まくら

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上野千鶴子・小倉千加子・富岡多惠子『男流文学論』(2)――吉行淳之介『砂の上の植物群』

(1)はこちら。

 

吉行淳之介砂の上の植物群』を読みました。

吉行淳之介の小説を読んだのはこれが初めてです。

 

砂の上の植物群』では、亡き父の影に囚われている三十七歳のセールスマン伊木が処女の女子高生(明子)とやったり、明子の姉の京子とSM的性行為をしたりします。この姉妹との関係を物語の主軸としつつ、友達が痴漢でつかまる話や素人娘のオナニーショーなどのエピソードが挿入されます。後半では京子が自分の異母妹ではないかという疑念が持ち上がり、近親相姦(=「父親の遺した兇器」)の恐怖に怯えますが、結局京子は自分の妹ではなかったことがわかる。しかし伊木はなお父親の影を感じ、それを振り払おうとする……という話です。

 

という話なんですが……これ2周したんですが結局何を言いたかったのか本気でわからなかった。いろんなキーワードらしきものがちりばめられているんですが、それが最終的にどう結ばれてどんな絵を描くのかが見えてこなかった。私は『男流文学論』を読んでから『砂の上の植物群』を読んだんですが、むしろ小説読んだ後の方が「わからん……」の気持ちが強まった。でも3週目をする気は起こらない……以下、完全なる誤読で感想や解釈を書いてるところがたくさんあるかもしれません。

 

 

 

まず、この作品が何を書きたかったのかについて私が考えたこと。

文庫本の解説に、次のような記述があります。

 

 吉行淳之介氏は、『なぜ性を書くか』というエッセイのなかで、『砂の上の植物群』について次のように述べている。

「この作品はあながち性を書いたというだけのものではない。……もしもこの作品で心を動かす読者があるとすれば、それは作品全体に流れる強い孤独感のためとおもう。性の問題についての分析は、そのあとに来るものだとおもえる」

このようにありますが、私は「強い孤独感」というよりも、主人公の「女に対する恐れ」を随所で感じた。吉行淳之介がこの本で「孤独」を書いたというのなら、それは「女」という不可解な生き物、上野さんの言葉を借りれば「快楽モンスター」かのような存在への恐怖・圧倒的に自分を超えてくる女の性欲に自分が疎外される恐怖というところからくるように感じた。

女のそういう獣的部分、淫らな性質の象徴として口紅が使われていますね。

 

その唇にも、血にまみれたように口紅が塗られてあった。女というものの抵抗できぬ逞しさを示しているようにも見え、見知らぬ動物の発情した性器のようにもみえた。(六)

 真っ赤に塗られた唇を眺める彼の眼には、不可解な色、一種怯えに似た色があった。(十)

 目のまえに大きく拡がっている赤い唇にたいして、その不可解さにたいして、兇暴な気持が起り、一瞬、襲いかかる姿勢になった。(十二)

 その店を訪れてから一ヵ月の間、伊木は性の中に溺れ込んだ。相手の女は、津上京子である。しかし、その期間、彼は不思議な充実の中にいた。性が、彼に襲いかかってきたのではなかった。性が、アメーバ状の掌のようなもので彼の口や鼻腔を塞ぎ、粘った赤黒い液体の中で彼を窒息させようとする……、そういうことは起らなかった。

 伊木一郎の加虐的な兇暴な感情と、それを受止める京子の軀とが、ふしぎな調和を示したのである。それは危険な均衡の上に立つものではあったが……。(二十一)

こういう風に並べてみると、「快楽モンスター」としての女の不可解さを伊木は恐れ、そしてその恐れを克服し・対抗するための反応が「憤怒に似た感情」なのかな……と思われてくる。が、もっと言えば、そういうふうに物語内で辻褄を合わせて解釈する感情というより、この「憤怒」は吉行淳之介自身の女性嫌悪思想の露骨な表れというように思われる。

 

そう思う理由の一つとして、伊木以外の男も女に対して「憤怒」を覚えているような描写がある。

 突然、花田が怒りをたたきつけるのに似た口調で言った。

「双生児(ふたご)の姉妹と、寝たい」

「え?」

「右側も左側も、同じ顔、同じ軀だ。重ね合わせれば、上も下も同じ軀だ」

 と、花田は言い、もう一度、繰返した。

「おれは痴漢になるぞ」(二十八)

これは女に怒りを覚えている伊木の目を通したからそういう風に見えている、とも読めるが、私はやはり「憤怒に似た感情」は伊木のというより吉行淳之介自身のものなんだろうなと思った。

また、女のオナニー鑑賞のシーンで、「全く男たちを必要とせず、いまは男たちの視線も必要とせず、自分一人だけで充足している安らぎが、滲み出ていた(六十)」女を見たあとに花田が「やはり、気が滅入ってくるな」と言う描写があるが、ここからも吉行自身の女に対する恐れを感じた。

 

解説では、「冒頭では、たんに一人の『男』と書かれ、やがて伊木一郎という名が明らかにされてくるところから見ても、作者が主人公をいかに客観視してとらえているかが窺えよう」とありますが、以上の点から私は上野さんが言っている「別人に設定してあるのに、ほとんど私小説」という意見に同意します。吉行淳之介が「女嫌い」だという前提知識がないとこの「憤怒に似た感情」にひっかかると思う。

 

 

で、この小説は吉行の「孤独」もしくは「女に対する憤怒」が根底にある小説だと思いますが、かといってそれが物語のテーマかと言われたらそういうわけでもない。

私の印象としては、吉行淳之介は今(当時)でいう「性的頽廃」――「加虐あるいは被虐的嗜好」や「多人数の同時性交」そして「近親相姦」――が性的退廃と見なされなかった時代の性の「充実」に回帰しようとしている話かと思った。

 

女二人と男一人で、女を重ねておいてやるという話(多人数の同時性交)の中でこういう記述がある。

昔、どのくらいの歳月の隔たりをもった昔か分らぬが、太陽の光の降りそそぐ野原のまん中で、人間たちはつねにこのような形で躊躇うことなく輝くような性行為を行っていたのではないかという考えに、男は一瞬捉えられた。

 男は充実し、疚しさとも歪んだ心持とも無関係でいた。(三十四)

 

また、兄妹相姦について語る場面で、次のような記述がある。

地上に最初アダムとイブの二人きりしかいなかったとしたら、人間が現在の数にまで殖えるためには、親子相姦兄妹相姦の一時期があった筈だ。その時期には、そういう男女関係において、人々は罪を感じることなく、細胞はふくらみ、漿液は燦めいた。だが、そのことが、男女関係の正常な形と見做される時期は、二度と戻ってはこないだろう(五十二)

 

また「性的頽廃とは、いったい何であろうか」という作者の述懐から始まる章(三十三)では、「正式の夫婦の正常位における性交以外は、すべて性的頽廃と見做され兼ねなかった時代が遠くに過ぎ去ったように、将来において痴漢の復権が行われる予感を私は抱いている」とある。

つまり、正常位以外はすべて性的頽廃だった時代よりもさらに前、アダムとイブの時代や野原で性行為していた時代における性行為は今でいう「性的頽廃」的なものに満ち満ちていたのであり、しかしそういう時代のそういう行為でこそ「充実」が得られた。そういう行為を今もう一度追求しよう、と言っているのか?と思った。

上野さんがこの辺のことを「今まで倒錯だなんだと言っておきながら、なんだ、これって結局明るいセックスの賛歌だったの」と言っていますが、私の考えは上野さんに大体近いです。

 

このあたりの話は、解説では次のように書かれています。

 アダムとイヴとの神話が示しているように、エデンの園の自然的生命の世界から人間が追放されて以来、「性」は絶えず禁制の衣に包まれてきた。(略)しかし、「性」が反秩序的な「悪」と考えられていたがゆえに、かえって「悪」の魅力を備えていたことも事実であった。例えば姦通が悪と考えられている時代には、愛ゆえに姦通にふみ切るには、死を賭けるほどの決意が必要であった。そして決意の強さが要求されていればいるほど、「悪」は自己確認と大きな充足とをもたらしたにちがいないのだ。戦後における自由と解放とは、このような性的禁制を崩壊させたが、それによって、私たちは性の充実感を増大することができたであろうか。(略)このような時代においては、極言するならば、「密室の秘儀」の復元による充足感は、変態的なかたちにおいてしか成立しない、とさえいえる。

解説ではアダムとイヴの時代ではなく正常位以外が性的頽廃とみなされた時代への回帰と捉えている点で違いがありますが、いずれにしろ「変態的なかたち」を通して再び充足感を得ようとしていると理解している点では私と共通する。

しかしそう考えるとやはり、なぜラストで京子は妹ではなかった(=近親相姦はしていなかった)ということにしたのかがよくわからないんですよね……。私だったら京子を伊木の異母妹ということにして、社会で最大のタブーとされる近親相姦を行い、非常な充実を覚えながらもこんな形でしか充実できないことに絶望する……性的頽廃を通しての充実は現代では得ることは困難なのだ……みたいなラストにしそう。

 

なんでや~~?と思っていたところ、なぜ近親相姦にしなかったのかということについて『男流文学論』の中で触れられていました。

 

上野 これがもし相対死とかだったら古典悲劇になります。エディプス的な物語の中で、死んだ父の影に追い詰められた息子が、それと知らずに妹と近親相姦し、最後は破滅に至ったという古典古代ふうのストーリーができあがる。

富岡 その一歩手前で――。

上野 そうしなかったというのは、そうか――からくりが見えてくるな。急にヘーゲルをもちだしますけど、つまり、人倫の基本にあるもの、それを家族愛だと考えると、男は、どんな女でも動物扱いできるけどね、姉妹だけは動物扱いできないんですよ。

富岡 ああ、そう。

上野 人類学的に言ってもそうなんです。同じ父と母を持った同胞ですから。だから、女嫌いの男でも、妻にはどんなにじゃけんにしても、妹のためならなんでもするという、そういうところがありますね。ということは、姉妹だけはどうしても自分と違うカテゴリーの存在だと思えない。自分と同じ人間だけど性が違うというふうにしか思えない。そうなれば、京子の位置が急に変わりますね。それを実は姉妹じゃなかったというオチをつけて、こんどは自分を置き去りにして自分の快楽の中にのめり込んでいく動物的な存在というふうに対象化することによって、女を再び女嫌いの闇の彼方に放逐するわけでしょう。自分は置き去りにされたことによって、市民生活の中にとどまれるんじゃないですか。

小倉 (…)ふたつだけは、この人にとってすら本当のタブーとして残っているの。それは近親相姦と同性愛ですよ。絶対、そこには行かない。そこまで行くと、なんかノイズが聞こえるんだ、と自分でも書いてましたやん。

上野 きわめてバランス感覚がある。

富岡 そう、そう。なんか細胞がざわめいて、はじけるような。

小倉 そのへんがね、わかってて、このへんで抑えといたほうが売れると思って書いたんだったらわかる。でもこの人はそういうことが本当に怖い人でしょう。

上野 彼の最後のタブーが近親相姦と同性愛だということについては、よくわかります。彼はレズビアニズムは、客体化して見物人として論じることができるけど、男性同性愛は扱えない。

小倉 彼自身が客体になることはものすごく怖いわけでしょう。(…)彼の同性愛恐怖は相当強いもんだと思いますよ。

私は彼の著作は『砂の上』しか読んでいないので彼が同性愛恐怖をもっているかはわからなかったんですが、富岡さんが言うような「女を別の種類の動物だと思っているところ」は感じたので、彼が同性愛・近親相姦に恐怖を抱いているというのには納得します。自分が主体となり女を客体にするという構図にしか慣れていない(受け入れられない)ため、自分が客体になったり(同性愛)相手が主体になったり(近親相姦)するのに耐えられないってことですかね。(これは深読みのし過ぎかもしれませんが、きょうだいでの近親相姦についていうのに「姉弟相姦」ではなく「兄妹相姦」に限定しているところからも吉行の「客体になれなさ」を感じる)

 

しかしそんな個人的な忌避意識がああいうラストにさせた、というのは少し説得力が弱いような気がする……が、それ以外の理由も今は思いつかない。とりあえず吉行にとっては近親相姦がタブーだったからということで納得しておきます。

 

 

 

それから、『砂の上の』とは関係なく興味深かったのが、セキネ・エイジという人の吉行論(「セクシュアリティの不在の中におけるエロティックなもの」)の中で説明されているらしい内容。(原典未確認)

 

吉行が処女性にこだわる背後には、女体に対する、あるいはセックスに対する根本的な思い込みがある。それは、女の性というものは生殖に不可避的に結びついている、ということです。女の性の快楽があれほど深いのは、あれは、子を産む性に結びつくからだ。男の性がそれに対して一種の攻撃性を持てるとしたら、不毛な性、つまり生殖に結びつかない性を女に押しつけることなんですね。

理屈はわからんでもないですが、吉行が男の性を「生殖に結びつかない」と思っているのが面白いですね。生殖は女特有のものだと思ってるわけだ。そしてだからこそ女の快楽は男より深い。その考えがどれだけ人間(男)一般に敷衍できるものかわからないが、私にとっては新鮮な視点だった。おそらくこういう考えが、京子に母乳を出させることにつながったわけですね。

 

 

 

他にも「小説という言葉を使うものに絵というビジブルな説明不可能なものを持ってきて、これみたいだ、っていうのは敗北」っていう文芸論や、富岡さんや小倉さんは吉行淳之介に不快を覚えたそうだが私はそうは感じなかったというのとその理由についてや、小説での電車内痴漢の記述(さすがにそれはオメ~の妄想だろwとは思ったがそういう女がいないと断言できる根拠は何もない)について書きたかったが疲弊したのでここで終了します。

 

 

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