トルストイを読んだのはこれが初めてだったがなかなか面白かった。
「イワン・イリイチの死」目当てで読んだけど「クロイツェル・ソナタ」のほうが面白かったし好きだ。妻を殺した男が性愛について語る話。
愛と性と憎しみの関係性や生物学的性と絡めたフェミニズムなどについて述べられておりめちゃくちゃ興味のあるトピックなんだけど、明日返却しなきゃで時間がないので全然内容をまとめられていない。とんでもない誤読をしていたら失礼……
「(……)もし喫煙の快楽というものがあるとすれば、それはあのことの快楽と同じで、後になってやってくるわけです。だからあのことについても、もし快楽を得たいと思えば、夫婦が自分たちの間で、あの悪徳を育まなければならないのです」
「悪徳ですって!」私は反論した。「でもお話になっているのは、もっとも自然な人間の本性のことではないですか」
「自然な、ですか?」彼は言い返した。「自然な? いや、はっきり申し上げますが、私が辿りついた結論によれば、あれは決してその……自然なことではありません。そう、まったくその……自然なことではないのです。ひとつ子供にたずねてみるといい、純潔な処女にたずねてみるといいでしょう。(……)
あなたは自然なことだというのですね! 自然なことは、たとえば食べることです。食べるのはうれしいし、簡単だし、楽しいし、しかも最初から恥ずかしくなんてありません。ところがあのことは、いやらしいし、恥ずかしいし、それに痛いのです。いいえ、あんなことは不自然ですよ! だから純潔な娘はいつもあのことを憎んできた――そう私は確信しています」
なぜセックスは「いやらしいし、恥ずかしいし、それに痛い」のか?まあ痛みは人によるだろうが、それにしてもなぜ人間のセックスは恥ずべきものとして隠されるのか?類人猿はほかの個体の前で平気でセックスするのに……
これは大いなる疑問ですね。ジャレド・ダイアモンドの『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』で触れられていたような気もするがあまり覚えていない。この本も面白いので人間の性に興味のある人におすすめです。
性的なものに対する嫌悪感ってのはどこから来るんでしょうね。後天的なもなのか先天的なものなのか、そもそも万人が多かれ少なかれ共通して持っているものなのか。今度調べたい。
理論上は、愛というものは何か理想的な、高尚なものであるはずだとみなされているのに、実際は口にするのも思い出すのも恥ずかしくてぞっとするほど、何やらおぞましい、下劣なものだということです。
愛は結局きたねえ性欲にすぎないよね問題。これだけならまあそだね~という感じで特に目新しいとは思わなかったんですが、ここからさらに「性欲によって憎しみがわく」という話に展開していったのが興味深かった。
私は自分たち夫婦の間の憎しみがいったいどこからわいてきたのかといぶかしく思ったのですが、理由はとてもはっきりしていたわけです。つまりその憎悪とは、人間の本性がみずからを圧しつぶそうとする獣性に対してあげる抗議の声だったのですよ。
私は互いが憎しみあうのを不思議なことと思っていました。しかし考えてみればそうなるしかなかったのです。その憎しみとは、いわば犯罪の共犯者同士が、お互いの教唆や加担に対して示す憎しみに他ならなかったからです。だってあれは犯罪に違いありませんよ。哀れな妻が最初の一月でみごもったのにもかかわらず、私たちの汚らわしい性関係はずっと続いていたのですからね。
当時自分では気がつきませんでしたが、憎しみがわく時期というのがあって、それは完全に規則正しくきちんきちんと巡ってくる、しかもその時期は私たちが愛と呼んでいた感情のわく時期と呼応していたのです。つまり愛の時と憎しみの時がワンセットになっていたわけで、激しい愛の時の後にはその分長い憎悪の時が訪れるし、愛の表れが淡白な場合は、憎しみの時も短いというわけです。当時の私たちには理解できませんでしたが、この愛というのも憎しみというのも、単に同じ一つの動物的な感情を別々の側から見たものに過ぎなかったのですね。
強調引用者。夫婦間で生じた憎しみは性欲(に対する反発)がもたらしたものだったということですね。そしてその憎しみがまたセックスによって解消される(「お互いにこれ以上ないほど残酷な罵り言葉を浴びせていた二人が、急に黙り込んだかと思うと、目を見交わし、微笑み、口づけして抱き合う」)。
大ゲンカした後にセックスみたいな流れ、ちらほら見ることある気がするけどマジで「何で??????」って思っていた、その疑問が解消された……のか?私は憎しみが性欲はじまりだと感じたことがないので全然実感がわかないんですが、そういうこともあるんでしょうか。
こうして豚並みの生活をかろうじて正当化してくれていた子供を産むという目的までが失われてしまったわけで、その結果、生活はさらにいまわしいものとなってしまいました。
子供をもつことがセックスの悪徳を正当化してくれる(セックスはキショいので、子供を産むのでもないのにセックスするのは恥知らず)という思想、いかにもキリスト教的だな~と感じた。でもその感覚、キリスト教徒ではないが私もわかる。聖書に基づいてではなく、生まれ持ってのもしくはこれまでの人生に基づいて。
このへんの感覚がキリスト教圏でのソドミーや堕胎の否定につながっているんだろうな。
文庫版の解説が話の内容について簡潔にまとめていた。
男女関係のすべてを性衝動や支配/服従関係の問題に還元するかのような主人公の論理戦略は、結婚をめぐる制度を小気味よいほどに「異化」する効果を発揮しています。彼によれば求婚は女性という奴隷をめぐる市場取引であり、妻は長期の売春婦であり、性交は暴力であり、結婚生活は憎しみと性欲の波の交代であり、医者は妻を堕落させる破廉恥漢です。貴族の家庭コンサートが公然たる姦通の現場のように描かれているのもこうした論理の延長なら、最後のシーンでナイフによる殺人が性交の隠喩のように書かれているのも、同じ原理によるものと思われます。
この「ナイフによる殺人が性交の隠喩のように書かれている」というの、まじでちっとも気が付かなかったし実は読み返してもどのへんが「そう」なのかわからなかった。まあでも言われてみればナイフで刺し殺すのは性交の隠喩かもな……
そう考えてみると中村文則「世界の果て」のやつも性交の隠喩だったのかもな……(中村文則が好きなのですぐ中村文則の話をする)
全体的に見て、私は「クロイツェル・ソナタ」の妻殺し男の話は結構納得できるところがあって好きだった。トルストイ、芥川龍之介に通ずるような人間描写の鋭さが感じられてよかった。ほかの本も読みたい。