まくら

読んだ本や好きな文章についての感想

村上春樹『一人称単数』読んだ

これまで読んできた村上春樹の短編集の中では一番好きだった。

長編は好きなのが多いんだけど、短篇はこれまであんまり好きなのに出会えていなかった。『レキシントンの幽霊』とか『回転木馬のデッド・ヒート』、『パン屋再襲撃』とかいろいろ読んだ気がするが、どれも印象が薄くてあまり覚えていない。でもこの本に載ってる短篇はどれも割と好きだった。

 

なんだか全体的に「日本的な要素」が目立っていて、珍しいなと思った。具体的には、関西弁、日本文学、日本の野球チームなど。意図的か? でも相変わらず日本文学的な雰囲気はほぼない。

以下、ストーリー展開への言及があるので未読の方は注意。

 

 

 

 

石のまくらに

登場人物が詠んだ短歌が出てきた。村上春樹作品で短歌が出てきたのは初めて見た。日本的な要素その1。

 

石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは

流される血の/音のなさ、なさ

「石のまくら」は漱石枕流(意味はこれを読んでください→近代科学資料「漱石枕流」)からで、

硬いものに耳を当てて血流の音が聞こえる(ここでは聞こえてないけど)っていうのはジャン=コクトーの有名な詩、「耳」の “私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ”堀口大學訳)からだろうか? これ以上のことはちょっとよくわからない。

 

 

この話で好きだったのは、「ねえ、いっちゃうときに、ひょっとしてほかの男の人の名前を呼んじゃうかもしれないけど、それはかまわない?」と言った女と主人公との会話のなかの一節。

「その人のことが好きなの?」(…)

「そう。とても」と彼女は言った。「すごく、すごく好きなの。いつも頭から離れない。でも彼は私のことがそれほど好きなわけじゃない。ていうか、ほかにちゃんとした恋人もいるし」

「でもつきあっているの?」

「うん。彼はね、私の身体がほしくなると、私を呼ぶの」と彼女は言った。「電話をかけて出前をとるみたいに」

 どう言えばいいのかわからなかったので、僕は黙っていた。

この「電話をかけて出前をとるみたいに」って比喩が好きだった。こういうさりげない比喩の的確さがたまらないんだよな、村上春樹は。

 

 

この話はまあ短歌がキーになってるんだろうけど、短歌がどれも私には刺さらず、特に印象がない。

午後をとおし/この降りしきる/雨にまぎれ

名もなき斧が/たそがれを斬首

春日井健の歌「大空の斬首ののちの静もりか没(お)ちし日輪がのこすむらさき」をちょっと思い出したが、全然関係ないかも。

 

ざっくりしたまとめかたをしてしまえば、これは「言葉が人間から離れて生き延びるということ」を書いた話なのかな。

 

 

 

 

クリーム

この話結構好きだな。こういう理不尽で、不可解な、オチのない(ように見える)作品好きなんですよ。

 

舞台が「神戸の山の上」って明確に関西なの珍しくない? 『ノルウェイの森』でも京都が出てきていたはずだが、全然「関西感」がなく、「そう言われてみれば京都…だったかなぁ…」という程度の印象だった。でもこの話では村上春樹作品に珍しく(私が読んできた中では初出かな?)関西弁の人が出てきていて、関西が舞台だということがわかりやすかった。日本的な要素その2。

 

「中心がいくつもあってな、いや、ときとして無数にあってやな、しかも外周を持たない円のことや」と老人は額のしわを深めて言った。「そういう円を、きみは思い浮かべられるか?」

「ええか、きみは自分ひとりだけの力で想像せなならん。しっかりと智恵をしぼって思い浮かべるのや。中心がいくつもあり、しかも外周を持たない円を。そういう血のにじむような真剣な努力があり、そこで初めてそれがどういうもんかだんだんに見えてくるのや」

村上春樹の書く関西弁を初めて読んで思ったんですけど、村上春樹の文体って関西弁との親和性がめちゃくちゃ低くないですか?

なかなかに違和感が強い。このなんか…話し言葉がもつ「流れ」とか「リズム」とか「淀み」といったものがそぎ落とされた村上春樹文体、おもしろいくらい関西弁と合わない。

 

例えば、ほかの小説家が書いた関西弁と比較してみる。

「なんせから順ちゃんの家の、便所のくみ取り口に、いちじくが植ってたん。もうこれは、絶対に確かやから。わたしが一つ盗ったの、お母ちゃんに告げ口したの。はっきり覚えとるよ、お母ちゃん、いまでこそ酒ばっかし飲んでああやけど、お父ちゃん生きとるときは、あれできびしいからな。耳のあたりぶたれて、わたしの右耳ほとんどきこえんもん」(中上健次「蛇淫」)

「そいでもあんた、そない悪いこと手(て)っ伝(と)たらいかん云うたやろ。そやよってうちどない頼まれても教せたげへんなんでん。そいで子供出来るまでは一と足も外い出たらいかん、じっとすっ込んでなはれ云われて、押し込めみたいにされてるのんで、退屈で退屈でしょうがないさかい、毎日でも遊びに来とくなはれ云やはるねんけど、どないしょう知らん?―――うちかてきっと恨まれてるか分れへんし、放っといたら寝覚め悪いしなあ」(谷崎潤一郎『卍』)

「子供の頃から、緊張したら言葉が出てこうへんようになんねん。すごく、ゆっくりしか話されへんねん。大丈夫な時もあんねんけど」

「そうなんだ、すごい落ち着いてるから緊張しそうに見えないのに」

「それをごまかすために、言葉が引っかからんように、ゆっくり話すねん」

「サキね、ゆっくり話してくれる人の方が、言葉の意味を考えられるから嬉しいよ」

「沙希ちゃんはアホなん?」

「アホじゃないよ、かしこいよ」

「俺もアホちゃうで、頭の中で言葉はぐるぐる渦巻いてんねん。捕まえられへんだけ」(又吉直樹『劇場』)

『卍』の関西弁は批判もあるみたいだけど、やっぱり関西弁には書き言葉とは違う、口語的なリズムがないと違和感があるなあと思う。

村上春樹の文章は、会話文も全部、きちんと構築され過ぎているんだよな。書き始めの時点でもう書き終わりまで確定している書き方というか。そういうところが「翻訳文」なんだよね。

 

それはさておき、「クリーム」には好きなセリフがいろいろあった。「この世の中、なにかしら価値のあることで、手に入れるのがむずかしうないことなんかひとつもあるかい」「きみの頭はな、むずかしいことを考えるためにある。わからんことをなんとかわかるようにするためにある」あたり。

老人の言葉も含めてかなり抽象的な話だったが、この不可解さが私は好きだ。こういう独特なわからなさは村上春樹の長編に特徴的なものだと感じていたが、今回の短編集はこういう長編的な抽象性をもつ短編が多くて好きだった。

 

 

 

 

ウィズ・ザ・ビートルズ

一九六八年に「思想の行き詰まり」が原因で自宅で首を吊って死んだ社会科の教師がまず印象に残ったな。

で、この話では芥川龍之介とその作品が直接的に言及される。具体的な日本近代文学への言及がある話も初めて読んだかも。日本的な要素その3。あと、この話でも関西弁の人が出てくるな。

 

言及されたのは芥川の「歯車」。作者が自殺する直前に書かれた話。主人公がガールフレンドの兄に頼まれ、この話の一部を朗読する。

〈僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?〉

 

 好き嫌いはともかく、よく晴れた日曜日の朝に朗読するのに向いた作品ではないことは確かだ。

おそらく「歯車」は主人公のガールフレンドがのちのち自殺することに関連があるんだろうが、どんなふうに関わりがあるのか、はっきりしたことはよくわからない。ビートルズのくだりも、兄の病気の話も、どういう意味をもつのかよくわからない。

ガールフレンドの死に方はなんとなく『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を思い出したが、それにしても村上春樹の作品ではよく人が自殺するな? 原因のよくわからない自殺。よく人が死ぬし、よくセックスをする。なのにひたすらに淡泊なので、生臭さがない。

 

 

 

 

一人称単数

これは終わり方が独特だったな。珍しくない?  こういう、メタファー的世界の中で突き放すように終わるの。これまでの話では話の途中でメタファー世界に行っても、最後には戻ってきていたような気がする。

 

これはちょっと『海辺のカフカ』っぽい話だったかな。おそらく、もう一人の自分のような存在が自分の知らないところで大きな罪を犯している、というような話。

スーツ姿の自分を見て「一抹の後ろめたさを含んだ違和感」「自分の経歴を粉飾して生きている人が感じるであろう罪悪感」を感じたというから、きっとその罪は「スーツを着ている自分」が犯したものなんだろう。

 

「(…)よくよく考えてごらんなさい。三年前に、どこかの水辺であったことを。そこでご自分がどんなひどいことを、おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい」

「スーツの自分」はいったい何をしたんだろう。レイプかなと思ったが、「法律には抵触していないにせよ、倫理的課題を含んだ詐称」ともあったから、法には触れていないということでレイプではないのかも。でもそれに近いような凌辱的行為なのだろうなと想像する。

 

主人公が女の発言を評した言葉、「すべて具体的でありながら、同時にきわめて象徴的だった。部分部分は鮮明でありながら、同時に焦点を欠いていた」、これはまさに村上春樹の小説そのものに対して言えることですね。

この話も好きだったな~、海辺のカフカねじまき鳥クロニクルを思い出すところもありつつ、終わり方がこれまでにない形でちょっと驚いた。あとこれが短編集の最後に配されていたのもよかったな。奇妙な読後感。

 

 

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最近はゼルダの伝説ティアーズオブザキングダム…ではなくブレスオブザワイルドを買い、生活が破壊されている。オープンワールドってすげー! 空が美しくて感動した。

武器が壊れるの最初は嫌だな~と思ったが、だんだん慣れてきた。バクダン無限沸きに助けられてる。時間がすさまじい勢いで溶けていく……。

あともうすぐ十二国記が読み終わりそう。おもしろすぎて頭おかしくなる。十二国記、永遠に続いてほしい。

 

 

小野不由美の十二国記シリーズを『黄昏の岸 暁の天』まで読んだわけだけど

なにこれ……? ハチャメチャに、面白い……

世界にはまだまだ面白い本がある。

 

私、最近まで(厳密にいえば2022年に「ファイアーエムブレム風花雪月」という神々が作りしゲームに出会うまで)ずっと「ファンタジー作品」というものに抵抗感を抱いていて、中学生になったあたりから全然読んでこなかったんですが、十二国記に出会ったことにより「おいおいおい……ファンタジー小説ってこんなに面白かったのかよ…………」になっています。何歳になっても世界は拡げられる。

 

 

十二国」の世界の話が本格的に始まるのはEpisode1『月の影 影の海』なんですけど、十二国記シリーズで最初に刊行された本は『魔性の子』で、これはEpisode0という扱い。

私が最初に読んだのは『魔性の子』です。『魔性の子』はファンタジー色が一番薄い、現代日本が舞台のホラー?テイスト小説なので、十二国記気になるけどファンタジーはちょっとなあ……と思ってる人は『魔性の子』を読んでから十二国記シリーズを読むか決めるのがいいかも。

 

シリーズ作品の一覧はこちら → シリーズ作品紹介|小野不由美「十二国記」新潮社公式サイト

 

 

以下、紹介ではなく感想です。未読の方への配慮ありません。

 

 

 

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まずなぁ~……十二国記は古代中国風異世界ファンタジーなんですけど、一にも二にも「リアリティ」がすさまじい。異世界ファンタジーにリアリティを求める人ってあんまりいないのかもしれないし私も期待してなかったけど、もう本当に「そこ」にある。「十二国記の世界」が眼前に「ある」。

 

なぜって、小野不由美の「語彙の選択」が作中通してずっと完璧だから。

一番感服するのはやっぱり「十二国」という異世界全体の成り立ち方――国を統べるシステムの説明や風俗・文化の描写の緻密さ。もうこれがね~作品を読み進めれば読み進めるほど天井仰いで「小野不由美の頭の中どうなってんの?????」って叫びたくなる。マジでどうなってんの?

 

 

これは『丕緒の鳥』という短編集で述べられていた、「大射」という儀式についての説明。

大射とは国家の重大な祭祀吉礼(さいしきつれい)に際して催される射儀を特に言う。射儀はそもそも鳥に見立てた陶製の的を投げ上げ、これを射る儀式だった。この的が陶鵲(とうしゃく)で、宴席で催される燕射(えんしゃ)は、単純に矢が当たった陶鵲の数を競って喜ぶという他愛ないものだが、大射ともなれば規模も違えば目的も違う。大射では、射損じることは不吉とされ、矢は必ず当たらねばならなかった。

(「丕緒の鳥」)

このあとは大射についての具体的な説明が続く。

え、実際に中国であった儀式?と一瞬思ったが多分ない。なんというか、存在しない事柄の説明の「説得力」がすごいのよね。「歴史」があるもん。全然表面的じゃないのよ。なんでだろう?

やはり「漢字」の力なのかな。マジでバカっぽい感想になるが、難しい漢字や熟語を使われると急に「それっぽく」なる。でも漢語を多用するというのは諸刃の剣で、日本で生きてるとやはり中国の文化や漢詩文に触れる機会が多いため(漢字使ってるしね)、適当に使うとすぐ見破られてしまうんじゃないかと思う。でも少なくとも私は一度も見破ってない。人名も地名も役職名も虚構の事物の名称ももう全部見るたび「それっぽ~~~~い!!!!!」って叫んでる。マジで「全部」それっぽいんです。

 

 

あと語彙が「読者に媚びていない」のがたまらないんだよね。

もともと十二国記シリーズは講談社X文庫ホワイトハートっていうライトノベル系レーベルから刊行されてたらしい。ターゲット層も10代とかの若い層だったそうなんだけど、もうね~~「ティーンにもわかる言葉で書こう」という配慮が一切ないのがマジでサイコー。

つけるのはルビまで。わからない言葉は自分で辞書引いて調べな、というスタンス。そうそうそれでいいんだよ。しゃがみこんで目線を合わせてくれなくていいんだ。こっちが勝手についていくから。

 

その翌日、大昌(だいしょう)の登遐が天官によって公にされたが、その死因については言及されなかった。(『華胥の幽夢』「華胥」3)

このままでいれば、砥尚の命運はいずれ尽きてしまう。栄祝と朱夏にとっては朋友、青喜にとっても尊敬すべき党魁であり、同じく慎思に養われた仲、その砥尚が采麟と共に不帰路を辿る――。(『華胥の幽夢』「華胥」3)

 

強調引用者。「大昌」「砥尚」「栄祝」とかは固有名詞だとして、「登遐」「党魁」、ググりました。党魁は「首魁」ってたまに聞くからなんとなくわかるけど「登遐」何?と思ったら「皇帝・天皇上皇などが死ぬこと」だそうです(精選版日本国語大辞典・コトバンク)。知らんかった。「崩御」「身まかる」ぐらいしか知らんかった。知らん言葉に出会えると嬉しいね♪

 

こんな風に小野不由美の語彙力に圧倒され続けてるんですけど、こういうあんまり使われない言葉の使い方が作中通してずーーっと適切(に思われる)のがホント~~~~~~~にいいんですよね。

たまにライト系の小説を読んだときに「その言葉、辞書引いたときにたまたま目に入ってカッコいい!って思ったから使ってない?」みたいな言葉を見ることがある。つまり、その言葉だけ本の中で浮いてるんだよね。これは普通に悪口なんですけど、そこ以外の語彙レベルはそうでもないのに、ときおりめちゃくちゃ難しい言葉が使われてたりすると作者の自意識が顔を出している気がして「ダサ……^^;」と思ってしまう。でもこれ私も気を付けてないとよくやっちゃうことなんで、てかやってきてると思うんで、同族嫌悪です。はたから見ると「あ~~^^;」ってなっちゃうな…と読んでて気づかされたので反面教師にしてます。

で、小野不由美はそういう「カッコよく/頭をよく見せるために難しい言葉を使っている」って感じさせる記述が本当にひとつもなくて、語彙力と制御力がすさまじい。相当な語彙力がないとこうはできん。

 

 

 

あと情景描写も好きなんです。異世界だけど、自然はあり、季節があり、温度があり、それを感じ取る人間たちの感性がある。

 その日、街は気怠い熱気の中に沈んでいた。堯天(ぎょうてん)の街の北には、巨大な山が柱のように聳えている。その山の麓、南へと裳裾を引くように下る斜面に、街は広がっていた。階段状に連なる市街、蝟集した鋼色の甍宇(いらか)、縦横に延びる街路は陽射(ひざし)に照らされて白く、そこにとろりと湿気を含んだ暑気が淀んでいる。

 どの建物の窓も涼を求めて開かれていたが、あいにくこの日は、午(ひる)からぴたりと風が熄(や)んでいた。窓も戸口も開け放したところで、流れ込んでくるのは白茶けた照り返しと熱を持った空気、そして、眠気を誘うような静かな騒(ざわ)めきだけだった。

(『黄昏の岸 暁の天』一章1)

 

怠らない! 怠らないッ!! 情景描写をッッ!!!!

純粋にうまいよな~~情景描写……。「とろりと湿気を含んだ暑気が淀んでいる」「流れ込んでくるのは白茶けた照り返しと熱を持った空気、そして、眠気を誘うような静かな騒めきだけ」。特に特徴のない文体だから、神のようなフラットな視点から世界を眺めることができる。水に溶ける溶質みたいに、十二国記の世界の空気に透明になって身を溶かして、市街のひび割れた石畳から雲海を貫く山の上まで飛び回って眺めることができる。

こういう、我々にも共感できることがらをきちんと描いてくれるからこれまた世界のリアリティが増していくんだよな……

 

あと、「南へと裳裾を引くように下る斜面」。スカートじゃない、「裳裾」。十二国記の世界にスカートは存在しないので。こういうさりげない気配りが徹底されているから、十二国記の世界が重厚に構築されていくわけです……。

 

 

白いばかりの空間は嫌でも戴の、雪に降り込められた国土を思い起こさせた。

 無数の切片がひたすらに降って山野も里廬(まちまち)も覆い尽くしていく。全ての音は彩りを吸い取られ、世界は無音のまま昏睡にも似た停滞へと落ちていく。

(『黄昏の岸 暁の天』六章7)

個人的に好きだった描写。雪が大好きなので。

世界は無音のまま昏睡にも似た停滞へと落ちていく」すごくない?これ……

雪に降り込められた世界の閉塞感を「昏睡にも似た停滞」って表現するのスゲー好き。分厚く積もった雪によって音が吸い取られた無音の、動きのない世界が眼に浮かぶ。

 

 

今はシリーズ最新作『白銀の墟 玄の月』読んでるところです。

まだ全部は読んでないけど、あのさ~~……これだけ大部の作品で、「生殖」どころか「恋愛」も一切登場しないの、すごくない?? そして性愛が一切登場しないのにこんなにも面白いのもすごくない???? ここまで恋愛感情の存在しない作品を読んだのは、佐々木倫子動物のお医者さん』(漫画)以来かもしれない。

十二国の世界では子供が木に成るから生殖行為は存在しない(でも妓楼はあるので性行為はあるんだと思う)。だから男女間の恋愛感情が一切記述されないのも自然なことではある。

性欲に基づく恋愛感情が登場しない世界、そこで人と人をつなげるのは何? 「親愛」? 「恩義」? 「忠誠心」?

なんか私はね…この世界、というかこの作品にある種のユートピアを見出している。性欲に依らない人間関係、ってのに救いを感じる……これも私が十二国記を好きな理由の一つだ。

 

短編集『丕緒の⿃』が特に印象深い話が多かったから今度この本の話もしたい。

 

 

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休日なので漫画をいろいろ読んだ。ザ・ファブルマロニエ王国の七人の騎士、RAVE、応天の門BLUE GIANTなど。全部途中までだけど。あとトーマの心臓(プレミアムエディション)。

BLUE GIANT、大分前にも読んだことあったけどそのときよりめちゃくちゃ響いた。苦しいくらい優しい作品だ。最初の方はめちゃくちゃ浦沢直樹だな~ということに気を取られていたが、読み進めていくうちにどうでもよくなった。BLUE GIANTBLUE GIANTだ、ここにしかないものが確かにある。芸術のためだけに生きたい。人間って美しい。

 

 

『窮鼠はチーズの夢を見る』から教わった「恋」と「責任」、そして「同性とともに生きる」ということ

水城せとな『窮鼠はチーズの夢を見る』という漫画を会社の先輩から激しく薦められ、軽い気持ちで読み始めたらぶっ倒れた。

恋と性愛、人間関係と責任、そしてこの社会で「同性を選んで生きること」とはどういうことなのか。丁寧に誠実に、この本が教えてくれた。

 

前にも書いたけど、私がこれまで読んできた「恋愛」をテーマにした漫画の中で圧倒的ぶっちぎりに一番好きな作品です。水城せとな先生、一体何人分の人生を生きてる?  どうしたらそんなセリフが出てくるんですか?  この人の作品読むたび「こういう人が『創作者』なんだろうな」って痛感する。

 

 

 

 

『窮鼠』とその続編である『俎上』はバージョンがいろいろあって、濡れ場の修正や書き下ろし番外編の有無などの違いがあるみたいです。私は先輩から性器修正のない新装版を紙で借りて読んで、そのあと『窮鼠』『俎上』が一つにまとまった「オールインワンエディション」を電子で買いました。個人的には濡れ場で性器の描写はなくて構わない派なので、オールインワンエディションで特に問題ありませんでした。

各バージョンの詳しい違いについては、こちらの水城せとな先生公式ブログの説明をご覧ください↓

『窮鼠はチーズの夢を見る』オールインワンエディション&リブートエディション発売。これまでの全エディションまとめ! | ◆◆◆ ミズシログ ◆◆◆

 

 

 

以下、ストーリーへの言及がたくさんあるので未読の人は注意してください。

 

 

 

 

 

人を愛するという「責任」

 

なんだろう。ずっと「責任」の話をしている。

 

話の主軸となる登場人物は、女からモテる異性愛者の29歳男性・大伴恭一と、大伴の大学の後輩で大伴のことを愛している同性愛者・今ヶ瀬の二人。

大伴は女から誘われるたび関係を持ってしまう「流され侍」。ただこの物語で糾弾されるのは不倫行為それ自体ではなく、「責任をもとうとしないこと」なんですよね。

 

事の始まりは、調査会社に勤めている今ヶ瀬に、大伴の妻が大伴の浮気調査をお願いしたこと。今ヶ瀬に呼び出されて過去の不倫の証拠をつきつけられたとき、大伴はこう言う。

俺から誘ったわけじゃないんだよ 彼女が強引で

俺からは何もしていないのに 向こうが

 

不倫関係だけじゃなくて、夫婦関係や過去の恋人関係においても大伴はずっとそうだった。

「買い物ぐらいしか喜ばせてやれることないから…」

「セックスは?」

「…………あんまり好きじゃないんだって…結婚前からそう言ってた

こっちから言い出して断られるのってなんかヘコむだろ  だからいいんだよ

金出して喜んでくれればそれが一番ラク…」

「ちゃんと好きだったよ」

「あたしが『別れる』って言ったらひとことの抵抗もなくアッサリ別れちゃったじゃない」

「それは…俺には何を言う資格もないと思ったから……」

「ホントに好きならそんな物分かりのいいこと言ってられないはずでしょ

恭一は優しかったけど 情熱みたいなものは見せてくれなかったよね…」

つまり大伴は、恋愛関係において、「自分から誰かを求める」ってことをしてこなかった人間なんですよ。されるがまま、求められるがまま相手に応じる、「相手から好意を示されると絶対拒めない」男。

そういう人間はある意味では「優しい」のかもしれないけど、「責任をもって人間関係を築くこと」から逃げ回っているとも言える。

 

 

で、そういう態度を妻には見抜かれていて、離婚を切り出してきた妻に大伴はこんなことを言われる。

「恭ちゃんがお金持ってきてくれて あたしがつかう

それぐらいしかツナガリがなかったじゃない? あたし達 …だから…

だけどもう本当は何も欲しくない

あなたに求めるものなんてもう何もないの」

 

「…『何も』って……そんな

何でも言ってくれれば俺やるよ! 何かあるだろ?

そう高いものは買ってやれないけど…ホラ家事をもっと手伝うとか」

 

「…そうやっていつも…

あたしが何か言うのを待ってる空気がもう

キモチワルイの」

 

マジ?

 

物語序盤でもうこんな「真理」ぶっこんでくる?

 

「あなたに求めるものなんてもう何もない」「あたしが何か言うのを待ってる空気がキモチワルイ」。相手から求められない限り与えようとしない、受け身な態度に対する痛烈な批判。

作品冒頭でいきなり大伴と今ヶ瀬のキスシーンが始まったとき「商業BL特有のご都合スピーディエッチ展開か……💦」って思っちゃったけどこのあたりで「あ、この作品って『BL』じゃないわ」って思った。(私がここで言う「BL作品」っていうのは、「男性同性愛」を「エンタメとして消費している作品」のことです)

 

 

で、さらに「だからもう新しい男の人作ったの」と妻から告げられる。それで大伴は怒りに任せて今ヶ瀬に電話をかける。「お前 知ってたんじゃないのか!?」って。

「貴方は奥様のことが大事だったんじゃないんですか?」

「それは相手も俺を大事に思ってくれてると思ってたからだ!!」

「俺は貴方が死ぬほど好きですよ …俺のこと好きになってくれますか?」

「………………それは……全然別の話だ…………」

「ホラそう来る  あなたはね 狡くてさもしくて贅沢なんですよ

『人が好い』なんてとんでもない」

 

そして、

 

「貴方は自分から人を想ったりしない そのくせ誰からも愛されたがって言いなりになったフリをするんだ

被害者ヅラしながら『もっと自分を愛してくれる相手がいるはずだ』ってキリなく期待して」

 

「だけどそれなら先輩 もう俺しかいないですよ

俺以上に貴方なんかを愛する人が 現れるわけないじゃないですか…!」

 

そう今ヶ瀬は大伴に告げる。

こうやってフリーになった大伴と、今ヶ瀬との関係が進んでいくわけなんですけど…………

 

もうこの時点で「え、今ヶ瀬、大丈夫か……?」というか、ここまで大伴の責任逃れ体質を理解してるのに、それでもお前は大伴を愛してしまうのか、って……

大伴のこと「狡くてさもしくて贅沢なんですよ」って言いながら、「俺以上に貴方なんかを愛する人が現れるわけないじゃないですか」って振り絞るように言う。なんつうか、恋、自分をボロボロにするような恋をしてしまっていない?

 

しかし、それにしても『窮鼠』、言葉選びがよすぎます。抉りすぎです、人間心理を。

なんだよこれ?

自分から人を愛してこなかった大伴、そのことを理解しながら大伴を愛さずにいられない今ヶ瀬。この要素だけでも十分物語は成立しうると思うけど、水城せとなはここからさらに「同性愛」の問題を持ち込んでくるわけ。

 

 

 

 

この社会で「同性を選ぶ」ことの意味

 

現時点で、日本社会において同性婚は認められていないわけで。つまり同性の人間を「人生の伴侶」として選ぶことにはさまざまな困難が伴う。

だけど日本のBL漫画でそのことに向き合っている作品って思いのほか少ない気がする。というか、ほとんど見たことがない。海外の映画(「モーリス」「ハンズ・オブ・ラヴ」など)ではいくつか見たことがあるけど。

 

私は同性愛をテーマとしているのに「結婚できない」という事実を完全に無視している作品に前々から多少の違和感を覚えていたんですよね。だってイチャラブ両想いになって、そのあとは? マジョリティのルートから外れることの困難、結婚していく周りの人間を見て何を思う? 一時の激しい性愛を見せられても「その後」が見えないから読んでもすっきりしないというか、「それで私はこの作品から何を学べばいい?」となってしまうんだよな。まあすべての作品に学びを求めるのは無茶だとわかっているが、それにしたって「その後の人生」を想定している同性愛作品が少なすぎないかと思っていた。

 

そんなときに、この「窮鼠」が、水城せとなが、全力で「人生」を描いて見せてくれたわけ。

もう本当に、今までこんな作品を読んだことがなくて、ひっくり返ってしまった。

 

 

今ヶ瀬と同棲状態になっている大伴が、大学時代の元カノ・夏生(なつき)と再会し、復縁を持ちかけられる。夏生がこれまた聡明な女で私は好きなんですけど、その話は置いておいて。

今ヶ瀬が夏生を食事に呼び出して一騎打ち(話し合い)する場面があるんですけど、このあたりから「同性を選ぶことの困難さ」の描写が表立ってくる。

 

「退いてください 恭一先輩に今さら近づくのはやめてください

俺 これでも結構いっぱいいっぱいなんですよ

キツイ思い何度もして ノンケのあの人相手にやっとここまで漕ぎつけたんです

あなたに本気出されたら俺に勝ち目はありません  だからお願いしてるんです

消えてください」

(…)

「負けを認めるならあんたが消えれば?

これ以上続けても 今ヶ瀬 ツライだけだと思う  もう諦めてラクになりなさいよ

恭一はね ハメルンの笛吹きにホイホイついていくネズミみたいなもんなの

みすみす溝(ドブ)に溺れさせるわけにはいかない   好きだから」

 

「ドブ……  ですか」

 

「ドブよ。」

 

まず、「キツイ思い何度もして ノンケのあの人相手にやっとここまで漕ぎつけたんです」「あなたに本気出されたら俺に勝ち目はありません 」という今ヶ瀬の言葉。

ここで気づかされる、同性愛者がノンケ(異性愛者)に近づくことがどれだけ困難なことなのか。辛酸を嘗めて苦労して苦労してやっと漕ぎつけたポジションも、異性にすぐに奪われてしまうんじゃないかとビクビクしてしまう。そういう「スタートラインの違い」をこのセリフで噛み締めた。

 

そして「ドブ」。ここでは今ヶ瀬のこと、男のこと。同性を選ぶことは「ドブに溺れる」ことだと言われてしまうんだ。

「今ヶ瀬と同じ世界で生きてく覚悟ができてるの?」「ここで降りなきゃ取り返しつかなくなっちゃうよ?」

夏生から大伴への言葉。残酷な言葉だと思うけど、強く反論できない……。実際大伴は異性愛者じゃないから、この時点ではまだ今ヶ瀬を選ぶ覚悟ができない。

実際大伴は夏生に「今ここでどちらか一方を選べ」と迫られ、夏生を選ぶ。

 

 

「…俺は  今ヶ瀬  お前を選ぶわけにはいかないよ

普通の男には無理だって ……わかるよな?」

 

「…はい 分はわきまえてるつもりです」

 

 

今ヶ瀬は表情も変えずにそう言って、夏生とともに店を出ていく大伴のことを見ようともしない。

でもここで今ヶ瀬が傷ついていないわけがなくて………………………ッッッ!!!!!!!

 

 

 

店を出たあと、夏生といっしょに適当なホテルを探す大伴がショーウィンドウに映る自分たちを見て、こんなことを考える。

 

町中の風景に溶けこむ ありふれたカップ

その姿に安堵している俺は

今 この瞬間も今ヶ瀬を傷つけている

 

もう私本当に このセリフ読んだときに「ウワーーーーーーーーーッッッッ……………………!!!!!!!」ってなっちゃって………水城せとなの「力量」の前に一瞬で屈服した。なにこのセリフ?  水城せとなって異性愛者ですよね?(どこかの作者コメントでそう書いてた)

水城せとなの書くセリフほぼすべてがそうなんだけど、もうこんなの「その立場」で「その人生」を「ウン年実際に生きたあと」に出てくるセリフだと思うんですよ。なんでこんなことが書けてしまうんですか?

「『男女でいること』に安心する」、だってこの社会は異性愛者を基準に作られているから。異性愛者のほうが圧倒的に多いから。そうすれば社会に受け入れられるから。目の前の人間がどうとかじゃなくて、自分が男だから女を選ぶ、そういう相手の選び方が今ヶ瀬を傷つける。そう。そうなんだよな。「当たり前」に傷つけられることが多すぎます。

 

 

 

あと私が好きなのが、なんだかんだあって大伴と今ヶ瀬が「終わりにしよう」ってなったあと、ドライブするくだりであった言葉。

「俺が女だったら もっと長くいろいろ楽しめたんでしょうね

サッサと外堀埋めて結婚に持ち込めたと思うし

貴方のご両親にも堂々と挨拶できたし

仕事なんか辞めて一日中貴方の衣食住のためだけに働いて暮らしたかった

子供2~3人産んでPTA活動とかも結構 張り切っちゃったりして

喧嘩したり倦怠期迎えたりしながら年をとって

『わたしもすぐ行くから天使と浮気したりしないでね』とか言って貴方の最後を看取るんだ」

 

「俺が先に死ぬのかよ」

 

「でもそんなの無理だし」

 

この「でもそんなの無理だし」で何度目かのおしまいになりました。自分たちが異性だったらできただろう平凡な夢を描いてみて「でもそんなの無理だし」。だけどこれって世の中の異性愛者たちは当然のようにやってることなんだよな。なんでだろう?なんでこんなに差がついてるんだろう?おしまいです。小佐野彈の歌集読んだときと同じような精神になった。私はこういう「あるはずだった幸福」を語られるのに弱いんです。

 

 

 

そして私がめちゃくちゃ好きなのが「ラスト」なんですよね……。これ私の周囲で窮鼠読んだ人全員に熱く語ったんですけど誰からも賛同を得られなくて草だった。

以下、読んでない人ネタバレ注意!

 

 

 

 

 

 

 

最後、大伴は今ヶ瀬に「指輪を買うよ」って言うんですよね。まずこの時点で、あの責任逃れ大伴が「責任」を引き受けたことの証明だと思って大感動したんですけど、そのあとね。

 

「じゃあ俺にも貴方に指輪を買わせてください」

「いいけど…… 俺は会社には付けていけないよ」

 

私この大伴の「俺は会社には付けていけないよ」にマジでメチャクチャ感動して………………………!!??!!!????!??!?

いや、大伴が指輪をつけていかないことそれ自体ではなく、水城せとなが最後まで「同性愛が広く受け入れられていない社会」を書ききってくれたことに大感動した。そう、今ヶ瀬は指輪を夏生に見せびらかすけど、大伴は指輪を外にはつけていかないんだよ。なぜか?  この社会で同性愛が広く受け入れられていないからだよ。大伴と今ヶ瀬の関係はおおっぴらにできないものだと、大伴が感じているからだよ。

これで二人で左手薬指にはめた指輪を見せて、新婚生活❤イチャラブハッピーエンド❤みたいな終わり方されたら世に失望してましたけど、そうじゃなかった。ここで水城せとなへの信頼感が完全にカンストした。

 

 

それに単なる先行きハッピ―両想いにしなかった終わり方もめちゃくちゃに良くて、

 

「この恋の死を  俺は看取る」

「そこまでの死出の道をひとつでも多くの花で飾ってあげよう」

 

↑大伴がモノローグでこんな風に言うんですけど、恋のことを「死出の道」って表現するの良すぎる。「お前にはきっと俺の気持ちは永遠に伝わらないだろう」、そう言いながらも隣を歩くことを選ぶんですよ、大伴は。この恋はいつか終わる、疲弊しきった今ヶ瀬が自分から去って行く日がいずれ訪れる。それでもその道を「ひとつでも多くの花で飾ってあげよう」「俺にできることはそれくらいしかないから」……………………………………。

 

「どこまで行けるかわからないけど、行けるところまで行ってみよう」っていう結論の付け方が本当に好きだった。

こういうぐちゃぐちゃの、めちゃくちゃにもみ合って泥塗れになって、それでも終わりまでの道をいっしょに歩こうと努力することが「恋愛」なんだよ。

って読み終わったとき心の底から思って、ベッドの上で天井仰いで呆然自失していました。

マジでこんなふうに同性愛を描いてくれる漫画を初めて読んだので、読み終わったとき~感無量~だった。

 

 

まだ書きたかったことの半分も書けてない気がするんですが、窮鼠は言及したいセリフがあまりにも多すぎて永遠に書き終わらない気がしたのでこの辺でとめておきます。

 

本当は「セックスがもつ意義」についての話も5000字ぐらいで書きたかったが……。私は窮鼠読むまでプラトニックラブが至高♪ 肉欲は劣等♪みたいな思考をもっていたんですが、そうとも限らないんだなってこれ読んで気づかされた。

「カラダが欲しい時だってありますよ いけませんか?  好きな人とセックスしたいって思うのが悪いですか?」

↑今ヶ瀬のこのセリフでハッとした。別に悪くないよ。逆になんで「カラダ目当て」は悪いこと、みたいに考えてしまっていたんだろう? 好きな人とセックスしたい、そりゃごく自然な欲求だよな……

そしてセックスにおいて「相手に求められる」ということ…つまり入れられる側が得られる精神的な満足ってやつね………これについてもめちゃくちゃ書きたいことあるな。後日もう一つのブログの方とかで書き散らすかも。

 

最近は小野不由美十二国記中上健次(『鳥のように獣のように』『蛇淫』)読んでます。本当は週1で更新したいってずっと思ってる。

 

 

 

宮本輝『青が散る』を読んで完全に「大学生」になった

人からもらった宮本輝の『青が散る』を読んだ。読む前はあんまり期待してなかったんだけど、読み終わってみたら「め……めちゃくちゃ面白かった~…………」って空を仰いで呆然とするぐらいに良い小説だった。

 

青が散る』の舞台は1960年代、大阪。茨木市に新設された大学に燎平が入学するところから始まる。物語は燎平が大学を卒業するまでの四年間の話で、その間に彼はテニスに打ち込んだり、女(夏子)を好きになったりする。

書いてみればそれぐらいに要約できてしまうような、80年代以前?の純文学でよくあった(憶測)、人間たちの日常と起伏を乾いた筆致で描く系の小説でね……読み始めの方では、いつの間にかタイパ重視で生きるようになってしまった私が果たしてこういう小説を今でも楽しめるのかという危惧があったんですけど、上巻の半ばぐらいで「メ、メッチャおもしれ~~~~~;;;;;」になりました。

これだよこれ。今の時代にあってほしいのはこういう小説だよ。

 

宮本輝は有名な『螢川・泥の河』だけ読んだことあったけどあんまり印象に残らなかったから、この本を自分で買うことはきっとなかった。私にこの本くれた人も別に私に薦めてきたとかじゃなくて、多分家にあっていらなかったからくれたやつだと思う。古びてるわりに全然読まれた形跡がなかったから。でもね~そういう本がこんなに面白いということが、あり得るんですよ。

久しぶりのいい読書体験だった。中高生のころ、わけもわからず松本清張五木寛之折原一を読んでいた、Amazonの評価も楽天の売り上げランキングもブクログの口コミも知らずに文庫本の小説コーナーに直行し目についた小説を適当に買って読んでいた”あの頃”を、思い出した。小説は「その他大勢の評価」じゃねえ、「お前が好きかどうか」です。

 

 

以下、物語の展開への言及があります。

 

 

 

 

 三月半ばの強い雨の降る寒い日、椎名燎平は、あまり気のすすまないまま、大阪郊外茨木市に開学となる私立大学の事務局へ行った。

小説の書き出しです。見て!このcoolさを……。説明的で、視点が遠く(情景)から近く(人物)に近づいていく形ですよね。私が読んでいる最近の小説は「自分」の視点でいきなり書き出す印象が強いので、こういうオーソドックスな書き出しの純文学を見ると安心感を覚えるようになった。今でもミステリーとかはこういう形で書き出すのが多いのかもしれないけど。

 

 

 私たちが東京タワーのふもとに着いたのは、散歩を始めてから三十分ほどが経った頃だった。(金原ひとみ『星へ落ちる』)

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみをいれる容器ではない。(池澤夏樹スティル・ライフ』)

例として、手近にあった現代純文学の書き出しを挙げてみました。どっちも「近い」よね。いやまあ一人称小説と三人称小説の違いってのももちろんあると思いますが、それを差し引いても始まり方のキャッチ―さってのが時代が下るにつれどんどん求められるようになってきていると感じる。『推し、燃ゆ』とかもそうですね。

こういう唐突な形で小説が始まるようになったのも、音楽のイントロ時間がどんどん短くなっていってる(もはやサビで始まる)っていう現象ときっと同じことですね。

 

 

 

青が散る』でよかったことの一つに人物描写がある。

ゆかりが白いカーディガンを脱いで雀斑(そばかす)だらけの肩を見せた。雀斑を陽に灼くとシミになるのだといつもこぼしているくせに、ゆかりはその艶やかな肩から腕へと散っている砂の粒みたいな模様が自慢なのであった。胸も尖って大きく、尻や大腿部も形良く張りつめていたが、顎が細く唇も薄かった。裕福な家庭で育ったにしては言葉つきや表情のどこかに品の悪さがあり、そのために一部の男子学生からは特殊な人気があった。

このほどよい文体の硬さ。まあまあ長いけど冗漫に感じない乾いた文体。いいっすね~

こういうの、何て言えばいいんだろう、自然主義ってやつ? いやそういうの全然わからんのやけど……

「裕福な家庭で育ったにしては言葉つきや表情のどこかに品の悪さがあり、そのために一部の男子学生からは特殊な人気があった」、ここ妙にリアリティを感じて好き。

 

ところで村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』読んだときも思ったけど、女の胸を「尖っている」って表現するの小説でしか見たことない気がする。服の上から女の胸を見て「尖ってる」って思うこと、あるか? ブラをつけていれば基本的に丸く膨らんで見えると思うんですが……それとも昔のブラってつけると胸が尖って見えたのか?

 

 

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この小説の二大トピックは「テニス(スポーツ)」と「恋愛」だと思うんですけど、どっちも力いっぱいに青臭くて最高だった。もう本当にね、大学生、等身大の青臭さと汗臭さと苦悩、だけどちっとも幼稚ではなくて人生かけて考える「哲学」がその奥にずっと流れていました。転びながら進んでいる彼らの足のもつれ具合は誰にも馬鹿にできません。

 

まずテニス。最初は好きな女・夏子の気を引くために渋々入ったはずのテニス部に燎平がいつのまにかぞっこん夢中になっていくのがアツくて泥臭さがまぶしくて そうだよな青春って一生懸命な人間をスカして馬鹿にして終えられるほど単純なものじゃないよな って思った。

燎平をテニス部に勧誘した男・金子と二人で汗だくになりながらテニスコートを手作りするところから部は始まる。新設校であるがゆえに全部自分で作り上げる大学生活、っていう設定もよかったな、そんなの思い出としてまぶしすぎるって。

 

テニスの話で印象に残ったのは、やはり「王道と覇道」の話。

燎平はテニス経験者の男・貝谷といっしょに、ある老人のやる「凄いテニス」を見にテニスクラブへ行く。実際その老人のテニスはすさまじく、「ゆるやかに飛んでいるのに、着地した途端、猛烈に跳ねあがったり、横に滑って行ったりする」「ボールはラケットから放たれたときは死んでいるのに、相手のラケットに当たる寸前で生き返って、すばしこく踊り狂うのだった」

 

それを見ながら、燎平と貝谷がこんなやり取りをする。

「サーブ・イン・ショルダー、ボレー・イン・ショルダー、スピン・イン・ショルダー、スライス・イン・ショルダー。……あの爺さんの口癖や。小学生のときは何のことかわかれへんかったけど、やっとこのごろ納得がいったよ」

「何が?」

「力いっぱい変則に徹したら、それはそれで正統やということや」

「王道と覇道という言葉があるやろ?」

「……うん」

「俺は、どんな世界でも、覇道が好きや。たとえば、あの爺さんのテニスは覇道や。理屈も理論も通用せえへん。あの回転にはお手上げやないか。基本通りに一所懸命練習して、なんぼ見てくれのええ華麗なテニスが出来ても、あの気持の悪い回転にかかったら、結局はきれいごとや。あの回転は、やっぱりすごいよ。あれこそ覇道や」

 燎平は何かを言い返そうとして、口をひらきかけたが、貝谷のいやに熱っぽい目を見たとき、反論する気持を失ってそのまま真っ青な空をあおいだ。反論しようと思えば、いくらでもその余地がある貝谷の言い分に、燎平はそれなりの、ある真実を感じたのだった。

それまではスカした雰囲気の嫌な奴として描かれていた貝谷に対して「お前熱いところあるじゃん、そういうの嫌いじゃないぜ……」と思わせる、いいやり取り。「力いっぱい変則に徹したら、それはそれで正統」、妙に胸にストンとくる言葉だ。「上手いテニス」じゃなくて、「強いテニス」が勝つ。

そしてこの話は続きがあって、ちょっと先を読んでいくと、ここでお爺さんすごいなぁと素直に感じ入っていた心に急に冷や水を浴びせられる。

 

テニス部にいる祐子という女子もその凄腕老人のことを知っていて、燎平とこんな話をする。

「私、早瀬のお爺さんのこと、好きよ。このクラブの人は、何となくけむたがってるけど」

「……へえ、なんでや?」

「早瀬のお爺さん、絶対に容赦してくれへんから……。これでもか、これでもかって、やっつけるのよ」

「祐子も、やっつけられたの?」

「うん。早瀬のお爺さんとテニスをしてたら、何か、哀しくなってくるの」

 燎平は、暮れなずむテニスコートに視線を移して、早瀬老人を見た。確かにそう言われれば、老人にはどこか、対戦相手を哀しくさせるものがあるような気がした。早瀬老人のフォームは、独自でもあったし同時に異端でもあった。それは、ある奇妙なリズムに乗って、宙を飛んでくる仮想の敵を斬り払っている孤独な古武士の、静謐な太刀さばきを連想させるのである。

「あのテニスを完成させるのに、早瀬のお爺さん、三十年もかかったのよ。三十年間、毎日毎日、ボールに回転をかけてきたの。上下に回転をかける人はたくさんいるけど、あんなふうに、左右にも回転させる人は、他にはあんまり見たことがないわ」

 燎平は祐子の言葉を聞きながら、自分がひどく愚かな人間であるような思いにひたっていた。いや自分だけではなかった。ゆかりも、夏子も、それから傍らに並んで立っている星野祐子の清楚なたたずまいの奥にも、愚かで哀しいものが隠されているような気がするのだった。それは、ボールに独自な回転を与えるために、三十年間もひたすらラケットを振りつづけてきたという早瀬老人の、ある哀しみを帯びた動きから伝わってくるものであった。

 

「ゆかりも、夏子も、それから傍らに並んで立っている星野祐子の清楚なたたずまいの奥にも、愚かで哀しいものが隠されているような気がするのだった」

 

ここですよ。この哀愁、たった一つのことだけを続けてその一事に卓出した人間を見たときになぜか感じてしまう哀しみ。私にも覚えがあるけど、この哀しみについて書いている文章って思い返してみると今まで見たことがなかったかも。前から薄々知っていた感情を取り出して言葉という形を与えて示されたとき、いつも新鮮に感動してしまう。

 

 

しかも上の引用部分のすぐ後に続く、この章の終わり方が本当にいい。出色だと思う。

 風にあおられて、ポプラの並木が揺れ動いていた。赤い雲が流れていた。老人も、若い男も、祐子のやわらかそうな髪も、どれも一瞬も休むことなく動いていた。動いていたけれども、燎平の眼には、ゆるやかに飛行していって、着地と同時に予測のつかない方向に跳ねあがる回転のかかったボールの、蛇みたいな動きだけが、烈しく生きているただひとつのものであるようにあるように思えていた。

老人の愚かしさと哀しさを詰め込んだようなボールだけが「烈しく生きているただひとつのもの」であるように思える。これ……この……この起伏、重層的な描写。スゴイよ。頭の情景描写もさりげなくしかし大きくここの描写に深みを与えている。

老人の凄さを熱っぽく語る貝谷、その老人の動きがまとう哀しみ、その二つを書いた後で、この終わり方。言葉を知らなくて本当に悔しいが、ここを読んで「ああ、文学だ」って思った。ここでの「文学」は「人生」「哲学」とかと同じような意味なんだけど。異端で孤独で力いっぱい変則に徹した覇道の人間、そういう人間は哀しいけど、烈しく生きているって言えるのもまたそういう人間だけなのかもしれない。

 

「生きるということは全くバカげたことだけれども、ともかく力いっぱい生きてみるより仕方がない。」坂口安吾、「教祖の文学」。

 

 

 

 

で、恋愛の話なんですけど、さっき読み返しててテニスだけじゃなくて恋愛についても「王道」「覇道」の話が適用されているのかなと思った。

作中にメインで出てくる女は夏子と祐子の二人で、彼女たちは見た目も中身も正反対。夏子は華やかで大胆なふるまいをする美人、祐子は顔立ちの点では夏子のような華はないが清楚で、その意味で美しく、つつましやかな女。この夏子と祐子がそれぞれ「覇道」「王道」になってるのかな、って思った。それぞれの生き方の点で。

そう考えると、覇道に徹しようとした貝谷が王道の人生を選んだ(ように世間からは見える)祐子と恋人になれなかったのも、なるほどねという感じだが……この小説はそこまで単純なつくりではないような気もする。

 

それはさておき、ヘラついた感じの貝谷がつつましい祐子に対して真剣に恋をしている、ってのがなんか、めっちゃよかったな……祐子を好きな貝谷が好きだ。

祐子が見合い相手と結婚することになったと知らされた後の、貝谷とテニス部の男たちとの会話が好き。ああ、こういう女いるよね、そしてそういう女のことは好きになっちゃうよね……と読みながら思った。

「祐子みたいな女の子は、絶対に俺みたいな男には惚れへんのや。俺は祐子の結婚相手の顔が、だいたい想像出来るんや。男前でもない、ごく普通の、そやけど俺には太刀打ち出来ん顔をしてるんや」

「そら、どんな顔や?」

 燎平が訊くと、金子がテーブルを叩いて怖い顔でさえぎった。

「顔なんかどうでもええやないか。祐子は男のみてくれに惚れたんと違う。そこがじつに祐子らしい、しゃくにさわるところなんや。俺は祐子をますます好きになった」

「こないだ、学生食堂の窓から何気なく坂道を見てたら、祐子がおんなじクラスの女の子四、五人とのぼって来た。なかなか美人揃いの一団で、他の連中と比べると、祐子が一番目立てへんかった。祐子よりも美人で華やかな女の子に挟まれてたんや。祐子は、そやけどやっぱり際立ってたよ。祐子は華やかではなかったけど、よく見ると一番華やかやった。ああ、祐子て、やっぱりええなァと、俺は思ったんや」

 

貝谷・・・・・・・・・・・・・・・・・お前・・・・・・・・・・・・・・・強く生きてくれ。

 

「祐子は華やかではなかったけど、よく見ると一番華やかやった」「ああ、祐子て、やっぱりええなァと、俺は思ったんや」

この言葉が妙に胸に刺さった。凡庸な言葉のように見えるけど、この素朴な感情を素朴な形のまんまで言葉にしてくれているのがよかったのかな。

 

 

それから、失恋した貝谷を慰める金子の言葉もスゲ~よかった……

「きょうは貝谷にとっては哀しい一日やから、みんなでこいつの心のうさを晴らしてやろうやないか。まずうまい中華料理を食おう。それからどこかのホテルの静かなバーで、よく冷えたマティーニなんかをたしなんでから、サウナに入る。それからマッサージをして体をほぐし、爽やかに生ビールで喉をうるおし、場所を変えてどこかのバーでテニスを語り、青春を論じ、文学について考えるというのはどうや」

もう発想が完全に大学生のそれでしかなくて最高だよ。私もこんなこと言われたいし言いたい。どこかのバーでテニスを語り、青春を論じ、文学について考えるというのはどうや、酒飲んで終わるんじゃないところが良き……

と思った直後に「腹ごなしにパチンコというのはどうや?」っつって全員でパチンコ屋に入っていって草だった。ご馳走食べに行く前にパチンコ屋へ入るな。

 

 

 

そして、夏子よ……。夏子、この女、燎平を翻弄しやがる。だけど端々からにじみ出る「イイ女」感、夏子も祐子もそれぞれ好きになっちゃうよ……

作中の登場人物は結構みんな方言は強めなんですけど、夏子は方言が控えめで、それもなんだか夏子との距離を感じさせるというか、華やかで手の届かないところにいる女という印象を生んでいた。

 

夏子の体重を体の左側に受けて、頬に生温かいものがよぎるのを感じた。燎平は立ち停まり、目をあけて夏子を見た。夏子も目をあけて、燎平を見つめ返していた。

「夏子、いま俺の頬っぺたにキスしたの?」

「そうよ。お礼のキスよ」

「……へえ」

 燎平は自分の頬を指先でさわってから、

「気がつけへんかったから、もういっぺんしてくれよ」

 と言った。夏子はあたりをうかがい、それから笑顔を浮かべて近寄って来、両腕で燎平の頭をかかえ込んで、頬に長いこと唇をつけていた。夏子の全身を包んでいる細かな水滴が、燎平にまといついている水滴と混ざり合ってつぶれ、そこだけ液体になって濡れそぼった。

夏子の全身を包んでいる細かな水滴が、燎平にまといついている水滴と混ざり合ってつぶれ、そこだけ液体になって濡れそぼった。マジでここ……エッチで美しくて天才だった。なにこれ?エッチなのに全然いやらしくない、透明な、あとで何度も思い出す、青春時代の恋ですよ。

初めて出会ったときの夏子も雨に濡れてたんですよね。作中では夏子と燎平の印象的なエピソードのときは雨が降っていることが多かったように思う。この作品は情景描写も豊かでめちゃくちゃいいんですよ、景色、温度、湿度、空の色がある。

 

 

 

燎平は夏子にずっと恋心を抱いてるんですけど、でも夏子は、婚約者がいる別の男(田岡)と恋仲になって寝てしまうんですよね。別に夏子は燎平と付き合ってるわけでも何でもなかったけど、それにしたって自分のことが好きだとわかっている相手にこの言葉はさすがに残酷だと思った。

「きょ年の十一月に、六甲の駅で、燎平私に訊いたでしょう? 夏子は男の人を知ってるのかって。私、正真正銘の処女よって答えたの覚えてる?」

 燎平は桟橋に坐って、海に足をひたしたまま、傍らに立っている夏子を見あげた。

「でも、いまは違う。もう何遍も何遍も、田岡さんに抱かれたわ。真っ裸にされて、何遍も何遍も田岡さんに」

 燎平は、自分の顔が紅潮しているのか青ざめているのかわからなかった。白くふやけたように見える海水の中の足を見つめて黙っていたが、それきり夏子が口を閉ざしてしまったので、そっと顔をあげた。夏子は瞬きひとつせず燎平を見下ろしていた。

もう何遍も何遍も、田岡さんに抱かれたわ。真っ裸にされて、何遍も何遍も田岡さんに、片思いしている女から聞きたくない言葉No.1でしょ。こんなこと言われた日には呆然自失として家帰ってからめちゃくちゃに枕を濡らすと思う。

 

でも、ひどい、ひどすぎるよ~~;;;;;;と思っていたら、少し後で美しすぎる「救済」があって、燎平は救われた。私も救われた。青年をどんぞこに突き落とすのも青春なら、そこから救い上げるのも青春なのかもしれない。

青が散る』は本当に、浮き沈みというか、ストーリー上の起伏のつけ方が本当に見事で、読者を置いてけぼりにすることのない等身大の速度で、残酷な出来事、哀しい出来事、美しい出来事を展開していくんですよね。小説家の技量をさりげなくまんべんなく見せつけられた気持ち。

 

 

 

夏子との恋に燎平が翻弄されている傍ら、だけどこんな言葉も書かれている。青春・恋愛小説とくくってしまうことも可能な小説でこういうことが書かれているのがめちゃくちゃいいんですよ、文学ってサイコー!!

 以前、金子が、人生で最も心ときめくものは恋であると言ったことがあり、それはある種の共感をもたらしたのだったが、いま燎平はそのことに対して漠然と反撥を感じた。恋など、ある部分にすぎないのだと思った。もっと大切なものがあるはずだ、もっと大きなことがあるはずだ。夏子の、人目を魅く、彫りの深い顔を見つめて、燎平は大きく溜息をついた。無為な日々をおくっている気がした。何物かを喪いつづけている気がしたのだった。

喪われている「何物か」ってなんだろう。もっと大切なものってなんだろう、でもこういう理由のわからない「焦り」みたいなのって青年期につきものだよなぁ。ただし、青年期に顕著なものというイメージはあるが、でもこういう焦燥感は一生を通じてつきまとうものかもしれない。

 

 

 

まだまだ言及したいことあるんですけどもう8000字も書いてしまった。人間の駱駝、発狂と自殺、祐子とのこと、ポンクとの試合、教授とのことも書きたかったけどこの辺にしておきます。

 

最後に、森絵都さんが書いた解説にも好きな文章があったので紹介。

 そういえば、そうだった。青春は光に満ちた時代だ、という頑なな思いこみが若い頃にはあって、だからこそ自分の薄暗い青春を嘆いたり、妙な引け目を感じたりしていた。そして大人になればなったでそんな過去など棚に上げ、青春は光に満ちた時代だと再び思いこみ、「若いって、いいな」などと目を細めたりもする。しかし、青春最大の特徴は、光よりもむしろその色濃い影にあるのではないか。

「これ」だよなぁ……。「青春」って言葉で紹介されてる作品ってなんとなく読む前・観る前からさわやかそうなイメージを抱いてしまうけど、青春の本質って「影」なのかもしれない。鬱々として、泥臭くて、吐き気がするほど気分が悪くなるようなことがたくさんある。『青が散る』はそういう作品だった。光と同じくらいかそれ以上に「暗さ」が作品を覆っていた、だけどまごうことない「青春」だった。

 

そこかしこに「色濃い影」が落ちているこの本を「青春小説」と呼んでしまうのって、読後のすがすがしさが理由かもしれない。ハッピーエンドだったという意味ではない。救われなかった人間もいる(というか、わかりやすく「救われた」と言えるような登場人物はゼロかもしれない)。だけど後味の悪さや胸糞悪さはなくて、「ああ、人生って確かにこういうのだよね」っていう普遍性が胸の中にするすると流れ込んでくる感じというか……

なんか、もう、気持ちよかったんです。哀しさとかやるせなさもひっくるめて、読み終わったあと気持ちよかったんです。

良い本だった。宮本輝は小説が上手かった。もう一度大学生をやらせてくれて、ありがとう……

 

 

 

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以下お返事です。1/27にメールフォームよりメッセージお送りいただいたマさんへ(ここを見てるかわからないのですが……)

薄い字にしてるので反転してお読みください↓

メッセージありがとうございます!そして反応が遅くなってしまい申し訳ありません。

お言葉とっても嬉しいです……(;;)マさんのような方に見つけてもらうために書いているようなところもあるので、そう言っていただけると記事を書いた甲斐があります!

RIN好き仲間を見つけられてHAPPYです。周囲の人間に理解されない孤独を描いた作品はたくさんありますけど、RINはその見せ方が鮮やかで衝撃的で、「唯一無二」感が圧倒的なんですよね。しかしなぜか周りに読んでいる人があまり見つからないという……

メッセージ本当にありがとうございました!RINって最高ですよね。

↑ここまで(この文字色薄くして反転して読ませる手法、個人サイト時代からやってますけどまだ生きてますか?)

 

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