まくら

読んだ本や好きな文章の感想

(歌集)永田和宏『メビウスの地平』

「あの胸が岬のように遠かった」というフレーズが心に突き刺さって離れなかったので永田和宏の歌集を読みました。

『知の体力』とか『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』とかは軽く読んだことがあったんですが、歌集をちゃんと読んだのはこれが初めてです。

 

 

 

蚯蚓腫れのアスファルトの坂くだりつつかろうじて神にはとおきはつ夏

 

全体的に「わかりやすい」とは言えない歌が多かった印象ですが、私は好き。

わかりやすくはないけど、「難解」というわけでもないんですよね。なんというか、典拠を知ってなきゃわからないとか使われてる言葉が難しいとかじゃなくて、「取り合わせ」が奇抜。私は「具体的な情景」と「抽象的な感情」とが組み合わされてる歌が印象に残ったんですが、情景と感情の間のジャンプ、詠まれてる対象と対象の間の懸隔が激しい。

上に挙げた歌も具体と抽象の間に飛躍を感じる歌で正直意味はよくわからないのですが、でも「雰囲気」は感じる。この雰囲気ってつまり、私がこれまで実際に見たことのある(もしくは、見たことがある気がする)風景、感じたことのある感情が記憶から引き出されたもので、そういう鮮明なイメージを想起させてくれる歌が私は好きです。

ひび割れたアスファルト、夏、下り坂、蝉の鳴き声が激しくて、坂を下り切った先には薄暗い森に包まれた神社がある。色あせた鳥居が初夏の日差しを静かに浴びている、とかそういう景色が自分の中から引きずり出された。実際はそんな風景見たことないんですが。

 

 

 

 

くれないの愛と思えり 星掴むかたちに欅吹かれていたる

 

「くれないの愛」と「欅」の間の飛躍……わからん……わからんけど、「伝わる」。

この歌集はこういう説明不足の歌が多くて、でも作者のそのときの感情?パッション?そういうものがしっかり伝わってきたからなんじゃこりゃみたいには思わなかった。確か『知の体力』で永田さん自身が「短詩系文学で大事なのは、嬉しいとか悲しいとかいった最大公約数的な形容詞を使わずに、物の描写で作者の特殊な感情を伝えること」と述べられていたのですが、そういう作歌の態度がしっかり実践されている歌たちが収録されていると思った。

「星掴むかたち」に風に吹かれている欅、その下に立って夜空を見上げて「くれないの愛」について思う。「くれないの愛」って何かわかんないけどきっと激しくてまだ成就していない恋で、そういう激情にかられた人間が紺青の空の下で一人立ち尽くしている、その対比がいいんですね。

 

 

 

 

あと韻を踏んでいる言葉遊び的な歌もちらほらあってよかったです。

 

かくれんぼ・恋慕のはじめ 花群に難民のごとひそみてあれば

錫色にすすきが揺れるもはやわれと刺し交うべき影はもたぬを

ほおずきの内部にひっそり胎されてほのお以前の火のほのぐらき

 

韻を踏んでる文、日本語を愛してもてあそんでいる感があって私は好きですね……

音から受ける印象も踏まえて作品を作れる人、日本語上級者という感じで出会うとほれぼれする。

ほか韻を踏む系で私が好きな作品は、種田山頭火の「あざみあざやかなあさのあめあがり」。これ以上に雨上がりの朝にぴったりな言葉ある?

 

 

 

 

あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年

 

上の句が本当にめちゃくちゃ良い。「あの胸が岬のように遠かった」……? もうこれだけで一つのドラマができる。岬なんて生まれてこのかた行ったことあるかどうかも定かじゃないのに、髪をなぶる潮風、水平線、岬の突端、そこに立つ愛すべき人、そういうビジョンがいっきに脳内に広がる。

下の句……これもよくわかんないですね……「おれの少年」は「おれのものである少年」(外部の存在)なのか、「おれのなかにいる少年」(自分の一部)なのか。そもそもこの「少年」はboyなのか、それとも「幼年期」を指すのか。よくわらかないけど、でもこのわからなさがいい。何もかも説明されてしまうと能動的に読めなくてつまんないから……

 

この歌、文庫版の解説読むと「『あの胸』は女性の胸であり、かなわなかった性欲が歌われている」って書かれていて「あ!?!??!」になっちゃった。性欲!? これって性欲の歌なんですか? 私はそうは思わん、プラトニックな切ない少年期の愛のイメージで私はこの歌を愛誦し続けるよ。

 

 

 

 

銹におう檻をへだてて対き合えば額に光を聚めておりぬ

 

この歌、「さびにおう おりをへだてて むきあえば ぬかにひかりを あつめておりぬ」で読み方あってる? 特に「額」、音数でいえば「ぬか」だと思うんだけど「光」とのつながりでいえば「ひたい」である可能性もある……韻ふみがちな歌集だったのでなおさら迷う……

この歌集、恥ずかしながら調べないと読めない漢字が多かった。調べればわかるものはまだしも、この「額」みたいに読み方を定められない字はルビを振ってもらえると大変助かりますわね……

 

漢字の読み問題といえば、以前どこかで読んだ萩原朔太郎「天景」(『月に吠える』所収)に出てくる「四輪馬車」の読みについての話が興味深かった。

 

しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり、
しづかにきしれ四輪馬車。
光る魚鳥の天景を、
また窓青き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。

「四輪駆動」は「よんりんくどう」なので普通に読んだら「よんりんばしゃ」になるかもしれないんですが、この詩では「しりんばしゃ」と読むのが適当という話だった。

理由は、この詩では「づかにきりんばしゃ」と「し」での押韻がなされているとして読んだ方が「馬車のきしみ」感がより出るから、ということだった気がする。なるほどな~と納得し、そういうわけなので読みが難しい漢字にはルビを振ってほしい(編集者への要望)

 

 

 

 

花の闇軋めるほどの抱擁よ! 見事に肉となった泥たち

泉のようにくちづけている しばらくはせめて裡なる闇繫ぐため

 

とても好きだった二首。ほの暗くて激しい愛を詠んだ歌が印象深かった。

「花の闇軋めるほどの抱擁」はまだわかるんですが、「見事に肉となった泥」がこれまた難しいですね……でも、なんとなく「抱擁」が後ろ暗いものであるようなことは感じる。「肉となった泥」は抱擁している二人?

こういう風に、永田さんの歌は歌全体で意味が通るようにするんじゃなくて、「花」「闇」「軋める」「抱擁」「肉」「泥」っていうような一単語一単語がもつイメージで勝負してきている感じがした。それで十分伝わるんですよね、何かの「核」が。何の核なのかはうまく説明できないけど、そもそも言葉を組み立てることによっては説明できないようなことを永田さんは伝えようとしているのだと思う。

 

そしてこういう作品の作り方って、日本語に対してものすごく繊細で敏感な感受性をもってないときっとできない。

「泉のようにくちづけている」という比喩もそう。「花びらのように抱き合い」とか「どんぐりのごとき孤独」とか「崖のようにひとりの愛を知り」とか……比喩が奇抜で、でもおかしくない。言葉に引きずられているんじゃなくて、情感の核を引きずり出すための言葉を慎重に(もしくは直感的かつ的確に)選んでいるんだろうなと感じる。

 

それにしてもこの歌……「泉のようにくちづけている」で清冽な、神話みたいな明るい愛の様子をイメージさせておいて、下の句で一転「せめて裡なる闇繫ぐため」。

い、淫靡…………………………このイメージの反転、すさまじくないですか? 日差しの下で抱きあう若い恋人たちの間で、内なる闇が繋がれている。まばゆい清潔さと口内の湿った闇の対比、「秘め事」って言葉がよく似合う。

 

 

 

きまぐれに抱きあげてみる きみに棲む炎の重さを測るかたちに

 

これも言葉選びがすごく素敵。「きみに棲む」「炎の」「重さ」を測る「かたち」に

……………………? な、何事……………? 全部なかなか結び付きがたい言葉たちなのに気持ちよく調和してばっちり意味が伝わる。こういう人を「文学者」って呼ぶんでしょうね………脱帽です。永田和宏の歌、もっと読みたい。