まくら

読んだ本や好きな文章の感想

桜庭一樹『私の男』 どエロい。

近親相姦かくあるべし、というような本だった。私はこれ読むまで別に近親相姦ものは好きでも嫌いでもなかったし、読み終わった後でも好きでも嫌いでもないが、「父と娘の近親相姦なら『こう』じゃねえとな。」と思った。

 

もう序盤の「匂わせ」描写がほんと~~~~~~~~~~~~~~にエロかった。エッチでもスケベでもなくて「エロい」。会社の休み時間に読んでたんだけどエロ過ぎて午後の仕事全然集中できなかった。

 

 

大まかな内容としては、災害によって孤児になった少女・を、花の親戚筋で16歳年上の男・淳悟が引き取って親子になる。24歳の花が結婚する話から物語は始まって、だんだんと過去にさかのぼっていく、という構成になっています。

 

 

 

 

 

 

そりゃ好きだよ、淳悟のこと・・・・・・・

 

「けっこん、おめでとう。花」

「ありがとう、淳悟。……いま、傘をぬすんだでしょ」

 怒られて、男は不思議そうにわたしを見た。革靴が濡れて、肩先も雨脚をつよめた粒に湿り始めた。淳悟は自分のことなど気にもせずに、わたしだけにまっすぐに傘を差しだしている。(…)ふるびた、優雅ではあるけれどみじめな男からは、この十五年間ずっとそうだったように、降りつづく雨のような湿った匂いがした。それが、この男の体臭なのだ。

「おまえが、濡れるといけないと思って。花」

 低い声は、なにかおもしろがっているように、すこし震えていた。傘の下で、肩を寄せあって、薄暗い並木通りを歩きだした。顔を見上げるたびに、こころが暗く沈みこむのに、肩と肩が軽く触れただけで、からだは、勝手に、喜んでしまう。

作品冒頭(書き出しではない)からの引用ですが。もうすでにめちゃくちゃエロい。

「わたしのためにためらいなく傘を盗んで、わたしが濡れないようにと差し出してくる、降りつづく雨の匂いのする、ふるびていて優雅な“私の男”」、完璧か? 淳悟を言い表すのに「優雅」っていう言葉がしばしば出てくるんですが、これが本当に重要だと思うんですよね。だらしなくて、ふるびてて、傷んでるのに、優雅。そんな男……そんな男……好きになっちゃうじゃん。

 

その男の「顔を見上げるたびに、こころが暗く沈みこむのに、肩と肩が軽く触れただけで、からだは、勝手に、喜んでしまう。あのね………………………もう満足です。

なんだろう、この、社会からは排除されてる人間の美しさといやらしさを私だけが知っているという、背徳感と優越感みたいなもの? それがもう冒頭数ページで“““解る”””んですよね。

 

 

淳悟の描写がどれも本当にいい、いいというか私の「好み」。

 ようやく、神前式が始まった。美郎の父と並んでみると、淳悟はとても花嫁の父には見えなかった。まるでとなりに立つ壮年の男の、不肖の息子のようだった。(…)淳悟の、無気力でだらけた様子があからさまになっていった。みんなの前で情けなさをさらす、わたしのたったひとりの親族。そのひとりきりの退廃に、こっそり、みとれた。私の男は、やっぱり、だらしなくてもうつくしかった。

やっぱり「私だけが知っている」、「私だけの男」、それが強調されるんですよ。繰り返し繰り返し。別にこういう男が好きだという意識はなかったのに、「こういう男、そりゃ好きだよ!!!!!」って叫ばされてしまう。

 

 

淳悟の話し方もいいんだよ。

淳悟は片手を上げてわたしに合図をして、それきり、壁にだらしなくもたれてうつむいた。ほそい指に煙草をさはさんで、唇にくわえ、安物のライターで火をつける。ため息のようにゆっくりと煙を吐いてから、ふとわたしを見る。

「なに、泣いてんの。おまえ」

(…)

「ねぇ、おとうさん。わたし、結婚しちゃったら、死んじゃっても、おとうさんと同じお墓に入れないね。骨になったら、離れちゃう」

「いったいなんの話だよ?」

 淳悟が笑いだした。むかしに戻ったような、快活で曇りのない笑い声だった。(…)

「血が繋がってるんだから、いいじゃないか。気にするなよ」

「親子ってのはさ、いつか、離れていくものなんだ」

「どうして。だって、動物の親子じゃないんだから」

「いや、動物さ……。俺とおまえは……」

「そんなこと、ないってば……」

こんな話し方の男、好きすぎる………………………………

 

これ、花の結婚式での会話なんですよね。花の心は明らかに新郎の美郎よりも淳悟に向いていて、それを隠そうともしない。長い間愛し合ってきた恋人同士のような会話を、父親と、自分の結婚式でしてしまうという、この倒錯具合というか。ゾクゾクして好き。おかしいもん。花と淳悟は本当にずっと二人きりで生きてきたんだなって、1章だけでとことんわからされた。

お色直しのあと、おそらくスタッフたちがたくさんいる中で淳悟が花を抱きしめたときに、誰もが見ていない振りをしていたって書かれるのがスゲ~好きなんですよね。親子の抱擁をほほえましく見守るんじゃなくて、見て見ぬふりをするって、それだけ直視してはいけないような雰囲気が花と淳悟から出ていたということなんだろう。

 

 

 

 

「匂わせ」って、エロすぎる

私がマジでどエロいなと思ったのが、花が高校生のころで淳悟視点で書かれる第3章。その中の直接的な性行為「以外」の描写。

 

 起き上がり、箱から一本、取りだす。裸の胸元が汗でべたついていた。布団は二人分の汗を吸って、もわりと湿気っている。畳の上におかれた、黒いプラスチックのゴミ箱が煙草の空箱やティッシュでいっぱいになっていた。煙草をつまんだ右手の人差し指と中指を、ゆっくりと唇に近づけると、指先から女の匂いがした。火をつけると煙草の煙と入り混じって、昨夜の残り香のようなそれは薄らいでいった。

まず、真夏、東京の古びたアパート、畳敷きの四畳半、二人分の汗を吸った夏布団。

オタクたちがよく言っている「ぼろいアパートでの汗だくセックス」の良さ、初めてわかった。あのね、この二人に関しては、そういう「退廃的な」「体液でべたついた」「二人きりの逃避行」みたいな要素がすっっっっっっっっごく似合っている。誰も訪れない狭い古い部屋でお互いの体液なめてるだけで生きていける、みたいな閉鎖性。

 

そしてこの、これですよ。

 

煙草をつまんだ右手の人差し指と中指を、ゆっくりと唇に近づけると、指先から女の匂いがした。

 

もうこの描写が作中で一番エロくないですか? これぐらいの匂わせが世界で一番エロい。人差し指と中指からする、女の匂い!!!!! 下品!!!!!!!! かなり直接的なのに、抽象度が高くもあって、こういう「匂わせ」が私は大好きなんです。

 

「中指の匂い」というのは木下龍也の短歌でも読んだことがある。

なかゆびに君の匂いが残ってるような気がする雨の三叉路

『きみを嫌いな奴はクズだよ』より。これはだいぶ情緒あるというか、下品というほどではないと感じる。ほのかなエロティシズム、という感じ。

でも『私の男』はな~~なんだろうな~~~なんでこんなエロいんだろう。

 

 

白いちいさな顔に、長い黒髪が垂れ落ちてきた。窓の外で蝉が鳴き始めた。じりじりとした暑さが部屋を覆いつくしていく。「起きろよ」と布団をはぐと、見慣れた自分の裸と、花の湿った白いからだが現れた。汗に濡れた乳房が、湿った敷き布団の上でやわらかくつぶれていた。布団の中から汗と、体液が入り混じった、夜がすえたような空気がもれた。

ここもどエロい。当然のように同じ布団、当然のようにお互い全裸、そして花のみずみずしい白い肉体、高校生の自分の娘。エロすぎて頭おかしくなるが?

花の肉体が「湿った白いからだ」とか「雪のように白くて水気をふくんでい」るとか描かれるのは、第1章などで淳悟の肉体が「カサカサと乾いている」のように描写されるのとの対比なんだろう。

 

 

より直接的(?)な性描写では、このあたりが好き。

雨のせいで、夜になると夏の暑さは湿気をふくんで、皮膚が熱を持ってべたついた。敷き布団が吸いきれない汗が、シーツの上にたまって汗のプールになった。どちらの汗か、体液かわからないものを体中になすりつけあいながら絡まると、花が獣のような大声を上げた。(…)乱暴な愛撫にも、花のほそいからだは、ひるまず、どこまでもついてきた。もっと、もっと、と欲望が奈落に落ちるように貪欲にのびた。いまでは俺と花は互いのからだをよく知っていて、隠し場所のわからないものをゆっくり探しあうような時間は必要なかった。少し前まではもっと子供で、いつも受身だったのに、花の肉はこの半年ほどで嘘のように、こなれた。まるで自分とそう年のちがわない大人の女と睦みあっているようだ。それで俺は、朝がくるたびに、都立高校の制服を着た花を見てあきれてわらってしまうのだ。

性描写がエロいというか、「昼間は都立高校の制服を着ている花」が、夜な夜な父親と獣みたいなセックスをしているというのがエロい。「花の肉はこの半年ほどで嘘のように、こなれた」←これスゲーエロい

 

 

そしてこのあたり、花目線で語られる第1章の記述と矛盾があるというか、二人の認識の齟齬または変化があるなと2周目読んで気づいたんですよね。

ずいぶんむかしに、この男の欲を自分の義務のように感じて、おうじていた時期があった。まだ、子供だった。大人のくせに、淳悟は牡犬のように煩かった。いつまでもいつまでも終わらなかった。(第1章)

第1章だけ読むと、花と淳悟のセックスはもっぱら淳悟が求めていたもので、花は淳悟の性欲に応じているうちにストックホルム症候群みたいになったのかな……という印象を受けるが、第3章ではまたその印象が変わってくる。

ただ1章と3章では語り手も時代も違うので、作品として矛盾しているわけでは決してない。淳悟から見た花と花から見た淳悟、そして高校生の花と24歳の花は違うから。

 

このさ~~「だんだん過去にさかのぼっていく」という作品の構成がとても効果的だと思うんですよね。結婚して淳悟を〈捨てる〉花が、過去、どんなふうに淳悟と睦みあっていたのか。どれだけ緊密に絡まりあっていたのか。最終的に花と淳悟が離れ離れになることを知っている状態でそれを読むのがね……「切なくてゾクゾクする」んすわ………………

これは私の性癖なんですが、冒頭で登場人物たちの別離が示されたあとで、「幸福な過去」に話がさかのぼる作品がスゲ―好きなんですよね。「スゲーHAPPY!でもこの後この二人はバラバラになるんだよな。」と思いながら読むのがたまらない。山うた『兎が二匹』という作品がそれです。(→漫画「兎が二匹」特設サイト

 

 

 

 

気持ち悪いのに、うらやましい

自分の父親と性的な関係になりたいとは微塵もこれっぽっちも思わないが、自分と血のつながっている、自分だけの男と、その男だけの自分になって、お互いだけをむさぼりあうようにして生きていけるなら、そんなに幸福なことはないかもしれないと思った。思わされてしまった。

 

「この世で、おまえを愛している男は、俺だけだ。血が、繋がってる。他人の男にそれを求めたって、無理だ」

「でも、べつに、男の人になんか愛されなくってもいいの。女って、安定さえしてたら、ちゃんと生きていけるものよ

「……嘘だろ、それは」

 はなから信じていないような、乾いた笑い声が響いた。

「そんな女、いるもんか」

(第1章 2008年6月 花と、ふるいカメラ)

僕は、学生時代に恋人の菜穂子と見に行った絵画展で、こんな絵を見たな、と思いだした。二つのべつべつの鉢から生えたほそい貧相な木が、鉢を近くにおきすぎたせいで途中から絡まって、一本の木みたいになって上にのびているのだ。剪定もされず、無駄な枝や花弁や実に疲れきって、二本とも乾いて痩せていた。どちらがどちらを支えているのか、互いに困っているのか、必要としあっているのかもよくわからない。それはなんともグロテスクなフォルムだった。

(…)

 菜穂子はぼんやりと頬杖をついて、からっぽの皿を見下ろしていた。

「美郎くん、わたし、あの絵を見たときね。あぁ、こんなふうに誰かと、お互いに寄りかかって生きていけたらいいなぁ、って思ったんだぁ。まだ若かったし、いろいろわかってなかったけど。なんていうか、運命的で、いやなかんじがして、憧れたの」

「ふぅん」

「これってさ、大人の女としては、間違ってるのかな。うちのお母さんも、女の自立、ってよく言うけど。わたし、でも、自立なんてしたくないよ、って思うこともある。もっと、誰かとずっといっしょに、どうしようもない生き方がしたいって……」

 菜穂子は頬杖をついたまま、つまらなさそうにつぶやいた。

(第2章 2005年11月 美郎と、ふるい死体)

 

強調引用者。強調部は異なる人のセリフだけど、明らかに対比的で、そしてこの本では「誰かとずっといっしょに、どうしようもない生き方」をすることの泥沼みたいな魅力が書かれているんですよね。

そうなんだよな。私は安定した、誰にも依存しない生活をしたいという気持ちを昔からもっているが、この本を読んで、う、うらやましい………………………になってしまった。それこそ、「運命的で、いやなかんじがして、憧れた」。外から見ればグロテスクでおぞましいのに、いっかいその中に身を浸してしまえば、幸福なんだろうなぁ。水槽の中の脳みたいに。

 

ちなみに1個目の引用、淳悟の「おまえを愛している男は、俺だけだ。血が、繋がってる」に対して、花は「でも、べつに、男の人になんか愛されなくってもいいの」って返すけど、ここもよく考えたらおかしいなと今気づいた。

淳悟の論法だと「血が繋がってる人間しかお前を愛さない」ということになるが、それを花は否定しないんですね。「血が繋がっていなくても、愛してくれる人はいるわ」とかって返すんじゃなくて、淳悟以外の男から愛されることはないと、認めてしまっている。ズブズブだ。

 

 

こんな感じで、私だって………私だって………私だって淳悟ほしいよ!!!!!!!!!!!!!!と思っていたら、第4章でその頭をぶん殴られた。

第4章の時点では、花はもうすぐ16歳になる高校生で、淳悟といっしょに北海道の北東にある紋別町という町に住んでいる。そこで、大塩さんという男性に花と淳悟の関係を知られてしまう。その大塩さんが花に向けて叫んだ言葉。

「世の中には、けして、してはならんことがある。子供にはわからんでも、大人が見本を見せんといかん。あの男も、あんたも、家族を知らんのだ。家族ってえのは、なにもあんなことをせんでも、いっしょにいられるもんなんだ。あれは、人間じゃない。わしは見た。ありゃあ、獣のすることだ。あんた自身は、悪い子じゃあない。だから、ほんとうに、忘れんといかんヨ。悪い夢だったと思って……紋別には、もう帰ってきたらいかんヨ。一度は、暁の嫁にとまで思った子だ。可哀相な、子だ……。あんた、あんた……あんたヨォ……」

 

家族ってえのは、なにもあんなことをせんでも、いっしょにいられるもんなんだ」。この言葉ですよね………。花も淳悟も〈欠損家庭〉で育って、幼少期に家族と円満な関係を築けていない。親子はセックスなんてしなくたっていっしょにいられるのだ、いっしょにいていいのだ、ということを知らない。

4章までは、二人きりで堕落できる幸福な二人、というふうに花と淳悟を見ていたが、ここで「悲しい人間たち」になってしまった。だけどやっぱり二人はこの状態で幸福なんだから、外野が口を出すものでもないと思った。そもそものべき論と、今あるものをどうしていくか論は別物だから。

 

 

そして、このあとの花と淳悟の描写がなぁ……

わたしは淳悟の足元にひれ伏したままで、震えながら、両手をのばした。ズボンのベルトに手をかけて、はずそうとしたら、おとうさんがおどろいたような顔をした。私の顔を覗きこんで、「どうした」と聞く。

「おとうさんが、ほしいの。すごく」

(…)

手のひらで、やさしく頭を撫でられる。涙がしみでてきた。だめなんだよォ、と叫ぶ大塩さんの声と、甲高くもの悲しいカモメの鳴き声が、耳によみがえった。わたしはあたたかくて硬いおとうさんにしがみついて、溺れまいとした。腕をのばして淳悟の腰骨に、胸に、触れて熱を確かめた。わたしたちは生きていて、わたしたちはあたたかい。流氷の凍るようなつめたさが、居間の床からひたひたと押しよせてくるようで、頭の上から響く、淳悟の低い、甘い吐息だけが頼りだった。

 

わたしたちは生きていて、わたしたちはあたたかい。」ならもう、この二人から何も奪えないと思った。欠損している人間たちが、どうもがきながら、ときには倫理的に逸脱しながらも幸福を目指すか、そういう物語を私は読みたい。

 

 

「家族はそんなことをしないでもいっしょにいられる」という言葉は、第3章のこの記述にもつながってくる。

花はなんども俺の名前を呼んだ。こんなことはこれまでなかった……。ここまでして絡みあわないと、ひとつになろうとしないと、ふたつのからだはどんどん離れていくようで、ひたひたと恐怖が押しよせてきた。まるでふたつのべつべつの流氷に乗って、海流に流されてすこしずつ離れていくように。遠ざかる。すこしずつ。見失う。いやなのに。

「ふたつのべつべつの流氷に乗って、海流に流されてすこしずつ離れていく」というのも第4章とつながる表現ですね。この本は作中でいろんな言葉がリンクしていて、技巧的だな~と思った。こういう象徴的な言葉やメタファーがちりばめられて繋がっていく作品好き。

 

 

 

淫奔な聖女

上で引用した、「まるで自分とそう年のちがわない大人の女と睦みあっているようだ。それで俺は、朝がくるたびに、都立高校の制服を着た花を見てあきれてわらってしまう」もそうだけど、この本で花は純朴な女子高生にもなれば、性的に熟れきった女にもなる。これがね……こういうの……私、好きなんですよ。

「おとうさんも、むかし、自分のおとうさんとおかあさんをなくしたの。海と、陸で。わたしたち、みなしごの親子なのよ」

 僕には読みきれない、迷うような、恨むような、奇妙にねばついた目つきだった。このとき、年下の地味な女の子のからだから、はるか年上の、男に慣れた年増女みたいなおかしな色気が立ちのぼっているように見えた。(第2章)

エロいよな……こういうの……。花が「地味」で「奥手」っぽい見た目をしていることは、作中でなんども強調されていたが、やはり夜との対比でエロさを出すためなのかな。

 

 

娘でもあれば、妻でもある。そして、これは第5章以降でわかってくるんですが、娘は母にもなる。

しかしこのあたりが私にはよくわからなかった。娘の中に母を見出すというのは、どうかな……無理があるというより、理論が作品に先立ってあるような印象を受けた。

私はもっと、そんな理屈だった話ではなく、もっと本能的な、獣みたいな話で終始してほしかった。

 

自分と同じ血が流れてる、なのに女だ、と思うと、どうしてこんなにたまらない気持ちになるのかな。どうしてかな。誰か、知ってるだろうか……

この淳悟の言葉はしっくりきたが。こういう、本能と欲求みたいな、根源的なものがぐちゃぐちゃにまざりあうことを描いた物語だと思ったので、「わたしは淳悟の、娘で、母で、血の詰まった袋だった」みたいな概念的な表現はしっくりこなかった。

 

淳悟が花に触れる前に「祈る」ことだとか、「この人しかいないという、信仰にも似た、確信」(第1章)、「娘は、父の穢れた神だ」(第4章)あたりの、信仰や宗教になぞらえた表現もピンとこなかった。信仰だったのかな?  信仰だったのかもしれないが。なんだろう、私の中で「信仰」と「性欲」はかなり相反するものだから違和感があるのだろうか。

 

 

 

 

ほか、思ったこと

「嵐」という言葉って現代ではあんまり頻繁には使われないと思うんだけど、この本ではしばしば出てきた。

花の背後には、なぜか嵐の気配があった。」(第2章)

天気予報で、東京は夜から激しい雨だって。嵐が、近づいてるんだ。」(第3章)

花は青白い人差し指で、ただまっすぐに海を指差している。/『嵐が、くるよ』」(第5章)

そして第6章の副題は、「1993年7月 花と、嵐」

 

これはやはり「花に嵐」ということで、花と淳悟に訪れる「別れ」を強調しているのだろうか?

*唐の詩人・于武陵(うぶりょう)の「勸酒」という詩の中に、「花發多風雨 人生足別離(花ひらけば風雨多し 人生別離足る)」という句がある。これを井伏鱒二が「花に嵐のたとえもあるぞ 『さよなら』だけが人生だ」と訳したのが有名。(参考:別れを祝祭に変える。井伏鱒二(いぶせ ますじ)の“力”のある言葉 | ダ・ヴィンチWeb

 

 

●「胸の辺りまでのばした黒い髪を、きつく編んでいたのを指でほぐして、首を左右に振った。かじかんだ手から、リボンが風にさらわれて、飛んだ。見上げると、湿った冬の風にあおられた黒髪がぶわあっ……と勝手に意思を持ったようにうごめいて、舞い上がり、わたしの顔を隠してしまった。」(第4章)

強調引用者。ここの書き方、不思議だなと思った。普通、花の目線で書くなら、「わたしの顔を隠してしまった」じゃなくて「視界を覆い隠してしまった」とかにならない? なのにここは急に、花以外の誰かが花を見ているような書き方になっている。でもその書き方のために、絵に描けそうなぐらいはっきり映像が浮かんだ。ゆるくウェーブのかかった黒髪が舞い上がって、そのために顎を上げた女子高生の表情は隠され、後ろには暗い曇天が広がっている。

 

 

●「まだ欲しい、と、もう要らない、しかないんですよ。俺……。飽きちゃうしねぇ……」第5章の淳悟のこの言葉がすごく好き。なんか…めちゃくちゃ淳悟っぽくないですか? こういうこと言う男が、好きだよ。

「まだ欲しい」はきっと花のことで、「もう要らない」はきっと今の恋人・小町さん(と、花の母親)のこと。この言葉を小町さんが聞くっていう皮肉もいい。

 

 

●近親相姦をこの深さで書くなら、きっと母と息子ではだめだったろうな。母が求めるにしろ、息子が求めるにしろ、年齢もしくは性による加害性が生じる。それを二重の弱者である「娘」が求めるからこそ、この物語は、というか物語としての近親相姦は成立するんだろうと思った。

 

 

 

やっぱり私、こういう「まっとうでない家族」を描いた物語が好きなんだよな。アンダーザローズ、秘密、万引き家族、怪物。血のつながりのある人間たちが反発し合い引き合いながらぐちゃぐちゃになって生きるのも、血のつながりのない人間たちが家族になろうともがくのも、どっちも好きだ……。