まくら

読んだ本や好きな文章の感想

坂口安吾(1)「教祖の文学」

坂口安吾の文章、め〜〜〜〜〜〜っっっちゃ好み……。

新潮文庫の『堕落論』(評論集)、昔読んだときはウオ〜〜よくわかんねえ〜〜〜😭と思いながら義務感でバーッと読んだだけだった気がするけど、今改めて読んだらめちゃくちゃ面白い……

文章がほんと簡潔。無駄がない。美文を目指したような装飾はないけど、「必要」なものだけを書いたときに立ち現れる「簡素さの美」のようなものがある。美しい。

あと抽象的な話に終始せず、ちゃんと具体例が織り交ぜられるから理解しやすい。軽妙洒脱でユーモラス。笑える評論って好き。バンカラな感じだが粗野ではなくって、身軽で鋭利な自然体というか……。

 

特に「教祖の文学」(青空文庫: https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42864_22350.html)に好きな文章が多い。

 

人間は必ず死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえというようなことは成り立たない。恋は必ず破れる、女心男心は秋の空、必ず仇心が湧き起り、去年の恋は今年は色がさめるものだと分っていても、だから恋をするなとは言えないものだ。それをしなければ生きている意味がないようなもので、生きるということは全くバカげたことだけれども、ともかく力いっぱい生きてみるより仕方がない。

 自分という人間は他にかけがえのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いっぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものの肖像によって間に合わせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。

 

「生きるということは全くバカげたことだけれども、ともかく力いっぱい生きてみるより仕方がない。」ここがめちゃくちゃ好き。人生の肯定、人間の肯定。坂口安吾は人生を肯定するといったつもりはなかったかもしれないが、私の人生というものが肯定されたと思った。ちょっと泣きそうになった。

私が死んだあとも人間一般は生き続けるだろうが、私の人生はこれ一度きりで死んだら終わりなわけで。私が死んでも人間(もしくは、自分の子)は生き続けると考えることで自分を慰めてごまかしながら生活するより、もっとギリギリのところで泥の中で這いずり回るみたいにして生きていいんだと。そしてそこから芸術が生まれる。芸術が生まれるんですよ、私のこのクソみたいな人生から……

 

何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。

なんだかわかんないけど生きていいんだと思った。やっぱり強い肯定だよ、生きている人間に対する。こういう、めちゃくちゃになりながらも生きていいんだと言ってくれるものにやっぱり弱い。強烈な救いではないですか?

 

 

でも、小林秀雄の言ってることもわからなくはない。

「生きている人間なんて仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言いだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(無常ということ)

この「人間になりつつある一種の動物」という表現好き。

終わりきったもの、完成したものが美しい形をしているのはわかる。透明標本みたいにきれいだし、安定しているよね。

 

ただ単純に、小林秀雄の文章が私には難解に感じられて……。高校の現代文の教科書に載っていた「無常ということ」は読んだけど、ざっと一読しただけでは理解しきれなかった気がする。ちょっと観念的に過ぎ、もやもやとした文体をしている印象。

そこへ颯爽と現れた坂口安吾が、具体と抽象をほどよく織り交ぜながら軽快な文体でズバンズバンとものを言ってくれるものだからメロメロになってしまった。

 

 

多分宮沢賢治の「眼にて言う」を初めて知ったのもこれ読んだときなんだけど、この詩めちゃくちゃ好き。確かに、平家物語徒然草よりも。

 私は然し小林の鑑定書など全然信用してやしないのだ。西行や実朝の歌や徒然草が何物なのか。三流品だ。私はちっとも面白くない。私も一つ見本をだそう。これはただ素朴きわまる詩にすぎないが、私は然し西行や実朝の歌、徒然草よりもはるかに好きだ。宮沢賢治の「眼にて言う」という遺稿だ。

 

だめでしょう

とまりませんな

がぶがぶ湧いているですからな

ゆうべからねむらず

血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にそうです

けれどもなんといい風でしょう

もう清明が近いので

もみぢの嫩芽(わかめ)と毛のような花に

秋草のやうな波を立て

あんなに青空から

もりあがって湧くやうに

きれいな風がくるですな

あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば

これで死んでもまずは文句もありません

血がでているにかかはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

ただどうも血のために

それを言えないのがひどいです

あなたの方から見たら

ずいぶんさんたんたるけしきでしょうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとおった風ばかりです

 

 半分死にかけてこんな詩を書くなんて罰当りの話だけれども、徒然草の作者が見えすぎる不動の目で見て書いたという物の実相と、この罰当りが血をふきあげながら見た青空と風と、まるで品物が違うのだ。

 思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目。そんな目は節穴みたいなもので物の死相しか見ていやしない。つまり小林の必然という化け物だけしか見えやしない。平家物語の作者が見たという月、ボンクラの目に見えやしないと小林がいうそんな月が一体そんなステキな月か。平家物語なんてものが第一級の文学だなんて、バカも休み休み言ひたまえ。あんなものに心の動かぬ我々が罰が当っているのだとは阿呆らしい。

 

すんごい好き、この詩。こんなふうに死ねたらいいよね。美化しすぎ、理想化しすぎって言われるかもしれんが、私はこういう理想も愛でていきたい。ときどきにはこういう美しいものがないと生きていけんよ。

血を吹き上げ、魂魄なかば身体を離れ朦朧としながら、仰向けに倒れて見上げた視界の半分以上はきっとあくせく動く黒いコートで埋められているんだろうが、その背中に見える青空のなんと美しいこと。透き通った風が吹いて、秋の初めの穏やかな空気、今まで生きてきた中で何度も見てきたのと変わらない青空。それがとんでもなく美しい。救いだ。真っ赤な血にまみれて地面に倒れながらこんなきれいな空が見られるならもうそれで全てじゃない?

 

平家物語徒然草も絶対教科書に載ってるけどまあ別段好きだと思ったことはない。那須与一平敦盛仁和寺にある法師、矢を二本持ったときの懈怠の心、色々読んだけど、まあ、うん。教科書に載ってるからにはすごいものなんだろうと頭から思い込んでたけど、そこへこの坂口安吾よ。気持ちいい。こんなこと言っていいんだとこれを読んで気付かされた。「あんなものに心の動かぬ我々が罰が当っているのだとは阿呆らしい。」強い語調で言い切ってくれるものは気持ちがいいな……。語調の強さにそれだけを理由に惹かれてしまうのは危険なんだろうが。

 

 

「教祖の文学」は終わりも好きだ。

人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。

これ、もう、はあ……。魂に刻んじゃうよ……

地獄に落下していく人間を、地獄に落ちること自体は認めながらも救ってくれる。この言葉があれば生きていこうって頑張れる気がするよ。言葉は人を救う。もちろん言葉だけが人を救うわけじゃないが。

 

 

堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)