まくら

読んだ本や好きな文章の感想

藪内亮輔『海蛇と珊瑚』(歌集)

藪内亮輔さん、ツイッターの短歌botで見た歌がめちゃくちゃ好きだったので歌集を買いました。

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ハードカバーで歌集を買うのは初めてなのですが、カバーは無駄な装飾が一切ないメタリックなグレー一色でカッコいいです。

ちなみに1ページに基本三首が収録されています。

 

おまへもおまへも皆殺してやると思ふとき鳥居のやうな夕暮れが来る

これがそのツイッターで見た歌なのですが、これ……本当に好きです。

やっぱり一番独創性が出ているのが「鳥居のやうな夕暮れ」……。夕暮れを鳥居に喩えるの斬新すぎる。これまでの人生でそんな風に考えたことがなかった。それなのになんか…わかる。確かに夕暮れは、鳥居のようになりうる。

 

上の句の「おまへもおまへも皆殺してやる」ってなんというか、罪深い発想ですよね。その、神に知られれば罰されかねない思考と、「鳥居」とが結びつく。この「鳥居」、私の中のイメージでは、伏見稲荷大社にあるような連続して立ち並ぶ鳥居。奥行きがあって、鳥居の下には石畳の一本道があり、一番遠くの鳥居はもう暗闇の中に沈みこんでよく見えない。そんな鳥居の群れが巨大に、空に立ちはだかるようにして、自分を罰するかのように迫ってくる。毒々しいほど赤い「夕暮れ」を見て、ふとそんなように感じてしまう。もうこの一首で作者の独創性、感性の特異さがビンビンに伝わる。

そもそも詩や歌っていかに既存の言葉に新しい意味や見方を付与するかという試みなのかもしれないけど、やっぱりこういう卓抜した、斬新な比喩を読むたび「スゴ………天才じゃん……………」ってなっちゃいます。

 

 

歩いて花を視界の外へすててゆく何度もみぞれのやうだなんども

こういうね〜皆が知っている感覚を改めて言葉にして、それでいて新しさや発見を読み手に与えられるのすごいと思います。視界の端を流れていく花の白い残像、みたいな感覚は皆が知るものかと思いますが、それを「みぞれのやうだ」と詠み上げたことで、これを読んだ人の中で花が次から「みぞれ」に変わってしまうわけですよ。そして白い花と、冷たく半分とろけたようなみぞれの雫のイメージとが結びついて、世界の見方が深まり変容していくわけですわ……。

 

 

夜がひかりのやうに静かだ家までを骸(むくろ)とともに帰り着きたり

これも新奇性ありますね。改めて考えてみたら、「静かな光」という表現はよく聞きますが、「光のように静か」という表現は初めて聞いたかもしれないと思って。こういうありそうでなかった組み合わせも見るたび感心します。しかも「夜がひかりのやうに静か」……。なんだか異世界のような雰囲気。夜道を歩いているはずなのに、どこかその奥に目に見えない光が満ちているようなイメージ。

この骸(むくろ)は誰のものなんでしょうね。そもそもなぜ骸とともに家に帰るのか。他人の死体、ってことじゃなくって、もっと形をもたない抽象的なもののことなのかも。

 

 

雨はふる、降りながら降る 生きながら生きるやりかたを教へてください

これ!!!!この歌めっちゃ好きです。読んだときびっくりしました。ただ生きてるだけじゃ生きてることにならないんですよ。ソクラテスの言う「善く生きる」というのとはちょっと違いますかね。なんというか、みなぎるように、命を十分に使い尽くし、燃やし尽くすように生きるようなのが「生きるやりかた」のイメージです。

 

「生きながら生きるやりかたを教へてください」という、切実な祈りのような、吐息混じりの呟きのような言葉。これが、降っている「雨」を見て(見ていないかもしれないが)導き出されてるのが本当に秀逸……。雨という、思考も言葉ももたない純粋なものであるから「降りながら降る」ことができる。行為そのもので存在を満たすことができる。それに対して自分はしょうもないことで悩んだりつまずいたり、言葉をもてあましてあてどなくふらつきまわったりして、降っている雨のように純粋で完全な存在ではいられない。「生きるやりかたを教へてください」って、その震えるような呟きが、雨音にかき消されてしまうようで、どこか切ない余韻がある。きっとこの主体は傷ついている。その痛みを雨の中に晒して冷たく濡れながら、それでいて細く降り続く雨に柔らかく包まれるようにも感じている。

 

あと「何度もみぞれのやうだなんども」もそうでしたが、藪内さんの歌、結構同じ言葉が一つの歌の中で繰り返されることが多い。短歌って短いのであんまり言葉は重複させないものかと思ってたんですが、藪内さんの場合は言葉の繰り返しに必然性があって、そこでまたオリジナリティ出てる感じで好きです。繰り返すことで生まれるリズムがすごく大事なアクセントになってる感じがします。

 

 

君も私もクソムシでありそれでよく地平線まで星で星で星で

ウオ〜〜〜〜………この歌もめちゃくちゃ好き……………こういう、私がどんなに駄目でゴミみたいな人間でも、世界にはこんなに美しいものがあると言ってくれる作品、本当に好きです。救いです。「地平線まで星で星で星で」、これも語の繰り返しによって、視界いっぱいの星々が光りながら自分に迫ってくるかのようなダイナミックなイメージが生まれています。

例えばこれが「地平線まで星が満ちてる」とか「地平線まで星が瞬く」とかだったらぜんぜん違うんですよ。だめなんです。「星で星で星で」とすることで、「お前がクソムシだろうがそんなもんどうでもいいんだぜ!!」って感じが出る。矮小な私と無関係に、圧倒的に大きく美しいものが世界にはあるってわけ。ありがとう。私がクソムシであってもカス野郎であっても、いつでも無数の星々が夜空を埋め尽くしていつまでもそこで光ってる。

 

 

黄昏をしづかに床に置くといふこの敬虔が何故解らない

詩は遊び? いやいや違ふ、かといつて夕焼けは美しいだけぢやあ駄目だ

散りながら集ふことさへできるからすごい、心つていふ俗物は。

 

これらは、なんかこの……今どきな、新しい感じの言葉選びが好きです。

特に二つ目、「夕焼けは美しいだけぢやあ駄目だ」、ここ好きですね……そう、夕焼けを見て美しいねって感じるだけじゃなくて、そこに詩を、歌をつけなくちゃいけない、そうして初めて夕焼けは世界に存在できるのかも。あとこの歌は上と下がうまく繋がらないために不調和が生まれてて、それもまたいいアクセントになってて好きです。

心を「俗物」呼ばわりする姿勢も好きですねえ……。心って何かと神聖視されがちなものかと思うんですが、確かに俗物とも見なせるかもしれない。心を俗物だと考えてみると、なぜだか気分が軽くなる気がします。

 

 

われのいかりは本を投げ捨て鉛筆を投げ捨てつひにわれを投げ捨つ

石川啄木の「怒る時かならずひとつ鉢を割り九百九十九割りて死なまし」を彷彿とさせる歌。ただ啄木は「怒り」と「死」の間にわずかに隔たりがあるというか、怒りと死が直結していない印象があるのですが、藪内さんのは怒りのままに、怒りによって身が滅ぶ感じがして、そのあたりに独自性がありますね。

 

「正義」とふ青銅の瓶のやうなことば使ひ方は斯うだ叩き付けてつかふ

なんとなく上の歌とイメージが近い歌。「正義」って言葉はとかく暴力的なものになりがちですね。

青銅の瓶って、私は触ったりしたことないかもしれないんですが、叩き付けたら割れるんでしょうか。私の中では、「正義」は叩き付けたら割れるガラス瓶みたいなイメージだったんですが、割れないのだったら鈍器のイメージで詠んでるんでしょうかね。

 

 

莫迦にした」ときみは言ふけどしてないよどちらかといへばたんぽぽにした

なんとなく嫌ひだよつて人ばかりあつめて紫陽花にしてしまひたい

たんぽぽ(笑) こういうの好きです。これも言葉にするの難しいんですがなんか「わかる」。

たんぽぽ、響きがのどかすぎて、逆に(?)莫迦にしてる感じになってますね。

紫陽花の歌のほうは、「なんとなく」が大事な感じがしますね。これが「ものすごく嫌ひ」だったとしたら……なんですかね……紫陽花ではなく薔薇とかにしたくなるかも。「なんとなく嫌ひ」だから「紫陽花」なんですよね。私のイメージではこの紫陽花は薄い青色をしています。

 

 

憧れは理解からもつとも遠い感情 葉にふる雨が花ぬらすやうに分るよ

突然の愛染隊長に驚いたあとフフッとなりました。このセリフ、私もBLEACHの中で一番好きです。こういうおちゃめな(?)歌もあります。

 

 

いや〜、歌集ってあまり買わないのですが、全体としてはかなり満足です。そんなに難解でもないですし、挑戦的な歌や気の抜けたような歌もあれば、すごく正統派の穏やかで美しい歌もあって、飽きずに最後まで読めました。魂に刻み込みたくなるような歌にたくさん出会えてよかったです。

歌集 海蛇と珊瑚

歌集 海蛇と珊瑚

  • 作者:藪内 亮輔
  • 発売日: 2018/12/28
  • メディア: 単行本