際に典子はこう言う。

「(…)今日なんだかいろいろどうしようもない話いっぱいしちゃったけど、でもね、子どもはほんといいよ。すごくいいよ。わたし、子どもがいるから生きていけるなっていうのは、じっさいあるもの」

「そう」わたしは肯いた。

「なんだかね、自分のあれこれがすうっと消えて、自分のことなんて、どうでもよくなるのよ。やっぱりなんだかんだいったって、子どもがいちばん大事だもの。子どもから学ぶことって、ほんとうにいろいろあるのよ」典子は微笑んで言った。「入江くんは子ども生まないの?」

「子ども?」

「生んだほうがぜったいにいいよ。子どもはぜったいにつくったほうがいいよ」典子はちからをこめて言った。「つくる予定はないの?」

「ないよ」

 そうなんだ、もったいないね、入江くんはぜったいママに向いてると思うなあ、と典子はひとりごとのように言いながら残りのコーヒーを口に運んだ。わたしは黙ったまま窓の外をみていた。

キチ~~~~~~;;;;;;  高校時代の友人からこんなこと言われたらかなりキチィな。そして典子がそれまでした話を読んでからだと、子どもが「すごくいい」と感じるというのは事実だとしても、やはり自分に言い聞かせているように感じてしまう。

 

主人公が前勤めていた会社で隣の席にいた五十代半ばの女性が、「独身で仕事だけをしている女性の気ままさに怒りを感じているみたいで、自分がどれだけの思いをして今の生活を維持しているか、あなたのような人がどれだけ楽をしているのかということをため息をつきながらえんえんと」話してきたように、こうした「女の生き方のススメ」みたいなものが、主人公のような女たちをじわじわ追いつめていく。

こういう三者三様の女の心理描写がとても上手いなあと思うんです。

 

主人公とのサシ飲みで聖が言っていたこの言葉を思い出す。

「偉いけどすごくないとか。逆にすごいけど偉くないとか。独特のルールみたいなものがあるんでしょう。でもまあ、そういうのって、どこにでもあるといえばあるけどね。女だってそれに似たことを言われるじゃん。ほら、子どもを生まないで稼ぐ女はすごいかもしれないけれど、稼げなくても子ども生んだ女は偉いんだっていう、あれよね」

強調引用者。稼ぐ女はすごい、生んだ女は偉い、じゃあこの理屈で言ったときに「すごくもないし偉くもない女」はどう生きればいいのか? という話ですよ。

そしてそれを描いているのがこの本だと思うんです。

 

 

 

 

「小学生みたいなセンチメンタル」から見えるもの

この作品は、主人公の独白部分がとてもとても美しい。文章にリズムがある。悲痛で、汚くない生々しさがあって、透明感がある。か細い悲鳴みたいな文章を書く。

 

さっきの典子と別れたあとの記述。

高校時代のある日々を一緒に過ごした典子の顔を、わたしはもう思いだすことができなくなっていた。おなじ制服を着て、何でもない登下校の道を並んで歩き、いつも右側からきこえてきていた風にふるえるような細い声のきれはしだけがかろうじて残っていたけれど、そのかすかな声の上にも、茶色っぽい口紅をひいてたっぷりと肉のついたあごを手の甲で支え、ため息をついている中年の女性の顔がしだいにおもく覆いかぶさり、瞬きの数がふえるごとに、一秒ごとに、なにもかもがもう遠くなっていくのだった。

読点でつないだ長い一文が特に美しい。

悲しいけど、こういうことはよくあると思う。何でもない登下校の道で話したいろんなことが、塵埃につかれた大人の表情と世俗的な会話の記憶で塗りつぶされていくんですよね。

 

 

この場面のあとの主人公の独白が、苦しくて悲しくて作中屈指の美しさだった。

 わたしはそのまま渋谷まで歩いた。

 天気予報では曇りだといっていたのに、途中で雨が降りだした。(…)おおきな交差点の隅っこに立って、決して途切れようとはしない人の波を眺めていた。

 ひとりきりなんだと、わたしは思った。

 もうずいぶん長いあいだ、わたしはいつもひとりきりだったのだから、これ以上はもうひとりきりになんてなれないことを知っているつもりでいたのに、わたしはそこで、ほんとうにひとりきりだった。こんなにもたくさんの人がいて、こんなにもたくさんの場所があって、こんなに無数の音や色がひしめきあっているのに、わたしが手を伸ばせるものはここにはただのひとつもなかった。わたしを呼び止めるものはただのひとつもなかった。過去にも未来にも、それはどこにも存在しないのだった。そして世界のどこに行ったとしても、それはきっと変わらないのだ。わたしは霧雨にだんだん煙りはじめる灰色の街並みにとりかこまれたまま、動くことができなかった。

悲しい。こんなに悲しくて強い文、そうそうないと思う。

こんなにもたくさんの人がいて、こんなにもたくさんの場所があって、こんなに無数の音や色がひしめきあっているのに、わたしが手を伸ばせるものはここにはただのひとつもなかった。

たくさんのとりかこむものが、自分を置いてすごいスピードで流れていくのを眺めているだけだった主人公の生き方は、でも決して主人公が望んだものではなくて、今の生活に満足しているわけでもない、だけどこれ以外の生き方を知らないしどうしていいのかもわからないという、その漠然とした苦痛と不安? いったいどうしたらいいんだろう、わたしたちは?

 

 

 

だけど、そんな主人公が恋をした。ずっと受動的だった主人公が、おそらく初めて自分から欲しいものに近づいていこうとした。

 

主人公は、カルチャーセンターで出会った男性・三束(みつつか)さんと、ときどき喫茶店で会うようになる。その三束さんへの恋の仕方が、ものすごく素朴で、思わず大切にしたくなるようなものなんですね。

わたしたちは店をでて、駅までの道を並んで歩いた。

(…)

 夜のなかにはいつものようにあちこちに光が点在していて、わたしは交互に足を前にやりながらそれらをみるともなしに眺めていた。

 わたしは冬の真夜中の、誕生日のあの散歩のことを思いだした。

 耳をすませばきこえるくらいの冷たさのなかで、乾いているけれどしかしとくべつなものだけでどこまでも潤んでいる空気のなかで、光を数えて歩くあの真夜中のことを思いだしていた。もうすこし時間がたてば夏のいちばん熱いところがきて、終わって、秋がやってきて、それが去ってしまうと、冬になる。そうしたらまた、あの真夜中がやってくるのだ。そんなことを夜道をゆく胸のなかに巡らせながら隣をふとみると、三束さんの白いポロシャツの肩から背中にかけて、うっすらと白く発光しているようにみえた。

 それはまるで冬の匂いのような光りかただった。

 そこらじゅうに漂っている夏のなかには看板や街灯や車のライトや数え切れないくらいのたくさんの光が浮かんでいたけれど、三束さんのポロシャツからにじんでいたのは夏の夜のものではなかった。

こんな「恋の始まり方」が、あるんですよ。「冬の匂いのような光りかた」。ティーンみたいな淡い恋を34歳がしている、でもそれって誰からも馬鹿にされるようなことじゃないよな。

 

 

三束さんがわたしのことを冬子さんと呼んでくれるようになってから、わたしと三束さんは何度も会うようになった。木曜日だけ、三束さんのいる喫茶店にわたしがでかけていくだけだったのが、約束をしたわけでも確認をしたわけでもなんでもなかったけれど、そこにいつのまにか日曜日の夕方がつけたされ、わたしは週に二度、三束さんに会えるようになった。

 わたしは三束さんの年齢が五十八歳なのを知り、十二月十日生まれなのを知り、若いころに流行ったインベーダーゲームで記録的な高得点を叩きだしたことがあるのを知り、食べ物には好き嫌いが何もないこと、ふだん間食をしないこと、学生の頃にちょっとだけバスケットボールをしていたこと、フォークソングが苦手だったこと、東京生まれであること、身長が百七十三センチであること、骨を一度も折ったことがなく、どこかを縫ったりしたこともないこと、それから血液型がA型であることを知った。(…)わたしたちはお互いにお互いを構成するものをすこしずつ交換しながら、わたしは三束さんの記憶につまさきをそっと入れてゆく思いだった。

初恋って、こういうものかもしれない。こんなふうに相手について知っていく過程を恋と呼ぶのに昔から萌えるんですよね。特に年齢とか身長とか誕生日といった数値化できるもの〈以外〉を知っていく過程に萌えます。これはおそらくあさのあつこ『NO.6』小川洋子からの影響によるものですが。

 

 

そして続く情景描写が、ため息がでるほど美しい。

 帰り道は、淋しかった。

 人からみればなんでもない夕方と夜のさかいめを、けれどもふたりでゆっくりときりひらいていくように思えてしまう青い薄暮は、つかのま、三束さんとわたしをおなじ色にした。三束さんはいつもおなじように手をふって、いつもおなじように階段への角をまがって消えていった。わたしは何か言いたいのだけれど、もっと何かを伝えたいのだけれど、それが言葉になるまえに、それが音になって空気をふるわせるまえに、三束さんはいつだって角をまがって消えていくのだった。

「恋」だよ………………としか言えねえ。もどかしい。あまずっぱい。こんなほのかな、痛切な、夏の終わりの夕暮れみたいな「恋」を読み、うめくことしかできない。

人からみればなんでもない夕方と夜のさかいめを、けれどもふたりでゆっくりときりひらいていくように思えてしまう青い薄暮」。なにこれ?  これが「文学」だよ。

 

 

 

 

そしてやはり作中のクライマックスとなる場面(記述)は、主人公と三束さんがレストランに行った帰り道と、レストランから帰宅した主人公と聖のやりとり。

 

三束さんとの帰り道での描写はちょっともうすごすぎて引用しがたいので、気になる人は直接読んでみてほしいんですが、一節だけ引用します。

 

“涙は夜を目指す生きもののようにわたしの頬を這い、あとからあとから流れていった。”

 

夜を目指す生きもの」としての涙。こんな表現……私もできるようになりたい。

『すべて真夜中の恋人たち』というタイトルにあるように、作中では「夜」とその中にある「光」がキーワードとして繰り返し登場する。そうした下地がこういうところで生きてくるんですよね……。

 

 

 

そして主人公が幸福な気分で帰宅したところ、アパートの前で待っていた聖と会う。主人公は聖を部屋に上げる。序盤で匂わせられていた、聖から主人公への悪意が、ここでのやり取りで爆発する。

「治ったんなら、連絡くれてもよかったんじゃないの」と聖は冷たい声で言った。「刊行ラッシュで大変な時期なのにこっちは融通きかせてるのよ。せめて状況とか、今度の予定ぐらい連絡してもいいんじゃないの」

「ごめんなさい」とわたしは謝った。

「わたし、何かむずかしいこと言ってる?」

「ううん」とわたしは首をふった。「当然のことを言ってる」

「じゃあなんでしないのよ」と聖は言った。

 わたしは何も答えられないまま、黙りこんでしまった。

主人公は体調不良を理由に、聖に仕事を減らしてもらっていた。そんな主人公を心配して聖は何度も連絡をいれていたが、主人公はあまり連絡を返さなかった。連絡をしなかったのは主人公の落ち度だし、聖が言っているのは当然のことだが、この聖の「詰め方」に震える。この時点で今後の展開に嫌な予感しかしない。これまで他者に向いていた聖の敵意が主人公に容赦なく向けられるという予感の通りに、話は展開する。

 

「(…)それより、あなたの大切な恋愛の話をしましょうよ。相手はあなたに気はあるの? どうなの?」すこしあとで聖は妙に明るい顔をして言った。(…)

「なんだ、言ったのね。――それでむこうはなんて?」

「べつに」

「付きあおうとか、なかったの」

「そういうのじゃなくて」

「じゃあ寝たの?」

 わたしは聖の顔をみた。

「そういうのじゃないから」

「まだ寝てないんなら、とりあえず寝てみればいいじゃない」と聖は口元だけを使って笑ってみせた。「少なくとも、すっきりはすると思うわよ。色々。やってみなよ。色んなことが動きだすし、はっきりするんだよ。そういうのってべつに女から言うのってふつうだよ」

聖と主人公との価値観の違いが、ここで再度浮き彫りになる。寝ることで関係が動きだすという聖の言葉も一理あるが、主人公の言う「そういうのじゃない」という意味も、ここまで読んできた読者(私)にはわかっている。聖のような関係の築き方もあるし、主人公のような恋の仕方もあって、それはどちらかがどちらかによって否定されるものではないと思う。

 

「ただその人のことがすきなだけ」と言った主人公に対して、聖はこう言う。

「――片思いか何か知らないけど、でも、あなたはその人と寝たいんじゃないの?」と聖が言い、鼻をすんと鳴らすのがきこえた。

「まるきり全然、もうまったく寝たくもないって思ってるんだったらそりゃあ失礼したわよ。でもまあ、すきって生身の相手に言うくらいなんだから何とかなりたい気持ちはあるわけでしょ。そんなの当然じゃない。それはどうなの? あなたが自分のほんとうの気持ちを引きうけて自分で行動を起こして、それで断られて玉砕してそんなどろどろの顔して帰ってきたっていうんならわたしすごいと思うわよ。すごくがんばったと思うもの。でもけっきょく傷つくのがこわいのか何なのか知らないけど、安全なところからはでないでおいて相手に気持ちを汲んでもらって、それで小学生みたいなセンチメンタルにどっぷりひたってじぶんの欲望を美化して気持ちよくなってるのがはたからみてて、すごくいやなんだよね。きれいごとってそんなにいい? 何がいいの? 軽くみられるのがいやなの? 何か大事なものを守ってるように男にみられたいの? 誰にみられたいの? そういう自分がすきなの? 言っとくけど、それってただのグロテスクだよ」

「人の気持ちはもっと複雑だし、関係だって……いろいろあるでしょう」とわたしは言葉につまりながら言った。「大事なものは、ひとそれぞれ違うでしょう……それに、なぜあなたに、がんばったって……言ってもらわなきゃいけないの」

じっさい、引用はしなかったけど、主人公は三束さんと寝ることを夢見ていた。そのうえで「ただ好きなだけ」と言うのは、聖のような人間にとっては「小学生みたいなセンチメンタルにどっぷりひたってじぶんの欲望を美化して気持ちよくなってる」ように見えるんだろう。ものすごく手厳しい言葉だ。

 

それはある意味事実かもしれないが、でもここまで読んできた読者(私)からしたら本当に「そういうのじゃない」んだよな。主人公は三束さんのことがただ好きであるというその気持ちを大事にしていて、「関係をはっきりさせたい」とかそういうんじゃない。三束さんのシャツの光りかたや、自分の名前を呼ぶ声や、喫茶店で交わした会話なんかがまずあって、恋しい気持ちが募って、そこからより深くつながりたい(=寝たい)という気持ちに発展したのであって、そういう複雑な過程や「大事なもの」を全部すっ飛ばして「それってただのグロテスクだよ」なんて、なんで言われなきゃならないんだよ!!????!???!??って叫びながらこのあたりは読んだ。

 

聖はきっと結論に早くたどり着くことが重要で、それに対して主人公は過程を大事にしているんだろう。

「まず寝てみる恋愛」とそうじゃない恋愛には、それぞれ得られるものと得られないものがある。前者が大人の恋愛、後者が子供の恋愛と世間では見られるかもしれないが、この作品ではその二つをわかりやすく対比させながら、後者の恋愛のはかなさと、はかなさゆえの美しさを描いていたと思った。だけど後者の方が前者より神聖だとか上等だとかいうわけではまったくなく、それこそ「大事なものは、ひとそれぞれ違う」なんだよな。うまくまとめられない。

 

 

 

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最近は

村上春樹騎士団長殺し』を読み返している。やっぱりよくわかりはしないが面白い。そういえば村上春樹の作品って少女はよく出るが少年ってほとんど出ないな、『海辺のカフカ』の主人公ぐらいか? とこれ読んで思った。あと以前の記事(村上春樹『一人称単数』読んだ - まくら)で「村上春樹作品で日本文学への言及がされるのは珍しい」みたいなこと書いたが、『騎士団長殺し』でがっつり上田秋成(『雨月物語』の作者)の『春雨物語』への言及があった。完全に忘れていました。

・小林美代子「髪の花」を図書館で借りて読んだ。精神病院が舞台となった話。文章には水に濡れた百合みたいな美しさがあるが、あまりにやるせなくて読んでいてしんどくなってしまった。

・漫画アプリで『ガラスの仮面』を読み返しているが、やはり名作。北島マヤの狂気じみた演技への執着と、他の追随を許さないほどの才能の描写に震える。「女海賊ビアンカ」とか「ふたりの王女」って実際にある劇だと思っていたんだけど、作者の美内すずえさんの創作だったんだ……知らなかった……

小島信夫抱擁家族』も借りてきたので、明日からはこれを読む。