まくら

読んだ本や好きな文章の感想

雑記-村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』を読んで

いろいろあって仕事がいやになることがある。なぜこんなことをしなければならないのか、と思う。

 

歯医者に行ったあとカレー屋に行って、村上春樹羊をめぐる冒険』の続き、『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいたらこんな一節があり、「わかる…………」になった。

 

「あまり仕事が好きじゃないの?」

 僕は首を振った。「駄目だね。好きになんかなれない、とても。何の意味もないことだよ。美味い店をみつける。雑誌に出してみんなに紹介する。ここに行きなさい。こういうものを食べなさい。でもどうしてわざわざそんなことしなくちゃいけないんだろう? みんな勝手に自分の好きなものを食べていればいいじゃないか。そうだろう? どうして他人に食い物屋のことまでいちいち教えてもらわなくちゃならないんだ? どうしてメニューの選び方まで教えてもらわなくちゃならないんだ? そしてね、そういうところで紹介される店って、有名になるに従って味もサービスもどんどん落ちていくんだ。十中八、九はね。需要と供給のバランスが崩れるからだよ。それが僕らのやっていることだよ。何かをみつけては、それをひとつひとつ丁寧におとしめていくんだ。真っ白なものをみつけては、垢だらけにしていくんだ。それを人々は情報と呼ぶ。生活空間の隅から隅まで隙を残さずに底網ですくっていくことを情報の洗練化と呼ぶ。そういうことにとことんうんざりする。自分でやっていて」

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス講談社、p.240

 

存在するかどうかも怪しい「需要」とやらを探し出して(作り出して)、ものをつくり、消費者に金を使わせること、これにいったいどのくらいの意味があるんだろう。

 

潜在的需要はあるのかもしれないけど、別にこの商品ってないならないで全然いいよなぁ。と思ってしまう。生きるために必要でないものを買わせるためにたくさんの意味づけを商品に施すこと、これが高度資本主義?ってやつですか?

 

何かをみつけては、それをひとつひとつ丁寧におとしめていくんだ。真っ白なものをみつけては、垢だらけにしていくんだ。それを人々は情報と呼ぶ。

そんな「情報」なんてなくても十分に生きていけるはずっだったんだがね。

金をかせぐのに向いていない。

 

大都会の資本主義がつらいので、今年の秋ごろに脱出することになった。

田舎に住みたい。

 

 

最近読んだ本たちと雑感

いろいろ読んだので、簡単な感想を書く。

 

 

 

 

山白朝子『私の頭が正常であったなら』

この前の記事(すさまじく悲惨なポップ、乙一「カザリとヨーコ」)で言ってた乙一の別名義の本を読んでみました。

かなりきれいめな乙一、という感じ。確かに奇妙でちょっと残酷なエッセンスは乙一だなぁという感じですが、猟奇的、というほどのものはない。どれも読後感がほのかに明るくて優しかった。

 

 

 

 

長谷川眞理子『進化的人間考』

人間の進化の過程、他の動物(哺乳類、類人猿、チンパンジー)との違いについて簡潔にまとめた本。

論理が明快で非常に読みやすかった。

 

「性差についての議論は性差別の問題と密接に関連している」、「『差異がある』という記述は容易に価値観と結びつけられ、『差別を正当化している』のと同じ意味に取られる」と述べたうえで、「人間の生物学的性差は、哺乳類、霊長類としての進化の名残として様々な側面に存在すると考える」とはっきり書かれていたのでなんかスッキリした。

 

「生物学的性差と文化による影響を分離して考えようとする人たちは、文化があたかも独立して存在するかのように論じるが、私はそれは違うと思う。文化を持つことを可能にしている性質自体が、ヒトの脳の生物学的性質の一つなので、文化の生成や伝搬自体にヒトの生物学的性質が関与している。だから、セックスとジェンダーはなかなか分けられないだろうと考える。」(pp.57-58)

こんなふうにスパンと述べてもらえるのはありがたい。このあと、男女の違い(たとえば、攻撃性)について生物学的観点から論理的に述べられており興味深かった。

「群淘汰の誤り」の話も知らなかったなぁ。読んでみようと思いつつ分厚すぎて手を出せていなかった『利己的な遺伝子』の内容についても触れられていて助かった。本棚に置いてちょくちょく読みたい一冊だった。

 

 

 

 

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

ハイデッガーによる退屈の3分類は全く知らない概念だった(というかハイデッガーについて何も知らないのだが)ので興味深かった。

 

しかしなんというか、結論まで読むと、まあ確かに……そうなのかもしれないね……とはなるんだけど、「でもそれってあなたはそう考えるってだけですよね。」という気持ちにどうしてもなる。これは思想書とか哲学書とか全般に対して思うんことなんだけど。

以前、とある人が「小説はまどろっこしいので思想書のほうが好き」といったことを書いているのを読んだんだけど、私はやっぱり小説のほうが好きだ。

小説って個人的な事柄を描くものだけど、そういう「個人的なもの」「具体的なもの」をつきつめたところに「普遍」があると感じるんだよね。そしてその普遍に至るまでの個人の経験が描写されていないと、どうにも納得感を得られない。

確かに遠回りだし、読んでみるまで何が書いてあるのか、何が得られるのかわからないって点は悠長な娯楽だと思うけど、なんかな~思想書はな~~~「普遍の真理」だと感じられないんですよね。もしかしたら真理を書こうとしているものではないのかもしれないが。

 

 

 

 

芦花公園『異端の祝祭』『とらすの子』『聖者の落角』

芦花公園さんの名前を知ったのは『超怖い物件』という物件系ホラーアンソロジー。この本の中では平山夢明芦花公園の話が面白かった。平山は別の本をすでに読んだことがあったので、芦花公園を掘り下げてみようと思った。

 

複数人による語り、土着信仰や宗教もののホラーが好きな人は楽しめると思う。あと田舎の変な風習系の洒落怖が好きな人にもオススメ。

とつぜん論理が崩れるような語りがあったりする、さりげない不気味さが好き。ただ、ところどころ描写が物足りない。読み手にとって未知の現象が起こっているシーンほど詳しく描写してほしいと思った。ネットで読むなら気にならないんだけど、紙の本で読むと気になる。

カクヨム芦花公園(@kinokoinusuki))でもたくさん読めるので、気になった人はぜひ。

 

 

 

 

村上春樹羊をめぐる冒険

 

好きでたまに読むんだけど、何度読んでもストーリーを忘れているので毎回新鮮に読める本(村上春樹の話はだいたいがそう)。

羊シリーズ(風の歌を聴け1973年のピンボール羊をめぐる冒険ダンス・ダンス・ダンス)の主人公は比較的ユーモラスな男なので新鮮ですね。

あと、村上春樹の主人公って、友達への義理立てが強固だよね。自分の身が破滅するかもって状況になっても、友達に迷惑がかかるかもしれないようなことは「言えません」ときっぱり言える。どことなくあだち充の描く主人公感がある。

 

好きな言葉はこれ。

「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は言った。「全てはそこから始まってるんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」

「人はみんな弱い」

「一般論だよ」と言って鼠は何度か指を鳴らした。「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしてるんだ」

 僕は黙った。

(p.224)

一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。」そうなのである。個人的なことにこそ意味がある。

 

何回読んでも星付き羊や羊男、ラストの怒涛の展開に意味を与えられないが、そういうところが面白い。

 

 

 

 

 

千葉雅也『オーバーヒート』

恋愛小説が読みたいなぁと思って本屋をぶらついていたら、帯に「究極の恋愛小説」とあったので購入してみた。……が、ちょっと私には恋愛小説だと思えなかった。

主人公が絶妙に嫌な奴…というより「痛い」奴なんだが、その痛さが「あるある」と言えばあるあるで、果たして主人公に共感しながら読めばいいのか距離を取って読めばいいのか最後の方までよくわからず、モヤ感があった。

芥川賞の選評で「もっと『嫌な奴』になるべきだったと思う」「偽悪的な男に、一片のもの哀しさを感じることができれば、全く違った印象の小説になったかもしれない」などとあったように(参考:芥川賞-選評の概要-第165回|芥川賞のすべて・のようなもの)、個人的にはもうちょっと振り切って(わかりやすく)書いてほしかった。

 

ヤンチャそうな売り専の男性(主人公はゲイ)の裸を見て「それ、入れ墨消したの?」と聞いたら「返事をせずに、ハハ、と乾いた笑いを吐き、シャワーを浴びようと言った。単純に『そうだよ』と言うと僕は思ったから、その避けるような反応は意外で、言わなきゃよかったと後悔した」(p.126)というシーンは文学を感じて好きだった。

 

 

 

 

平井大橋『ダイヤモンドの功罪』

最新刊(6巻)まで読んだんですが、お……………おもしろ~~~~~~~~~~~い………………………………

タイトルのまんま、ものすごい才能をもったある野球少年が活躍したり、周囲を破滅させたりする話。

 

この漫画でとにかく力が入っているのは心理描写。圧倒的な才能を前にして心が壊れていく周囲の人間はもちろん、その天才自身の苦悩もこれでもかと描く。

「みんなで楽しくやりたい天才」は、チームスポーツでこんなにも周囲を狂わせてしまうのかと………。新井英樹のRIN(新井英樹『RIN』とかいう最高傑作)も「天才の孤独」を描いた作品だったけど、あっちの主人公は(表面上)周りの人間みんなをバカにするような傲岸不遜なタイプだったのに対して、こっちの主人公は「みんなで仲良く、楽しく、いっしょにスポーツしようよ」というタイプ。リンも厄介だったけど、こっちもこっちでめちゃくちゃ厄介だぁ……。

 

「一本か二本くらい… 打たせてあげようよ」って言う天才ピッチャーの球を受けるキャッチャーの心がどうなるのか?

「屈辱」というものを、ものすごく丁寧に描いている。

 

人間関係の入り組み具合や絵柄は『おおきく振りかぶって』から影響を受けていそうで、セリフや表情、演出は『青野くんに触りたいから死にたい』を思い出させた。これらの作品が好きな人はダイヤモンドの功罪も好きかも。

 

 

 

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いまは万城目学偉大なる、しゅららぼん』と沼田まほかるユリゴコロ』を読んでいる。どっちも初めて読む作家だが、面白そうである。

 

最近いろいろあって元気がなく、あまり長文が書けない。元気を出したい。

 

 

すさまじく悲惨なポップ、乙一「カザリとヨーコ」

乙一の短編集『ZOO1』の中に「カザリとヨーコ」って話があるんですが、これがも~~どん底みたいに悲惨な境遇にいる中学生が主人公なのに、読んでると謎の元気が湧いてきて好きなんですよ。

 

 

 

 ママがわたしを殺すとしたらどのような方法で殺すだろうか。たとえばいつものようにかたいもので頭を殴るかもしれない。時々そうするように首をしめるかもしれない。それとも自殺にみせかけてマンションのベランダから落とすだろうか。

これが冒頭。これだけでもう「理解」できますよね、主人公の状況が。

乙一のこの異様に読みやすい文体にも注目してほしい。

 

 

 わたしとカザリは一卵性の双子だ。カザリは美しくて活発で笑う時にはぱっと花がさくように笑った。学校で彼女はクラスメイトや先生からとても愛されていた。時々わたしに食べ残したごはんをくれるのでわたしも彼女が好きだった。

カザリとヨーコは一卵性の双子なんですが、カザリだけが母からかわいがられ、主人公のヨーコは壮絶な虐待を受けています。しかしヨーコは、「カザリの存在はわたしにとって心の支えだった」「カザリはみんなから愛されていてわたしはそんなカザリと血を分けた家族なんだという誇らしい気持ちがあった」と言う。ふつうならカザリのことを憎むと思いますが、ヨーコはそうじゃない。天使を仰ぐようにカザリのことを愛している。

 

 

 ママとカザリは自分の部屋を持っている。わたしにはないので自分の持ち物は掃除機なんかといっしょに物置へ押し込めている。幸いにもわたしには所有物がほとんどなかったので生きるのに大きなスペースはいらなかった。(…)わたしにあるのはひしゃげたぺちゃんこの座布団だけである。それを台所にあるゴミ箱の横に置きその上でわたしは勉強をしたり空想をしたり鼻歌を歌ったりする。注意しなければいけないのは、ママやカザリの方をじろじろ見てはいけないということだ。もしも目があったりしたらママが包丁を投げつけてくる。座布団はまたわたしの大事な布団でもあった。この上で体を猫のように丸めて眠ると、なんと体が痛くないのである

強調引用者。

この小説の特殊なところは、母親と目が合っただけで包丁を投げつけられるような生活を主人公が送っているのに、語り口がめちゃくちゃ明るいところです。こんな家の中にあって鼻歌を歌えるような人間ってどれだけいるだろうか。

 

ヨーコが受けてきた激しい虐待について語られている間も、ずっと文体が軽妙でユーモラス。じゃあヨーコはめちゃくちゃ鈍いのか、苦痛を感じていないのかというとそういうわけではなく、痛みも悲しみも感じている。

そのうえでのこの軽い語り口に、なんかすごく救われるんですよね。

 

 

引用はしませんが、だいぶ絶望的なのに「未来」を向いている終わり方もとても好き。

苦しい話を苦しく書いたものは世に腐るほどありますが、苦しいものを明るく書いた話って案外少ない。私だったら怒られないかとかいろいろ考えちゃって書けないようなことを書いてくれる小説が好きだ。

 

 

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乙一叙述トリックをよく使う作家で、猟奇的な話、ミステリー、恋愛もの、いろんな話を書いている。かなり暴力的で残酷な話も多いんだが、描写の粘度が低いので不快感はなくさくさく読める。読後感も良い。そして陰キャの心理描写が上手い。

 

猟奇的な話が好きな人には『GOTH』、暴力的なのはそんなに好きじゃないという人には『失はれる物語 』とかがおすすめ。

道尾秀介(の『向日葵の咲かない夏』)が好きな人は『死にぞこないの青』とか好きかも。

『小生物語』というエッセイ(のような小説のような)も面白くて好き。ユーモアのセンスがある。

 

乙一は学生時代に読み漁った作家だが、乙一の別名義である中田永一(『くちびるに歌を』『百瀬、こっちを向いて。』『私は存在が空気』)、山白朝子(『私の頭が正常であったなら 』)の著作はまだ読んだことがない。読もう読もうと思っているうちにもうこんな年になった。そろそろ読みたい。

 

 

上野千鶴子+鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』読んだ

たまたま図書館で借りて読んでいるあいだに上野千鶴子が話題になっていた(米誌タイムの「世界で最も影響力ある100人」に選出された)ようなので、感想を書く。

 

 

中国最大級の書評サイトで2022年のブックオブザイヤーに選ばれたそう。

中国語版の表紙かわいい。

 

気づいたら私のあとにたくさんの人が貸出予約をしており、返却期限が明日に迫っているので手短に書く。

 

 

上野千鶴子鈴木涼美

 まちがってほしくないのは、世代が上であるほど性に保守的だとは思わないでほしいということです。わたしたちは60年代から70年代にかけて世界中を席巻した「性革命」の世代です。昨今、ことあたらしく実験的な性愛が注目されているようですが、ポリアンドリー(一妻多夫)もオープンマリッジ(制約のない結婚)もとっくに実践されていました。クープル・アンジェリーク(天使のカップル)と呼ばれるカップルもいました。特権的なカップルのあいだではセックスレスで、セックスはパートナー以外とするという関係です。わたしには排他的な異性愛カップルのネガにしか見えませんでしたが。今ならセックスレスの夫婦が婚外に性のパートナーを求めるという、そこらにあるカップルの戯画にしか思えません。マンガやブログで描かれている「性の実験」を見ると、古いなあ、と思わないわけにいきません。

そんな「性革命」の時代が過去にあったとは知らなかった。昨今、いろんな性関係や非性的なパートナー関係が提唱されて、時代が進んでいるなあ、と思っていたが、50年も前にすでに行われていたかもしれないことだったのか。

 

この「クープル・アンジェリーク」的な関係を望む人が知人にもいる。その話をずっと聞いていたせいか、自分でも元からそう思っていたのかはもうわからないが、私もその関係が理想な気がしてきている。「セックスレスの夫婦が婚外に性のパートナーを求める」というとネガティブな印象を受けるが、そういう「仕方なし」の選択ではない。「特権的なカップル」外の相手と性行為をしてもいいということをあらかじめ決めておいて、基本的には外の相手と性行為をする。そのうえで二人ともが了承するならカップルで性行為をしてもいいし、嫌なら当然拒否してもいい、という関係。……これはむしろオープンマリッジのほうに近いか?

「セックスなんてしなくてもいっしょにいられるじゃないか」と思う。が、この考えはセックスレスの人(特に女性)からよく聞く、「ずっと一緒にいると『家族』になって性欲わかなくなる」っていう心理とつながっているんだろうな、という気もする。

 

いま、山極寿一の『父という余分なもの -サルに探る文明の起源-』を読んでいるんだが、ちょろっとだけど「親しい異性間では交尾回避が起こる」という記述が出てきた。

 ゴリラの社会でも、母親と息子、父親と娘の間では交尾がほとんど起こっていない。どうやら彼らはお互いに求愛することを避けているらしいのである。

 関西学院大学高畑由起夫教授は嵐山のニホンザルを調査し、この交尾回避が近親個体間だけでなく、「親しい間柄」にあるオスとメスにもみられることから、異性間に形成される「親しさ」が性衝動を抑制するのだと考えた。

(山極寿一『父という余分なもの』)

やっぱり人間でも多少、親しくなった相手に性欲がわかなくなる、というのはあると思うんだよな。性欲以外のところで親しくなりたいんだが。

 

 

 

鈴木涼美上野千鶴子

 同性婚や夫婦別氏について、私はもちろん別に反対する理由は何もないのですが、結婚を拡大していく方向のそれらの議論を見ていると、みんなそこまでして結婚という言葉を手に入れたいのか、と興味深く思います。サルトルボーヴォワール型の事実婚は、フランスなどではすでに制度として確立していますが、日本で結婚の下位制度を作るという話は少なくとも現実的な議論にはあまりなっておらず、どちらかというとあくまで結婚という古い制度を柔軟に応用しようという議論に偏りがちなことは、正直言って、やや不思議に思います。今の段階では結婚しないことには社会における不便、特に育児においては決定的な不利条件があるのですが、そちらの改善ではなく、多くの結婚していない人が結婚できるようにしようという改善に意識が向くのはどうしてなのだろうかと感じます。

調べたところ、フランスにはPACS(パックス)というパートナー制度があり、それには貞操の義務がないらしい。

 

「結婚以外の選択肢を拡充させる方向に人々の意識が向かないのが不思議」という鈴木涼美の言には、確かになぁ、と思った。「いろんな人が結婚できるようになればハッピー」とばかり考えていて、鈴木の言うようなことをなぜか全然考えたことがなかった。

なんとなく、日本の婚外子の少なさと関係のある気がする。結婚してないのに産むなんて、という意識がやはり人々の間で根強いのかな。デキ婚に対する風当たりも。

子どもを産むとなったとき、結婚しないメリットがあまりないから婚外子が少ないというのもあるのかな。パートナーがおり、子どももいるのなら、なぜ結婚しないのか?となるのか。(この辺詳しくないのであまり踏み込んだことを書けない)

 

 

 

上野千鶴子鈴木涼美

 松井久子監督の『何を恐れる フェミニズムを生きた女たち』(2014年製作)というドキュメンタリー・フィルムに出演したとき、わたしはそのなかで「女性にとって性的身体の自由はとても大事」という発言をしています。(…)

 だから「ひとはなぜ不倫するのか?」という取材を受けたときも、反対に「ひとはなぜ不倫せずにいられるのか?」と聞き返したい思いでした。「不倫(道にはずれる)ということばもふしぎなことばです。結婚しなければ不倫はできませんから、もともとできないお約束をしなければいいだけです。戦前の姦通罪が女性側にだけ適用された片面性を、戦後の民放は男女平等にしましたが、それで芸能人の不倫を糾弾する報道が登場するたびに、ばかばかしくてなりません。なぜ報道するか、ですって? 確実に視聴率が上がるから、という理由を聞いたことがありますが、他人の不倫に興味を持つ視聴者がそんなに多いのでしょうか。

(…)

 わたしは性と愛を権利・義務関係のもとに置くこと、所有し、所有される関係を結ぶことがどうしてもガマンできないのです。

ちょっとよくわからない箇所もあるが、「なぜ人々がそんなに不倫に興味を持つのか」「性と愛を権利・義務関係のもとに置くことにガマンがならない」という話はよくわかる。

 

私の周囲は不倫容認派が多く、なんなら不倫推奨派もおり、私自身も不倫に対する人びとの猛烈な批判・激烈な怒りを見るたび「なぜそこまで怒るのか?」と心底不思議に思っていた。

私は、不倫・浮気は「相手が傷つくかもしれないとわかっていたのにやった」という点で「思いやりが足りない」と思うので、そこを非難するのはわかる(逆に言えば、すでに話し合い済とかで「相手が傷つかないとわかっている」状態ならほかの異性と性交することはまったく無問題)。

でもなんか、世の中の人…主にネットだが…は不貞行為に対して生理的嫌悪感とでもいうような拒否反応を示しているように感じる。浮気・不倫を否定する説得力ある理由も見たことがない。やっぱり理屈を超えたところで拒否反応が起こる人が多いのだろうか。

個人間で、人同士の思いやりとして「浮気は私が傷つくからやめてね」というのならわかるが、結婚という法的制度が最初から「不貞行為の禁止」を含み持っているのが理解できない。なぜ最初から、上から、そんなことまで決められていなければならないのか。なんかそこがキモチワルイなぁと感じてしまう。これも理屈を超えた拒否反応なのかもしれない。我々はわかり合えないかもしれないが、共に生きていくことはできる。

 

ちなみに、「姦通罪が女性側にだけ適用された片面性」については、『男はなぜ暴力をふるうのか』という本で生物学的な見地から説明されていた…はずなので、興味ある人はよかったら読んでみてください。

男はなぜ暴力をふるうのか: 進化から見たレイプ・殺人・戦争

 

 

 

上野千鶴子鈴木涼美

わたしには歳をとってからできた女友だちがたくさんいます。高校生や大学生に向かって「今が生涯の友をつくる大事な時期だよ」と言う人を見ると、若いときにしか友人をつくれないと思っているのか、かわいそうに、と感じるくらいです。年齢を重ねてから親しくなったひととは、「若いときに会わなくてよかったわね、きっとそのころに会えばお友だちにならなかっただろうから」と顔を見合わせて笑いあうこともあります。

これは良い~~~ですね。元気づけられます。最近は「若いうちに友達もっと増やしとかなきゃ!」という焦りがあったんですが、これ読んで解放されました。未来が明るくなりました。

 

 

 

ところで、この『往復書簡』を読むのに先立って、鈴木涼美『「AV女優」の社会学』も読みました。

鈴木涼美本人も増補新版の序文で書いていましたが、文章が大分粗削りというか、シンプルに読みづらい箇所が多かった(特に第2章)。でも『往復書簡』では大分読みやすくなっていたから、ブラッシュアップしたんだなぁと思った。

AV女優の生の言葉が収録されているのが面白かったですね。AV業界の仕組みも、知らないことばっかりだったからそこは興味深く読めた。

何が言いたいかというと、『往復書簡』の中で『「AV女優」の社会学』への言及がたまになされるので読んでおいた方がいいのかなぁと思って先に読んだんですけど、別に読まなくても『往復書簡』を読むのに支障はないと思います。

 

 

 

 

それにしても、上野千鶴子鈴木涼美の文章を読んでいる間ずっとモヤモヤした違和感があって、それは「なぜ自分のことを女だと信じることができるのか」ということだった。これは別に二人への批判ではなく、自問自答みたいなもんなんですけど。

鈴木涼美は繰り返し繰り返し、「この人たちに何を言っても無駄」「絶対にこの生き物と理解し合えることなんてない」と、男に対する「絶望」と「諦め」を語る。上野千鶴子は、対話は諦めてなさそうだけど、なんかずっと文章の根底に男性に対する強い憎しみが流れているのを感じる。言葉の選び方に「怒り」を感じるんですよね。

 

なんか、それに違和感がある。別に、男にも女にもいろんな人がいる、とか言いたいのではない。不思議なのは、「なぜそんなに、男を完全に自分とは別の存在として扱えるんだろう」ということだ。

私は自分のことを「たまたま女に生まれた存在」だと思っており、男性のことも「たまたま男に生まれた(もしかしたら女だったかもしれなかった)存在」だと思っている。だから「なぜ女だというだけで、そんな扱いをされないといけないのか」「なぜ男であるというだけで、そのような態度がとれるのか」という、主に性別役割分業意識に対する強い反発は覚えるんだけど。

自分は女であり、相手は男である、という深い溝を作ったうえでの主張にどうにものめりこめない感覚がある。

なんかこれは、私の性自認や、ミソジニー女性嫌悪)にも関わってくる話だと思うんだが、うまい感じにまとめられない。

 

 

そんなこんなで(?)フェミニズム論やジェンダー論を読むより先に、どこまでがセックスでどこからがジェンダーなのかをまず知っておきたいと思い、性の起源、家族の起源、霊長類と人類のつながりなど、生物学的な本をいろいろ読んでいる。

世の中にあるいろんな男女差に、生物学的理由があるとわかれば、もっと腹を立てずに生きていけると思うんですよね。自分の心の平穏のために本を読んでいます。おもしろいです。