まくら

読んだ本や好きな文章の感想

中村文則と又吉直樹――『何もかも憂鬱な夜に』『夜を乗り越える』

私は中村文則の『何もかも憂鬱な夜に』という小説を崇拝しているんですが、又吉直樹がその本の感想を『夜を乗り越える』って本の中で書いてて、それ読むと私が『何もかも憂鬱な夜に』読んで思ったことがほとんどそのまま書いてあった。私が書き添えること、もう何もない。でも『夜を乗り越える』読んで居ても立っても居られなくなったので、何か書く。

本の感想というよりは日記に近いかも。

 

 

 

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又吉直樹のこれまでの私のイメージって「中村文則にめちゃくちゃ似てる文体で小説書いてる人」だったんですが、『夜を乗り越える』読んで「あ、これは又吉直樹自身の人生から出た、生きた言葉だ」って初めて実感して、今日やっと「又吉直樹」が私の中で中村文則から独立した一人の小説家になった。(又吉ファンの人、すみません)

又吉直樹が書いた『何もかも憂鬱な夜に』の感想読んで、本当に、本当に私がこの本読んで感じたことがそのまんま言葉にしてあって、しかもその言葉がとても丁寧に選ばれたものに感じられて、感動したけどなんか悔しくもあった。『何もかも憂鬱な夜に』は私の人生を変えたと言える今のところ唯一の本なんですけど、私の中でその存在があまりに神格化されてて、感想を述べたりあらすじ紹介したりすることすらおこがましく感じられて何も書けていなかった。でもおそらく又吉直樹も私の感動と同質の感動を中村文則から得たうえで、ちゃんと思いを言葉にしていた。悔しい。

 

 

 一所懸命な人を馬鹿にする笑いが好きじゃありません。すかし文化と言うのでしょうか。それを知的な笑いだと思っている人が多い。才能があるように見えるわりに簡単ですし、僕も一回もやったことがないんかと言われたらわかりませんが。なんか気持ちいいし、優位に立てた感じがします。でも誰でもできるんです。少なくとも一所懸命やった結果、人に馬鹿にされる方が難しい。

「なぜ生まれてきたのか」「なんのために生きているのか」という問いは、確かに子供っぽい悩みかもしれません。でも僕はそれを解消できませんでした。誰も納得いく形で答えを提示してくれませんでした。そういう問いに対して、大人が全力で考え、正面から答えを出そうとしているものが、僕はやっぱり好きなのです。

(『夜を乗り越える』)

 

文章打ち込みながら涙出てきた。なんだこの優しい文章?

「一所懸命な人を馬鹿にする笑いが好きじゃありません」「なんか気持ちいいし、優位に立てた感じがします。でも誰でもできるんです」本当に、そうですね……それって「笑い」じゃなくて嘲笑だもん。

「一所懸命な人を馬鹿にする笑い」じゃないけど、又吉の『火花』でウケ狙いで豊胸手術をした芸人の先輩を主人公がたしなめるシーンを思い出した。面白いと思ってやったことが誰かを傷つけることもある。誰かを傷つけて得られる笑いって全然面白くないよな。又吉って本当に実直で優しい人なんだろうなって文の書き方からしてわかるよ。

 

そして私も、「なぜ生きているのか」って問いを物心ついたときからずっと抱えていた。小学生のころから希死念慮があって「自分が生きているだけで他者(人間、動物、自然)を害している」「早く死ななければいけないのに、度胸がなくて死ねていない」ってずっと思っていて、「死にたい」じゃなくて「死ななきゃいけない」だった。死ななきゃいけないのになぜ生きているのか、そう考えながら高校生になったときに読んだのが中村文則の『何もかも憂鬱な夜に』だった。

 

『何もかも憂鬱な夜に』終わり近くの、刑務官である主人公が死刑囚にかけた言葉を読んで、誇張でなく嘘偽りなく、脳の底にこびりついていた「早く死ななきゃ」って思想が揺るがされた。

又吉直樹もその言葉に言及している。「その言葉に触れ、僕は子供のころから抱えてきた疑問が解消されたように思えました。命について考えた時、僕はこれしかないと思えたのです。ここに真理があると。」でもその言葉を直接引用はしていない。私も引用はしないしできない。なんでかって、

 その言葉も抜き出してここで紹介したいとも思うのですが、小説のそこだけを抜き出すのはもったいないような気がします。小説の筋があり、登場人物の抱えているものがあり、それぞれの関係性があり、舞台が整い、しかるべき場所に言葉が乗ってきて初めてそれを体験できます。

 一部の言葉だけ抜き出しても小説の素晴らしさはわかりません。それが小説の素晴らしさでもあります。すべてを読んできたからこそ、その一行が刺さります

(『夜を乗り越える』、強調引用者)

 

本当に本当に本当に本当にそう。その一文に至るまでの長い過程、背景、整えられた舞台があるからこそその言葉が輝く。こんなブログやりながら何言ってるんだよという話なんだけど、一部だけ引用してもその本の素晴らしさはわからない。

これはずっと私も悩んでいる問題で、やっぱり引用しないとよさが十分に伝わらない、でも引用してしまうと読み手が本に直接あたったときの感動が目減りしてしまう。それでも読んでもらえないよりいい、一人でも多くの人とこの感動をベストな形で分かち合うにはどうしたらいいか、ということを考えながらこのブログやってるんですが、やっぱり「小説のそこだけを抜き出すのはもったいない」というのも確かな事実。

私の文章が下手くそすぎて、感想や紹介文を書くことでかえってその作品を冒涜してるんじゃないかといつも戦々恐々としている。というか多分、実際、している。作者に殴られても文句言えない。米津玄師の「LOSER」で「思ってるだけじゃ伝わらないね♪」聞いた後はそうだ!!書くぞ!!!って思うんですけど今日これ読んで「やっぱり、ダメかも……」になった。

 

 

以前友人が、「映画見る前にネットであらすじ読んで『もう十分わかったから、映画を見る必要はない』と言った知り合い」の話をかなりキレながらしていて、私もその怒り、というか悲しみはよくわかった。あらすじで伝わることってほとんど何にもないよ。あらすじで十分なら世の中に物語なんて必要ない。小説も漫画も映画も必要なくてネタバレサイトだけで事足りるはずなんだよ。でもそうじゃないだろ?

 

原典に当たれていないため孫引きになって申し訳ないが、村上龍がインタビューで「この小説は何を言いたいんですか?」と質問されたとき、「この小説が言いたいことはこの小説に書いてあります。ひとことで言えるなら小説なんぞ書きません」と答えたらしい。(10月22日 - 内田樹の研究室 参照)

さすが、村上龍だぜ……。一言で要約できないことを伝えるために小説を書く。それはそうだ。黙って『コインロッカー・ベイビーズ』を読み、言葉と物語の奔流に打ちのめされてろ。

 

かといって、コスパよくタイパ(タイムパフォーマンス)よく有名な本の概要だけつかみ教養と他人との会話についていくための知識を得たい、という欲求や行為を私は否定しない。

例えば、料理するときに野菜選びから始める人が、簡単料理キットみたいなの使ってる人を馬鹿にするのはおかしいと思うんだけど、それと同じように、「その人が優先したいもの」を優先すればいいよね。物語以外の、その人が大切にしたいものに時間やお金を割けばいい。(と、頭で考えてはいるが、もし自分の大好きな小説について「ネタバレサイトで十分わかったから、読む必要はない」と友達に言われたりしたら疎遠になる可能性はある。思想の隔たりが大きいため)

 

 

 

脱線したが、『夜を乗り越える』の続きで又吉直樹はこう書いてる。

 

この小説は誰かにとっての、夜を乗り越えるための一冊になり得るかもしれません。少なくとも僕は、これであと二年は生きられると思いました。別に死のうなんて思っていなかったのにそう思いました。

 

これも私が『何もかも憂鬱な夜に』読んで思ったことほとんどそのまんまだよ。私って又吉直樹だったのか? 読み終わって「これであとしばらく生きられる」って思える作家って本当に希少で、私の中では中村文則小川洋子ぐらいかも。

 

 

 

 

話は戻りますが、以前知り合いに「人はなぜ生きるのか…?」みたいな問いを投げかけたら「中二病なの?w」みたいに返されて「は??????????」って思った。

え?「中二病」って何?こんなん人間が死ぬまで問い続ける問題やろが。お前はこの問いに「答え」出せたんか?答えの出ない問いについての思索を諦めることを「成長」だと思ってる?そっちの方がはるかにダサくないか?

って内心でキレたけど、引きつった顔で「そ、そうかな~アハハ^^;」みたいに返すことしかできなかった。でも、いまだに納得いってない。

と思ってたら又吉直樹も同じこと書いてた。

 

 僕がずっと抱えている一番大きなテーマが「人間とは何か」ということです。「なぜ生まれてきたのか」「なんのために生きているのか」みんな、思春期の頃にある程度決着をつけてきている問題ですが、僕はまだ答えが出ていません。「いつまで考えてんねん」とよく笑われますが、いまだにわからないんです。

 大人が若者に偉そうに言います。「お前の悩んでいることは大人になったらどうでもいいことだったとわかる」と。どうでもいいことに気づくことを成長みたいに言わないで欲しいと、僕は思います。

 

又吉直樹って私なのかもしれない。

 

 

この「人間とは何か」という問いについての又吉なりのアンサーが『火花』で描かれていると私は思っていて、それは主人公と先輩が熱海に花火を見に行くシーンで私が作中一番好きなシーンでもあるんですが、今手元に本がないため引用できない。

あのシーン、人間って矮小でみっともなくて哀れだけど、でも美しいよね、っていう、又吉が見ている「人間」のあり方が印象的に描かれていてすごく好きだ。又吉はこんな風に人間を見ているんだ、と又吉への信頼感がかなり高まった。

 

人間って汚いし愚かだしみっともないけど、でも一番根っこのところが美しいよ、泥にまみれながらそれでも必死に生きようとしてる人間が一番美しいんだって伝えようとしてくれる作品が本当に好きだ。私の中でそれは『火花』と中村文則以外だと、新井英樹(『宮本から君へ』)、村上龍(『コインロッカー・ベイビーズ』)、坂口安吾(「教祖の文学」など)、藪内亮輔(『海蛇と珊瑚』)あたり。(リンク先は私が以前書いた記事です)

そういう作品に生かされてかろうじて生きてる。こんなふうに世界を描いてくれる人がいるなら世界ってそこまで悪くないのかもしれないって思える。