まくら

読んだ本や好きな文章の感想

すさまじく悲惨なポップ、乙一「カザリとヨーコ」

乙一の短編集『ZOO1』の中に「カザリとヨーコ」って話があるんですが、これがも~~どん底みたいに悲惨な境遇にいる中学生が主人公なのに、読んでると謎の元気が湧いてきて好きなんですよ。

 

 

 

 ママがわたしを殺すとしたらどのような方法で殺すだろうか。たとえばいつものようにかたいもので頭を殴るかもしれない。時々そうするように首をしめるかもしれない。それとも自殺にみせかけてマンションのベランダから落とすだろうか。

これが冒頭。これだけでもう「理解」できますよね、主人公の状況が。

乙一のこの異様に読みやすい文体にも注目してほしい。

 

 

 わたしとカザリは一卵性の双子だ。カザリは美しくて活発で笑う時にはぱっと花がさくように笑った。学校で彼女はクラスメイトや先生からとても愛されていた。時々わたしに食べ残したごはんをくれるのでわたしも彼女が好きだった。

カザリとヨーコは一卵性の双子なんですが、カザリだけが母からかわいがられ、主人公のヨーコは壮絶な虐待を受けています。しかしヨーコは、「カザリの存在はわたしにとって心の支えだった」「カザリはみんなから愛されていてわたしはそんなカザリと血を分けた家族なんだという誇らしい気持ちがあった」と言う。ふつうならカザリのことを憎むと思いますが、ヨーコはそうじゃない。天使を仰ぐようにカザリのことを愛している。

 

 

 ママとカザリは自分の部屋を持っている。わたしにはないので自分の持ち物は掃除機なんかといっしょに物置へ押し込めている。幸いにもわたしには所有物がほとんどなかったので生きるのに大きなスペースはいらなかった。(…)わたしにあるのはひしゃげたぺちゃんこの座布団だけである。それを台所にあるゴミ箱の横に置きその上でわたしは勉強をしたり空想をしたり鼻歌を歌ったりする。注意しなければいけないのは、ママやカザリの方をじろじろ見てはいけないということだ。もしも目があったりしたらママが包丁を投げつけてくる。座布団はまたわたしの大事な布団でもあった。この上で体を猫のように丸めて眠ると、なんと体が痛くないのである

強調引用者。

この小説の特殊なところは、母親と目が合っただけで包丁を投げつけられるような生活を主人公が送っているのに、語り口がめちゃくちゃ明るいところです。こんな家の中にあって鼻歌を歌えるような人間ってどれだけいるだろうか。

 

ヨーコが受けてきた激しい虐待について語られている間も、ずっと文体が軽妙でユーモラス。じゃあヨーコはめちゃくちゃ鈍いのか、苦痛を感じていないのかというとそういうわけではなく、痛みも悲しみも感じている。

そのうえでのこの軽い語り口に、なんかすごく救われるんですよね。

 

 

引用はしませんが、だいぶ絶望的なのに「未来」を向いている終わり方もとても好き。

苦しい話を苦しく書いたものは世に腐るほどありますが、苦しいものを明るく書いた話って案外少ない。私だったら怒られないかとかいろいろ考えちゃって書けないようなことを書いてくれる小説が好きだ。

 

 

----------

 

乙一叙述トリックをよく使う作家で、猟奇的な話、ミステリー、恋愛もの、いろんな話を書いている。かなり暴力的で残酷な話も多いんだが、描写の粘度が低いので不快感はなくさくさく読める。読後感も良い。そして陰キャの心理描写が上手い。

 

猟奇的な話が好きな人には『GOTH』、暴力的なのはそんなに好きじゃないという人には『失はれる物語 』とかがおすすめ。

道尾秀介(の『向日葵の咲かない夏』)が好きな人は『死にぞこないの青』とか好きかも。

『小生物語』というエッセイ(のような小説のような)も面白くて好き。ユーモアのセンスがある。

 

乙一は学生時代に読み漁った作家だが、乙一の別名義である中田永一(『くちびるに歌を』『百瀬、こっちを向いて。』『私は存在が空気』)、山白朝子(『私の頭が正常であったなら 』)の著作はまだ読んだことがない。読もう読もうと思っているうちにもうこんな年になった。そろそろ読みたい。

 

 

上野千鶴子+鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』読んだ

たまたま図書館で借りて読んでいるあいだに上野千鶴子が話題になっていた(米誌タイムの「世界で最も影響力ある100人」に選出された)ようなので、感想を書く。

 

 

中国最大級の書評サイトで2022年のブックオブザイヤーに選ばれたそう。

中国語版の表紙かわいい。

 

気づいたら私のあとにたくさんの人が貸出予約をしており、返却期限が明日に迫っているので手短に書く。

 

 

上野千鶴子鈴木涼美

 まちがってほしくないのは、世代が上であるほど性に保守的だとは思わないでほしいということです。わたしたちは60年代から70年代にかけて世界中を席巻した「性革命」の世代です。昨今、ことあたらしく実験的な性愛が注目されているようですが、ポリアンドリー(一妻多夫)もオープンマリッジ(制約のない結婚)もとっくに実践されていました。クープル・アンジェリーク(天使のカップル)と呼ばれるカップルもいました。特権的なカップルのあいだではセックスレスで、セックスはパートナー以外とするという関係です。わたしには排他的な異性愛カップルのネガにしか見えませんでしたが。今ならセックスレスの夫婦が婚外に性のパートナーを求めるという、そこらにあるカップルの戯画にしか思えません。マンガやブログで描かれている「性の実験」を見ると、古いなあ、と思わないわけにいきません。

そんな「性革命」の時代が過去にあったとは知らなかった。昨今、いろんな性関係や非性的なパートナー関係が提唱されて、時代が進んでいるなあ、と思っていたが、50年も前にすでに行われていたかもしれないことだったのか。

 

この「クープル・アンジェリーク」的な関係を望む人が知人にもいる。その話をずっと聞いていたせいか、自分でも元からそう思っていたのかはもうわからないが、私もその関係が理想な気がしてきている。「セックスレスの夫婦が婚外に性のパートナーを求める」というとネガティブな印象を受けるが、そういう「仕方なし」の選択ではない。「特権的なカップル」外の相手と性行為をしてもいいということをあらかじめ決めておいて、基本的には外の相手と性行為をする。そのうえで二人ともが了承するならカップルで性行為をしてもいいし、嫌なら当然拒否してもいい、という関係。……これはむしろオープンマリッジのほうに近いか?

「セックスなんてしなくてもいっしょにいられるじゃないか」と思う。が、この考えはセックスレスの人(特に女性)からよく聞く、「ずっと一緒にいると『家族』になって性欲わかなくなる」っていう心理とつながっているんだろうな、という気もする。

 

いま、山極寿一の『父という余分なもの -サルに探る文明の起源-』を読んでいるんだが、ちょろっとだけど「親しい異性間では交尾回避が起こる」という記述が出てきた。

 ゴリラの社会でも、母親と息子、父親と娘の間では交尾がほとんど起こっていない。どうやら彼らはお互いに求愛することを避けているらしいのである。

 関西学院大学高畑由起夫教授は嵐山のニホンザルを調査し、この交尾回避が近親個体間だけでなく、「親しい間柄」にあるオスとメスにもみられることから、異性間に形成される「親しさ」が性衝動を抑制するのだと考えた。

(山極寿一『父という余分なもの』)

やっぱり人間でも多少、親しくなった相手に性欲がわかなくなる、というのはあると思うんだよな。性欲以外のところで親しくなりたいんだが。

 

 

 

鈴木涼美上野千鶴子

 同性婚や夫婦別氏について、私はもちろん別に反対する理由は何もないのですが、結婚を拡大していく方向のそれらの議論を見ていると、みんなそこまでして結婚という言葉を手に入れたいのか、と興味深く思います。サルトルボーヴォワール型の事実婚は、フランスなどではすでに制度として確立していますが、日本で結婚の下位制度を作るという話は少なくとも現実的な議論にはあまりなっておらず、どちらかというとあくまで結婚という古い制度を柔軟に応用しようという議論に偏りがちなことは、正直言って、やや不思議に思います。今の段階では結婚しないことには社会における不便、特に育児においては決定的な不利条件があるのですが、そちらの改善ではなく、多くの結婚していない人が結婚できるようにしようという改善に意識が向くのはどうしてなのだろうかと感じます。

調べたところ、フランスにはPACS(パックス)というパートナー制度があり、それには貞操の義務がないらしい。

 

「結婚以外の選択肢を拡充させる方向に人々の意識が向かないのが不思議」という鈴木涼美の言には、確かになぁ、と思った。「いろんな人が結婚できるようになればハッピー」とばかり考えていて、鈴木の言うようなことをなぜか全然考えたことがなかった。

なんとなく、日本の婚外子の少なさと関係のある気がする。結婚してないのに産むなんて、という意識がやはり人々の間で根強いのかな。デキ婚に対する風当たりも。

子どもを産むとなったとき、結婚しないメリットがあまりないから婚外子が少ないというのもあるのかな。パートナーがおり、子どももいるのなら、なぜ結婚しないのか?となるのか。(この辺詳しくないのであまり踏み込んだことを書けない)

 

 

 

上野千鶴子鈴木涼美

 松井久子監督の『何を恐れる フェミニズムを生きた女たち』(2014年製作)というドキュメンタリー・フィルムに出演したとき、わたしはそのなかで「女性にとって性的身体の自由はとても大事」という発言をしています。(…)

 だから「ひとはなぜ不倫するのか?」という取材を受けたときも、反対に「ひとはなぜ不倫せずにいられるのか?」と聞き返したい思いでした。「不倫(道にはずれる)ということばもふしぎなことばです。結婚しなければ不倫はできませんから、もともとできないお約束をしなければいいだけです。戦前の姦通罪が女性側にだけ適用された片面性を、戦後の民放は男女平等にしましたが、それで芸能人の不倫を糾弾する報道が登場するたびに、ばかばかしくてなりません。なぜ報道するか、ですって? 確実に視聴率が上がるから、という理由を聞いたことがありますが、他人の不倫に興味を持つ視聴者がそんなに多いのでしょうか。

(…)

 わたしは性と愛を権利・義務関係のもとに置くこと、所有し、所有される関係を結ぶことがどうしてもガマンできないのです。

ちょっとよくわからない箇所もあるが、「なぜ人々がそんなに不倫に興味を持つのか」「性と愛を権利・義務関係のもとに置くことにガマンがならない」という話はよくわかる。

 

私の周囲は不倫容認派が多く、なんなら不倫推奨派もおり、私自身も不倫に対する人びとの猛烈な批判・激烈な怒りを見るたび「なぜそこまで怒るのか?」と心底不思議に思っていた。

私は、不倫・浮気は「相手が傷つくかもしれないとわかっていたのにやった」という点で「思いやりが足りない」と思うので、そこを非難するのはわかる(逆に言えば、すでに話し合い済とかで「相手が傷つかないとわかっている」状態ならほかの異性と性交することはまったく無問題)。

でもなんか、世の中の人…主にネットだが…は不貞行為に対して生理的嫌悪感とでもいうような拒否反応を示しているように感じる。浮気・不倫を否定する説得力ある理由も見たことがない。やっぱり理屈を超えたところで拒否反応が起こる人が多いのだろうか。

個人間で、人同士の思いやりとして「浮気は私が傷つくからやめてね」というのならわかるが、結婚という法的制度が最初から「不貞行為の禁止」を含み持っているのが理解できない。なぜ最初から、上から、そんなことまで決められていなければならないのか。なんかそこがキモチワルイなぁと感じてしまう。これも理屈を超えた拒否反応なのかもしれない。我々はわかり合えないかもしれないが、共に生きていくことはできる。

 

ちなみに、「姦通罪が女性側にだけ適用された片面性」については、『男はなぜ暴力をふるうのか』という本で生物学的な見地から説明されていた…はずなので、興味ある人はよかったら読んでみてください。

男はなぜ暴力をふるうのか: 進化から見たレイプ・殺人・戦争

 

 

 

上野千鶴子鈴木涼美

わたしには歳をとってからできた女友だちがたくさんいます。高校生や大学生に向かって「今が生涯の友をつくる大事な時期だよ」と言う人を見ると、若いときにしか友人をつくれないと思っているのか、かわいそうに、と感じるくらいです。年齢を重ねてから親しくなったひととは、「若いときに会わなくてよかったわね、きっとそのころに会えばお友だちにならなかっただろうから」と顔を見合わせて笑いあうこともあります。

これは良い~~~ですね。元気づけられます。最近は「若いうちに友達もっと増やしとかなきゃ!」という焦りがあったんですが、これ読んで解放されました。未来が明るくなりました。

 

 

 

ところで、この『往復書簡』を読むのに先立って、鈴木涼美『「AV女優」の社会学』も読みました。

鈴木涼美本人も増補新版の序文で書いていましたが、文章が大分粗削りというか、シンプルに読みづらい箇所が多かった(特に第2章)。でも『往復書簡』では大分読みやすくなっていたから、ブラッシュアップしたんだなぁと思った。

AV女優の生の言葉が収録されているのが面白かったですね。AV業界の仕組みも、知らないことばっかりだったからそこは興味深く読めた。

何が言いたいかというと、『往復書簡』の中で『「AV女優」の社会学』への言及がたまになされるので読んでおいた方がいいのかなぁと思って先に読んだんですけど、別に読まなくても『往復書簡』を読むのに支障はないと思います。

 

 

 

 

それにしても、上野千鶴子鈴木涼美の文章を読んでいる間ずっとモヤモヤした違和感があって、それは「なぜ自分のことを女だと信じることができるのか」ということだった。これは別に二人への批判ではなく、自問自答みたいなもんなんですけど。

鈴木涼美は繰り返し繰り返し、「この人たちに何を言っても無駄」「絶対にこの生き物と理解し合えることなんてない」と、男に対する「絶望」と「諦め」を語る。上野千鶴子は、対話は諦めてなさそうだけど、なんかずっと文章の根底に男性に対する強い憎しみが流れているのを感じる。言葉の選び方に「怒り」を感じるんですよね。

 

なんか、それに違和感がある。別に、男にも女にもいろんな人がいる、とか言いたいのではない。不思議なのは、「なぜそんなに、男を完全に自分とは別の存在として扱えるんだろう」ということだ。

私は自分のことを「たまたま女に生まれた存在」だと思っており、男性のことも「たまたま男に生まれた(もしかしたら女だったかもしれなかった)存在」だと思っている。だから「なぜ女だというだけで、そんな扱いをされないといけないのか」「なぜ男であるというだけで、そのような態度がとれるのか」という、主に性別役割分業意識に対する強い反発は覚えるんだけど。

自分は女であり、相手は男である、という深い溝を作ったうえでの主張にどうにものめりこめない感覚がある。

なんかこれは、私の性自認や、ミソジニー女性嫌悪)にも関わってくる話だと思うんだが、うまい感じにまとめられない。

 

 

そんなこんなで(?)フェミニズム論やジェンダー論を読むより先に、どこまでがセックスでどこからがジェンダーなのかをまず知っておきたいと思い、性の起源、家族の起源、霊長類と人類のつながりなど、生物学的な本をいろいろ読んでいる。

世の中にあるいろんな男女差に、生物学的理由があるとわかれば、もっと腹を立てずに生きていけると思うんですよね。自分の心の平穏のために本を読んでいます。おもしろいです。

 

 

宮本輝『星々の悲しみ』読んだ

以前読んだ『青が散る』がめちゃくちゃ面白かったので、それ以来宮本輝の作品をいくつか読んでいる。

今回は『星々の悲しみ』という短編集を読んだ。

 

 

 

 

好きだったシーンはまず、表題作「星々の悲しみ」の、天体観望のシーン。

レンズの中に煌々と浮かんだ星々の、それぞれ異なった寿命やら光の強さやら、もはやどんな強力な天体望遠鏡ですらとらえることの出来ない、はるか彼方の無限の星の数と星雲の大きさ。

 ぼくは時間も忘れて、望遠鏡にしがみついていた。

「さびしいもんやなァ」

 ぼくは心からそう感じてつぶやいた。

「うん、さびしいもんやろ」

 勇も同じようにつぶやいて、それきり黙ってしまった。

満天の星を見て出てくる言葉が「さびしいもんやなァ」なこと、それに対して当然のように「うん、さびしいもんやろ」と友人から返されること、これが良い。

私だったら多分星空見ても「美しいなぁ」みたいなことしか言えないと思うんですけど、「さびしい」って感想を聞いて初めて、たしかに私たちは星の下で寂しいのかもしれない、と思った。それを感じて言葉にできる主人公(と作者)が羨ましいと思った。

(あえて書くことでもないだろうが、「さびしい」のは星だけじゃなくて、私たち人間も、だと思う。そういうセリフだと思う)

 

 

私は小説だけでなく漫画もめちゃくちゃ読むんだが、経験上漫画でしか得られないもの、文学でしか得られないものってあって、その(純)文学でしか得られないものの一つがこの「さびしいもんやなァ」だと思うんですよね。

 

私の感覚だけど、(大衆向け)漫画と大衆小説は「共感性」が重要で、「ああ、わかるわ〜」「この場面ではそうなるよねぇ」ってなる展開を見せてくれるもの、という印象がある。つまり「登場人物の心の動きに対する意外性」があんまりないんだよね。もちろん考え方がぶっ飛んでるサイコパスキャラもたくさんいるけど、やっぱりほとんどの場合は「クレイジーなキャラ」として予測できる範囲に収まるというか、「胸をつかれるような意外性」に出会うことって少ない。

一方、そういう意外性に出会えることが多いのが純文学で、そしてその意外性は表面的には意外だけど深いところでは理解できる。「ああ、確かにそうかもしれないな」と理屈を超えたところで理解できるものに、純文学では比較的頻繁に出会う。

そういうものが読みたくて文学を読んでいる。

 

この「さびしい」を読んで、吉野弘「I was born」を思い出した。

吉野弘「I was born」(+日記) - まくら

 

 

 

 

もう一つ好きなシーンは、「小旗」の中で、父を亡くした直後の主人公が、交通整理している青年を見るところ。

 青年が道の端に直立不動で立っていた。(……)バスはどちらの方向からも、いっこうにやって来なかった。そのあいだは用事がないのだから、道端に腰を降ろして休憩していればいいのにら青年は身じろぎもせず、片方の手に赤い小旗を持って日差しの中を立ち続けているのである。

 青年の顔が、何かの漫画の主人公に似ているような気がして、ぼくが思い出そうと頭を巡らせ始めたとき、青年は猛然と旗を振りだした。坂道の頂点でバスの屋根が光っていた。青年の仕草があまりに烈しかったので、停車を命じられた対向車が急ブレーキをかけ、運転手が窓から顔を出した。

 青年は、全身全霊を傾けて、自分の仕事を遂行していた。赤い小旗が振られるたびに、ぼくは何もかも忘れて、青年の姿に見入った。そうしているうちに、父が死んだことが、たまらなく哀しく思えてきた。ぼくは、父の死に目に立ち会わなかったことを烈しく悔いた。

それまで父が死んでも悲しそうな素振りを見せなかった「ぼく」が、なぜ小旗を振る青年を見ていたら「たまらなく哀しく思えてきた」のか。

それは、この青年が「生」の象徴だからですね。愚かしいほどひたむきに、些末なことに必死になって取り組む人間、これが宮本輝にとっての「生」なんだろうなぁと思った。

 

青が散る』に出てきた、ボールにスピンを掛け続けたテニスのおじさんと同じですよね。見ていると悲しくなるほど愚直で、しかし烈しく生きているただ一つのもの。

 

あと、「青年の顔が、何かの漫画の主人公に似ているような気がして」というのも示唆的。多分、才能のない主人公がひたすら努力して成功する系のスポ根漫画なんじゃないでしょうか。私の中では、ちばあきお「キャプテン」の谷口みたいなイメージ。谷口好きなんですよね。

 

いいなぁ。宮本輝はこういう、生の中の愚かしさ、愚かしさこそが生み出す命の火みたいなものを書くのが上手いですね。みっともなさと美しさを同時に描いてくれる作品が好きです。

 

 

木村紅美『夜の隅のアトリエ』と、北陸という土地

富山かな?と思ったら富山だった。

陰鬱陰鬱陰鬱な北陸の冬と雪がこれでもかと描写されていて、これだよこれ😄と思った。

 

 

 

 

初めて読む作家だったが、感情の乏しい淡々とした文体が好みだった。

この描写が特にすごくて痺れる〜!と思った箇所はなかったが、全体を貫いている乾いた筆致が読みやすくて、久々に一気読みした本だった。

 

東京で働いていた美容師の女性が、職と名前を捨てて雪深い土地に逃れる話。絶え間なく雪の降る、住民に「どん底」と言われるような街で、ラブホテルの店番をするようになる。そしてときどき絵のヌードモデルもつとめる。

 

 

 

 年末に東京から半日かけて辿り着いたその町は、猛吹雪に支配されていた。薄墨色の空から、意思を持っていそうな雪が、たえまなく、降る、というよりも渦を巻きながら、巨大なバケツを引っくり返されたみたいに襲いかかってくる。水気を多く含んだ青白いぼたん状の粒のあいだがみっしりと詰まっていて、何メートルか歩いただけで上からも横からも壁のようなものに閉じ込められ押しつぶされそうに感じる。

いいですねぇ………。この重苦しさ、これぞ「北陸文学」ですよ。私はこういう冬の描写を読みたかったんですよ。

私は北陸に住んでいたことがあるんですが、雪が多い日はこういう感じでした。駅につながる地下通路から出てきたところの景色。

 

 

でも、雪の中で一人歩くっていうのはいいもんですよ。太平洋側の都会に住む人にも一度経験してもらいたい。雪が降ってるときって、音が消えるんですよね。ときどき遠くを走る車がシャーベット状になった雪の中を進むジャアッっていう音だけが聞こえる。自分のほかに誰も歩いていない。雪深い土地で文学が育つのも納得の、内省的な時間になる。

 

 

 

 暗く湿った通路をくぐり、再び半地下へ出た。ギャラリーの引き戸に本日終了の札が吊るされている。石畳の中心に佇み見あげると、四角く区切られたみどりがかった黒っぽい空からわさわさと降る雪が、敵意を持ち自分ひとりを目がけて叩きつけてくるようで、土ではなく雪の底に埋葬されそうに感じた。

こんなふうに、何度も何度も何度も、烈しい雪の描写がなされる。作者は高岡のほうに取材に行ったとツイッターで言っていたが、よっぽど雪の強さが印象深かったんだろう。確かに、太平洋側に住むと、雪の少なさというか冬の間の晴れの日の多さに驚く。東京の冬は寒いばかりでつまらない。

 

 

 

 

これは確か富山で正月に撮った写真なんですが、ほんとうに冬の間は色がない。空がずっと一面の平面な白。

あと、街中の建物も色彩に乏しい。屋根も壁面も看板も、なんか彩度低めで地味なんですよね。歌舞伎町とは大違い。街の中心部でもさびれた印象を受ける。まあ金沢駅とか富山駅なんかは最近は開発が進んで華やかになってきましたけどね(金沢は昔から華やかか?)

 

 

 

 

富山駅から見た景色。彩度が低い。空は当たり前のように曇り。

 

 

 

 

本の話に戻ると、なんかときどき不思議な記述がありますね。論理がつながっていないというか。

 

例えば主人公が、路面電車の運賃支払いで小銭がなく困っていたときに、以前も乗り合わせたことのある(しかし話したことはない)男に助けてもらう場面。

「ふたりぶん。……後ろの方のも」

 予想外のことに狼狽し、どう言えばいいかわからなくなった。再び居合わせてからずっと、内心、ひそかに助けてもらえないかと期待していた。

ここはわかりやすく繋がっていない。「予想外のこと」なのに、ずっと内心「期待していた」。

でもこの脈絡のなさが、主人公の浮世離れした生き方・考え方をよく演出している。他人の保険証を盗んで、仕事をバックレて、知らない土地で他人の名前で生活するような生き方ですね。

 

 

 

またこれは、路面電車の運賃のために小銭を作れるかもしれない、と思って、主人公が連絡船に乗ったときの記述。

「また十分後に出発しますけど乗りますか」

 年上のほうの乗務員が少し照れているような笑顔で訊いてきた。

「お願いします」

 つぶやいて外へ出た。

 凍てついた空気に閉ざされたしんとしたなかに、倉庫がなんらんでいるだけだ。すっかりちぢこまって船へ引き返した。

「このまま帰ります」

 乗務員がだまったまま笑顔を向けてくる。元には戻れないし、戻りたくもない。くちびるがほころび、精一杯のほがらかな笑顔になった。媚を売ったように受け取られたかもしれないと思い居たたまれなくなりうつむいて、マフラーで口もとまでおおった。乗務員はさっきよりも眼を細め頷いて笑い返してきた。

元には戻れないし、戻りたくもない。」唐突な一文ですね。これは連絡船とかには関係なしに、東京に住んでいたあのころに、ってことだと思うんですが。主人公の意識がひとところに定まらず、こんなふうに突然別のところに飛ぶことがある。

そのあとの「ほがらかな笑顔」もよくわからない。媚を売ったわけではないらしい。今の状況に対する自嘲というか、なげやりな気持ちからくる笑顔かなとも思ったんですが、そうなると「精一杯」って言葉とそぐわない。なんだろう。

 

でもこういう、不思議で朦朧とした感じの小説、好きですね。論理明快な推理小説みたいに、作者の説明に必死でついていかなくて済むから。疲れているときにぼんやりと読みたいタイプの本。

 

 

 

この本は、終わり方がよかったですね。主人公に共感できない人は全然できないでしょうが、私はこういう生き方に漠然とした憧れがある。どこにも定着せず、自分を知ってる人が誰も居ない土地を選んで、嘘の名前で生きること。

 

 いまいるここで、東京を離れいくつめの町になるのやら、いつからか正確に把握していない。短くてひと月から長くて一年半ごとに、北から南まで、観光地でなくこれといった特徴のない町、産業が衰え過疎化の進んだ町ばかりに引き寄せられ、移り住んでいる。候補地はいたるところにある。五、六年を過ぎた。

(…)

 掛け持ちもしょっちゅうだ。鵜吞みにしたマニュアルに従うだけで良く、独自の個性や発想といったものはむしろ邪魔になるだけの仕事、一日の終わりがくるといつもボロ切れのように疲れ果て、ただ、倒れて眠るしかない、休日もろくになく余計な感情を根こそぎ奪われる仕事が理想だ。なにも考えず、思い出さないで生きていける。

仕事に関しては、私はもっと楽なのをやりたいですが。でも彼女は「なにも考えず、思い出さないで生きて」いきたいから、こういう仕事を選ぶわけですね。彼女は逃亡者であるので。

罪から逃れるために名前を変えて土地を転々とする、って小説としてそんな目新しい設定ではないと思うんですが、なんか面白かったな~この小説。

やっぱりこの、作中全体に漂ううら寂しい雰囲気が好きですね。あと記事内では書きませんでしたが、ちゃんと物語内に起伏があって読者を飽きさせなかった。

 

あと、いま最後の箇所を読み返してたら、まさに最終行に「くちびるがほころぶ」ってあって、連絡船の場面での「精一杯のほがらかな笑顔」も、この記述とつながっているのかもしれないと思った。

 

 

 

----------------

 

昨日借りてきた本、宮本輝『星々の悲しみ』、中村文則『迷宮』、有栖川有栖『こうして誰もいなくなった』。

有栖川有栖は読んだことないけど知人がおもしろいと言っていたので。

いまは『迷宮』を読んでいる。中村文則は作品によって当たり外れがかなり大きいが、やはり文体がよい。この反社会性と陰鬱さがたまらない。

 

 

----------------

 

24/4/30追記

作者の木村紅美さまに記事を読んでいただけたようです。ありがとうございます♥

f:id:synr777:20240430202056j:image

やっぱり大寒波だったようですね、富山は近年は年によっては全然降らないこともあるので…

 

このブログはずっと本の感想をほとんど独りよがりに書いているだけだけど、読んでくれている人がいるようで、嬉しいです。みんなも独りよがりに本の感想を書いてほしい。