まくら

読んだ本や好きな文章の感想

吉野弘「I was born」(+日記)

吉野弘の「I was born」、高校の現代文の教科書に頻繁に掲載されていますが、私が使っていた教科書にも載っていました。高校生のときに読んでからずっと好きです。

 

で、何が好きかって、今まではなんとなく蜻蛉と母の話がいいなあぐらいに思っていたんですが。

改めて考えてみると、冒頭の

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように、白い女がこちらへやってくる。

という、この状況設定にすごく引かれていたのかもしれない。

 

最近自覚したんですが、私はたぶん「季節感」をめちゃくちゃ大事にするんですよね。作品の中で描かれている季節感が、自分の中の記憶と結びついてノスタルジーを生じさせて、そのノスタルジーにキュンとすることが多い。

そして私は、おそらく夏は宵の口の時間帯が一番好き。暑さがやわらいで、でも空気はまだもったりと熱をもっていて、セミの声も落ち着いてきた、あのころ。太陽はもう見えなくて、でもその残照で空はまだぼんやりと明るい。茜色と群青のグラデーション。

しかも「寺の境内」なんですよね。私は実家の近くに寺ではなくて神社があったのですが、夏休みなんかはそこでラジオ体操をしていて、その神社の夏の土のにおいを思い出す。山も近かったので、日が暮れたときにはヒグラシも鳴いていたかもしれない。そして「青い夕靄」が空気の中を漂っていて、道を歩く人の足音も日中よりもわずかに柔らかく聞こえる。この詩を読むと、そうした幼少期の夏の記憶がよみがえる。ノスタルジー

 

詩の話に戻ると、蜻蛉の話は静かな悲しみがあって、美しい。

それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね。>そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

静謐だ…。この文章の静かさが好きだ。まさにこの静かさが「生き死にの悲しみ」そのもののように思う。悲しくて、そして清らかだ。葉の上の朝露みたいに透き通っている。卵=「淋しい 光の粒々」が咽喉もとまで充満している蜻蛉の悲しみを、こんなふうに繊細に掬い取れる詩人がいるのだ。

 

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。

――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。

蜻蛉の卵と自分とが結びついて、「僕」は痛みを覚える。「生まれさせられる」僕の肉体が、母の中に息苦しく充満している。「目まぐるしく繰り返される生き死に」によって、「僕」は生まれ、母は死ぬ。この詩はなかなか重層的で、そこも好きですね…。いろんなところが破綻なく、詩的美しさを保ったまま結びついている。

 

ところでこの詩を台湾人の知人に見せたところ、「死生観が日本的ですね」と言われ、そうなのかと意外に思った。その人曰く、中華圏の人の中では「生まれた命には使命がある」「死んだあともその使命は他の人に引き継がれていく」というような思想があるそうで(このあたり私があまり咀嚼できなかったので違ってるかも)、「生き死にの悲しみ」という発想はあまり中華圏の人には馴染みがないというようなことを言っていた。興味深かった。

あと、なぜ日本人は電車に飛び込むのか、体が傷つくのに、とも聞かれた。すごく不思議らしい。中華圏では、死体をなるべくきれいに残したいという考えがあるそうだ。文化による死生観の違いを聞くのは面白かった。

 

 

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ここから日記。

今日行った美容院でこういう雑誌を読んだ。f:id:synr777:20210530234724j:image

有名な建築家がデザインした温泉宿の写真などがたくさん載っていた。

私はこういうシャレオツ建築の内部空間の写真が好きで、宿の予約サイトでホテルの内装の写真とかもよく見るんだけど、なんでそういうのが好きなのか考えた。

 

スタイリッシュな建築物って、人間のために作られたものなのに、「生活感」がない。そこがなんか好きだ。

ただ、ジャングルの奥地とか南極とかも人間の生活はないのに、そこに対して抱く感情とは違う。オシャレ建築物のほうがキュンとする。何が、なぜ違うのかを考えた。

 

多分オシャレな建築物って、「抽象的」なんだよね。ジャングルとかの大自然には、人間の生活を感じないが、その分「自然」がある。地球が息づいているのを感じる。そしてそういうのって具体的だ。

私は抽象的なものが好きだ。生命活動をしない、ご飯を食べない、息づかない、概念的なものが好きだ。清潔だから。あと高尚な感じもする。「高み」にある気がする。そういうものが好きだ。

 

だから建築物といっても、日光東照宮みたいな豪華絢爛、人間的な装飾ゴテゴテのものにはキュンとしない。有り体に言うと卑俗な感じがするから。卑俗なものもそれはそれで魅力があるが。

あとスタイリッシュ建築でも、多分その中に人が住んじゃって、生活感あふれる雑貨なんかがゴチャゴチャしていくとキュンとしなくなる。デザイナーズホテルの内装写真みたいな、「生活」が削ぎ落とされた美しい姿の建築が好きだ。機能美ってやつなのかな。

 

建築家には全然詳しくないんだけど、今日読んだこの雑誌は単に温泉宿の宿泊情報を紹介するだけじゃなくて、建築の美しさの観点からも語られてるのがよかった。

美容院でのシャンプー中は考え事がはかどる。