たまたま図書館で借りて読んでいるあいだに上野千鶴子が話題になっていた(米誌タイムの「世界で最も影響力ある100人」に選出された)ようなので、感想を書く。
中国最大級の書評サイトで2022年のブックオブザイヤーに選ばれたそう。
中国語版の表紙かわいい。
気づいたら私のあとにたくさんの人が貸出予約をしており、返却期限が明日に迫っているので手短に書く。
(上野千鶴子→鈴木涼美)
まちがってほしくないのは、世代が上であるほど性に保守的だとは思わないでほしいということです。わたしたちは60年代から70年代にかけて世界中を席巻した「性革命」の世代です。昨今、ことあたらしく実験的な性愛が注目されているようですが、ポリアンドリー(一妻多夫)もオープンマリッジ(制約のない結婚)もとっくに実践されていました。クープル・アンジェリーク(天使のカップル)と呼ばれるカップルもいました。特権的なカップルのあいだではセックスレスで、セックスはパートナー以外とするという関係です。わたしには排他的な異性愛カップルのネガにしか見えませんでしたが。今ならセックスレスの夫婦が婚外に性のパートナーを求めるという、そこらにあるカップルの戯画にしか思えません。マンガやブログで描かれている「性の実験」を見ると、古いなあ、と思わないわけにいきません。
そんな「性革命」の時代が過去にあったとは知らなかった。昨今、いろんな性関係や非性的なパートナー関係が提唱されて、時代が進んでいるなあ、と思っていたが、50年も前にすでに行われていたかもしれないことだったのか。
この「クープル・アンジェリーク」的な関係を望む人が知人にもいる。その話をずっと聞いていたせいか、自分でも元からそう思っていたのかはもうわからないが、私もその関係が理想な気がしてきている。「セックスレスの夫婦が婚外に性のパートナーを求める」というとネガティブな印象を受けるが、そういう「仕方なし」の選択ではない。「特権的なカップル」外の相手と性行為をしてもいいということをあらかじめ決めておいて、基本的には外の相手と性行為をする。そのうえで二人ともが了承するならカップルで性行為をしてもいいし、嫌なら当然拒否してもいい、という関係。……これはむしろオープンマリッジのほうに近いか?
「セックスなんてしなくてもいっしょにいられるじゃないか」と思う。が、この考えはセックスレスの人(特に女性)からよく聞く、「ずっと一緒にいると『家族』になって性欲わかなくなる」っていう心理とつながっているんだろうな、という気もする。
いま、山極寿一の『父という余分なもの -サルに探る文明の起源-』を読んでいるんだが、ちょろっとだけど「親しい異性間では交尾回避が起こる」という記述が出てきた。
ゴリラの社会でも、母親と息子、父親と娘の間では交尾がほとんど起こっていない。どうやら彼らはお互いに求愛することを避けているらしいのである。
関西学院大学の高畑由起夫教授は嵐山のニホンザルを調査し、この交尾回避が近親個体間だけでなく、「親しい間柄」にあるオスとメスにもみられることから、異性間に形成される「親しさ」が性衝動を抑制するのだと考えた。
(山極寿一『父という余分なもの』)
やっぱり人間でも多少、親しくなった相手に性欲がわかなくなる、というのはあると思うんだよな。性欲以外のところで親しくなりたいんだが。
(鈴木涼美→上野千鶴子)
同性婚や夫婦別氏について、私はもちろん別に反対する理由は何もないのですが、結婚を拡大していく方向のそれらの議論を見ていると、みんなそこまでして結婚という言葉を手に入れたいのか、と興味深く思います。サルトル・ボーヴォワール型の事実婚は、フランスなどではすでに制度として確立していますが、日本で結婚の下位制度を作るという話は少なくとも現実的な議論にはあまりなっておらず、どちらかというとあくまで結婚という古い制度を柔軟に応用しようという議論に偏りがちなことは、正直言って、やや不思議に思います。今の段階では結婚しないことには社会における不便、特に育児においては決定的な不利条件があるのですが、そちらの改善ではなく、多くの結婚していない人が結婚できるようにしようという改善に意識が向くのはどうしてなのだろうかと感じます。
調べたところ、フランスにはPACS(パックス)というパートナー制度があり、それには貞操の義務がないらしい。
「結婚以外の選択肢を拡充させる方向に人々の意識が向かないのが不思議」という鈴木涼美の言には、確かになぁ、と思った。「いろんな人が結婚できるようになればハッピー」とばかり考えていて、鈴木の言うようなことをなぜか全然考えたことがなかった。
なんとなく、日本の婚外子の少なさと関係のある気がする。結婚してないのに産むなんて、という意識がやはり人々の間で根強いのかな。デキ婚に対する風当たりも。
子どもを産むとなったとき、結婚しないメリットがあまりないから婚外子が少ないというのもあるのかな。パートナーがおり、子どももいるのなら、なぜ結婚しないのか?となるのか。(この辺詳しくないのであまり踏み込んだことを書けない)
(上野千鶴子→鈴木涼美)
松井久子監督の『何を恐れる フェミニズムを生きた女たち』(2014年製作)というドキュメンタリー・フィルムに出演したとき、わたしはそのなかで「女性にとって性的身体の自由はとても大事」という発言をしています。(…)
だから「ひとはなぜ不倫するのか?」という取材を受けたときも、反対に「ひとはなぜ不倫せずにいられるのか?」と聞き返したい思いでした。「不倫(道にはずれる)ということばもふしぎなことばです。結婚しなければ不倫はできませんから、もともとできないお約束をしなければいいだけです。戦前の姦通罪が女性側にだけ適用された片面性を、戦後の民放は男女平等にしましたが、それで芸能人の不倫を糾弾する報道が登場するたびに、ばかばかしくてなりません。なぜ報道するか、ですって? 確実に視聴率が上がるから、という理由を聞いたことがありますが、他人の不倫に興味を持つ視聴者がそんなに多いのでしょうか。
(…)
わたしは性と愛を権利・義務関係のもとに置くこと、所有し、所有される関係を結ぶことがどうしてもガマンできないのです。
ちょっとよくわからない箇所もあるが、「なぜ人々がそんなに不倫に興味を持つのか」「性と愛を権利・義務関係のもとに置くことにガマンがならない」という話はよくわかる。
私の周囲は不倫容認派が多く、なんなら不倫推奨派もおり、私自身も不倫に対する人びとの猛烈な批判・激烈な怒りを見るたび「なぜそこまで怒るのか?」と心底不思議に思っていた。
私は、不倫・浮気は「相手が傷つくかもしれないとわかっていたのにやった」という点で「思いやりが足りない」と思うので、そこを非難するのはわかる(逆に言えば、すでに話し合い済とかで「相手が傷つかないとわかっている」状態ならほかの異性と性交することはまったく無問題)。
でもなんか、世の中の人…主にネットだが…は不貞行為に対して生理的嫌悪感とでもいうような拒否反応を示しているように感じる。浮気・不倫を否定する説得力ある理由も見たことがない。やっぱり理屈を超えたところで拒否反応が起こる人が多いのだろうか。
個人間で、人同士の思いやりとして「浮気は私が傷つくからやめてね」というのならわかるが、結婚という法的制度が最初から「不貞行為の禁止」を含み持っているのが理解できない。なぜ最初から、上から、そんなことまで決められていなければならないのか。なんかそこがキモチワルイなぁと感じてしまう。これも理屈を超えた拒否反応なのかもしれない。我々はわかり合えないかもしれないが、共に生きていくことはできる。
ちなみに、「姦通罪が女性側にだけ適用された片面性」については、『男はなぜ暴力をふるうのか』という本で生物学的な見地から説明されていた…はずなので、興味ある人はよかったら読んでみてください。
男はなぜ暴力をふるうのか: 進化から見たレイプ・殺人・戦争
(上野千鶴子→鈴木涼美)
わたしには歳をとってからできた女友だちがたくさんいます。高校生や大学生に向かって「今が生涯の友をつくる大事な時期だよ」と言う人を見ると、若いときにしか友人をつくれないと思っているのか、かわいそうに、と感じるくらいです。年齢を重ねてから親しくなったひととは、「若いときに会わなくてよかったわね、きっとそのころに会えばお友だちにならなかっただろうから」と顔を見合わせて笑いあうこともあります。
これは良い~~~ですね。元気づけられます。最近は「若いうちに友達もっと増やしとかなきゃ!」という焦りがあったんですが、これ読んで解放されました。未来が明るくなりました。
ところで、この『往復書簡』を読むのに先立って、鈴木涼美『「AV女優」の社会学』も読みました。
鈴木涼美本人も増補新版の序文で書いていましたが、文章が大分粗削りというか、シンプルに読みづらい箇所が多かった(特に第2章)。でも『往復書簡』では大分読みやすくなっていたから、ブラッシュアップしたんだなぁと思った。
AV女優の生の言葉が収録されているのが面白かったですね。AV業界の仕組みも、知らないことばっかりだったからそこは興味深く読めた。
何が言いたいかというと、『往復書簡』の中で『「AV女優」の社会学』への言及がたまになされるので読んでおいた方がいいのかなぁと思って先に読んだんですけど、別に読まなくても『往復書簡』を読むのに支障はないと思います。
それにしても、上野千鶴子や鈴木涼美の文章を読んでいる間ずっとモヤモヤした違和感があって、それは「なぜ自分のことを女だと信じることができるのか」ということだった。これは別に二人への批判ではなく、自問自答みたいなもんなんですけど。
鈴木涼美は繰り返し繰り返し、「この人たちに何を言っても無駄」「絶対にこの生き物と理解し合えることなんてない」と、男に対する「絶望」と「諦め」を語る。上野千鶴子は、対話は諦めてなさそうだけど、なんかずっと文章の根底に男性に対する強い憎しみが流れているのを感じる。言葉の選び方に「怒り」を感じるんですよね。
なんか、それに違和感がある。別に、男にも女にもいろんな人がいる、とか言いたいのではない。不思議なのは、「なぜそんなに、男を完全に自分とは別の存在として扱えるんだろう」ということだ。
私は自分のことを「たまたま女に生まれた存在」だと思っており、男性のことも「たまたま男に生まれた(もしかしたら女だったかもしれなかった)存在」だと思っている。だから「なぜ女だというだけで、そんな扱いをされないといけないのか」「なぜ男であるというだけで、そのような態度がとれるのか」という、主に性別役割分業意識に対する強い反発は覚えるんだけど。
自分は女であり、相手は男である、という深い溝を作ったうえでの主張にどうにものめりこめない感覚がある。
なんかこれは、私の性自認や、ミソジニー(女性嫌悪)にも関わってくる話だと思うんだが、うまい感じにまとめられない。
そんなこんなで(?)フェミニズム論やジェンダー論を読むより先に、どこまでがセックスでどこからがジェンダーなのかをまず知っておきたいと思い、性の起源、家族の起源、霊長類と人類のつながりなど、生物学的な本をいろいろ読んでいる。
世の中にあるいろんな男女差に、生物学的理由があるとわかれば、もっと腹を立てずに生きていけると思うんですよね。自分の心の平穏のために本を読んでいます。おもしろいです。