まくら

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芥川龍之介「地獄変」:娘はなぜ焼かれたか

地獄変のこと愛してるのに、実はこれまでこの話の解釈を突き詰めて考えたことがなかったので考えてみた。

ただ、いくつか論文を読んでるうちに「これはガチでやると記事書くのに一月以上はかかるな!?!?」と感じ、そこまでは時間をかけたくないなと思ったので文献調査は徹底していません。具体的に言うとCiNiiで読めるものなどアクセスが容易だった論文をざっと読んだ程度です。

だいぶ長くなったので「続きを読む」以下に書きました。

 

 

 

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今回の記事では、「なぜ良秀は娘を燃やしたのか」という点を中心に、「地獄変」の読み方についての私の考えを述べる。なお、( )の中に示した漢数字は、そこで言及した箇所が見られる「地獄変」内での章を示す。

 

  

1.良秀の心理:大殿への御目通りまで

1-1.良秀の寝言

 「なぜ良秀は娘を燃やしたのか」について述べると前述したが、そもそも良秀は自分の意志で娘を燃やしたのだろうか。つまり、大殿が娘を燃やすよう意図的に差し向けたのだろうか。

 この点について考える際に手掛かりになる描写として、良秀の寝言(八)がある。

 

「なに、己に来いと云ふのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。さう云ふ貴様は。――貴様は誰だ――誰だと思つたら」

「誰だと思つたら――うん、貴様だな。己も貴様だらうと思つてゐた。なに、迎へに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――奈落には己の娘が待つてゐる。」

 

 ここで言う「貴様」は誰のことか? 大殿にお眼通りした際(十四)、良秀は次のように言っている。

 

又獄卒は、夢現に何度となく、私の眼に映りました。或は牛頭、或は馬頭、或は三面六臂の鬼の形が、音のせぬ手を拍き、声の出ぬ口を開いて、私を虐みに参りますのは、殆ど毎日毎夜のことと申してもよろしうございませう。

 

 ここでの「三面六臂の鬼」が、寝言で言っていた「貴様」であると見ていいだろう。「三面六臂の鬼」について、須田千里氏は、芥川が「大威徳明王が『三面六臂』であると考えていた」[1]と指摘している。現在、例えば「日本大百科全書」「大辞泉」等の辞書で大威徳明王を引けば「六面六臂」との説明があるが、芥川が大威徳明王を「三面六臂」と解していたのなら、良秀の言う「三面六臂の鬼」は大威徳明王、すなわち大殿を指していると読める。(冒頭(一)で、大殿が誕生する前に「大威徳明王の御姿が御母君の夢枕にお立ちになつた」とある。)

 

※余談だが、私の手元にある『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』(文春文庫)でも、「大威徳明王」の注を見ると「三面六臂」との説明がある。(なお、この本での注は「吉田精一氏のものに編集部が追加」したものであるとのこと。)

 

 以上より、「貴様」の正体が大殿であるとすると、良秀は地獄変の制作の序盤(「まだ焼筆で図取りだけしか出来てゐない」段階)ですでに、大殿との関わりの中で娘と自分とが破滅することを、漠然と予感していることとなる。

 この「予感」はどこから来るのか。娘が破滅するという予感を良秀が得たのは、「見たものでないと描けない」良秀が「地獄」の絵を描かねばならなくなったことに端を発していると私は考える。「気違ひのやうに可愛がつてゐた」娘の破滅が、良秀にとっての「地獄」になることを良秀自身が自覚しており、地獄の絵を描くには娘を奈落に落とすまでのことをせねばならぬと、無意識に近いところで知っていたのではないだろうか。また、この上なくかわいがっていた娘の破滅が、そのまま良秀自身の破滅につながることは必定である。

 そして、なぜ大殿が獄卒として良秀の夢の中に登場するのだろうか。これは娘をめぐって良秀と大殿とが対立していた(六)ことから来ていると考える。娘に懸想している大殿が、娘の破滅に関わってくることを良秀は感じていたのであろう。また、「長良の橋の橋柱に御寵愛の童を立てた」(一)という記述からは大殿の残虐性が示唆されるが、これも大殿が娘を燃やすことの伏線となっているかもしれない。

 

 良秀の寝言について語られた後には、責めさいなまれる弟子の姿を良秀が写し取る場面がつぶさに語られる(八~十)。この場面は、良秀の「見たものでないと描けない」性質を印象付けるためのものであろう。地獄で苦しむ人の絵を描くため、良秀が蛇やミミズクを弟子にけしかけたのと同じように、地獄を見るために娘は燃やされねばならなかった。

 

1-2.良秀の涙の理由

 良秀が地獄変の屏風を描けと命じられたのは秋の初めだったが、その年の冬の末になって、屏風の制作がはかどらなくなる。

 

その冬の末に良秀は何か屏風の画で、自由にならない事が出来たのでございませう、それまでよりは、一層容子も陰気になり、物云ひも目に見えて、荒々しくなつて参りました。と同時に又屏風の画も、下画が八分通り出来上つた儘、更に捗どる模様はございません。(十一)

もし強ひて申し上げると致しましたら、あの強情な老爺(おやぢ)が、何故か妙に涙脆くなつて、人のゐない所では時々独りで泣いてゐたと云ふ御話位なものでございませう。殊に或日、何かの用で弟子の一人が、庭先へ参りました時なぞは廊下に立つてぼんやり春の近い空を眺めてゐる師匠の眼が、涙で一ぱいになつてゐたさうでございます。(十二)

 

 これは、良秀が自身にとっての真なる「地獄」を見ていないがために、制作が行き詰まったものと私は解した。またこの「涙」は、絵のために愛する娘を燃やさねばならないという苦しみ・葛藤から来るものと考えた。つまり、すぐあとで語られる娘の「気鬱」と良秀の「涙」との間には直接の因果関係(大殿に迫られる娘のことが気がかりで泣いていたということ)はない、もしくはあっても小さいというのが私の解釈である。

 なお、十三章での「慌しく遠のいて行くもう一人の足音」は大殿の足音だというのが定説であるが、私もこの説に則る。ここで娘が大殿の意に背いた事実を示すことで、大殿が娘を燃やす展開へと繋げたのであろう。

 

1-3.大殿へのお眼通り(娘を燃やすことの提言)

 娘が大殿の意に背いた事件(十三)から半月ばかり後、良秀は大殿へのお眼通りを願い出る。そして女を燃やすことを大殿に求める。

 

「(略)あゝ、それが、その牛車の中の上臈、どうしても私には描けませぬ。」

「さうして――どうぢや。」

 大殿様はどう云ふ訳か、妙に悦ばしさうな御気色で、かう良秀を御促しになりました。が、良秀は例の赤い唇を熱でも出た時のやうに震はせながら、夢を見てゐるのかと思ふ調子で、

「それが私には描けませぬ。」と、もう一度繰返しましたが、突然噛みつくやうな勢ひになつて、

「どうか檳榔毛の車を一輛、私の見てゐる前で、火をかけて頂きたうございまする。さうしてもし出来まするならば――」

 大殿様は御顔を暗くなすつたと思ふと、突然けたたましく御笑ひになりました。さうしてその御笑ひ声に息をつまらせながら、仰有いますには、

「おゝ、万事その方が申す通りに致して遣はさう。出来る出来ぬの詮議は無益(むやく)の沙汰ぢや。」

「檳榔毛の車にも火をかけよう。又その中にはあでやかな女を一人、上臈の装(よそほひ)をさせて乗せて遣はさう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、悶え死をする――それを描かうと思ひついたのは、流石に天下第一の絵師ぢや。褒めてとらす。おゝ、褒めてとらすぞ。」

 大殿様の御言葉を聞きますと、良秀は急に色を失つて喘(あへ)ぐやうに唯、唇ばかり動して居りましたが、やがて体中の筋が緩んだやうに、べたりと畳へ両手をつくと、

「難有い仕合でございまする。」と、聞えるか聞えないかわからない程低い声で、丁寧に御礼を申し上げました。

 

 この時点で良秀は、大殿が言う「あでやかな女」が自分の娘であろうことがわかっていたと考える。娘以外の女が燃やされるのであれば、「吝嗇で、慳貪で、恥知らずで、怠けもので、強慾」とされる良秀が、「私は一生の中に唯一度、この時だけは良秀が、気の毒な人間に思はれました」と語り手が述べるほどに憔悴するであろうか。「急に色を失つて喘」いだのは、娘が燃やされる未来に怯えたためであろう。

 しかし、そう解した場合、大殿に娘を燃やすだけの動機があることを良秀が知っていたことになるが、それをどのようにして知り得たかということが問題になる。娘のそばに付き従っている猿が良秀の分身であることも定説となっているが、娘が大殿の意に背いたことを、良秀がこの猿を通して知覚したというのは無理がある解釈であろうか。たとえそうでなくても、良秀が「大殿様が御意に従はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判」を知っていたとしても不思議ではない。娘が大殿の意に背いたことを、半月の間に良秀は何らかの形で知り、そして自身が願い出れば大殿が娘を燃やすだろうという考えに至ったのであろう。

 

 以上述べてきた通り、良秀は娘を燃やすことに葛藤しつつも、絵のために娘を燃やすことを企図していた、というのが私の解釈である。

 

 なお、娘をめぐって大殿と対立していたにかかわらず、大殿から命じられた絵を描くために娘を燃やすのか、という疑問も持ち上がるかもしれない。これについては、「あれ程の子煩悩がいざ絵を描くと云ふ段になりますと、娘の顔を見る気もなくなると申すのでございますから、不思議なものではございませんか。」(七)といった記述で説明され得るものと考える。

 

 また、「娘を燃やしたのは、大殿から救い出すため」という解釈もあろう。高沢健三氏は、「良秀にとって『たった一つの人間らしい情愛』の対象である娘を奪おうとする大殿と、奪われまいとする良秀との暗闘」[2]が行われていたと述べる。また、須田論文でも「良秀は、大殿に汚されるよりは、せめて絵の中に永遠に封じ込めることの方を選」んだとし、「大殿から奪還するために娘を殺さざるを得なかった絵師の物語」が「地獄変」には隠されているとしている。

 しかし、良秀が娘を燃やした動機が娘を救い出すことにあると解すると、良秀の絵師としての常軌を逸したありさまについての子細な説明(二、四)の必然性が不明瞭になる。(恣意的な解釈かもしれない。この点についてはさらなる吟味を要する)

 

 また、芥川の「河童」では次のような記述がある。 

芸術は何ものの支配をも受けない、芸術の為の芸術である、従つて芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬ(「河童」)

  ここで見られる「芸術家」についての考えに従って、私は「地獄変」を、「善悪を超越した芸術家」についての物語であると見る。そう見ると、やはり「娘の救済」は絵画作成の第一義に据えがたい。「あれ程の子煩悩がいざ絵を描くと云ふ段になりますと、娘の顔を見る気もなくなる」という語り手の言を素直に受け取って(むろん「信用できない語り手」の問題は発生するが)、良秀は絵の完成を第一の目的に据えて娘を燃やしたとしてこの作品を読みたい。

 

 

 

2.良秀の心理:縊死まで

2-1.娘と猿の死

 果たして娘は「雪解の御所」にて燃やされる(「雪解」という名は、「雪のやうな肌が燃え爛たゞれる」(十七)と関連があるかもしれない)。

 車の中に娘を見たとき、良秀は「急に飛び立つたと思ひますと、両手を前へ伸した儘、車の方へ思はず知らず走りかゝらうと」する。そして娘に火がかけられると「恐れと悲しみと驚きと」が「歴々と顔に描かれ」る。良秀はまだこの時点で娘の死を受け入れられていないのであろう。芸術家としての心と、道徳とが葛藤しているのである。

 しかし、良秀の良心の表象であった猿が焼死することで、その葛藤は消失する。良秀は「恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べ」る。その姿には「獅子王の怒りに似た、怪しげな厳さ」があったとすら語り手は述べる。良秀が「善悪を絶した超人」になった瞬間である。

 なお、娘の姿を見せられたときに良秀が「驚き」を見せたと書かれていることから、「良秀はここで初めて焼かれる女が娘であると知ったのではないか」という疑問もあるかもしれない。この点については須田論文に詳しい説明があり、「『驚き』もその実態は自己の計画実現を目のあたりに見た『ショック』であろう」と述べられているが、私もこの考えを支持する。

 

2-2.縊死について(良秀の心理と芥川の意図)

 絵が完成した翌日、良秀は縊死する。これは、語り手の言うように、「一人娘を先立てた」ために「安閑として生きながらへるのに堪へなかつた」からなのであろうか。

 

 八章で、「――どこへ――どこへ来いと? 奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。」と良秀は寝言で言う。良秀はこの時点で、地獄変を制作したその先に自らの死があることを予感していたのだろう。自死する覚悟を固めていたからこそ、「屏風の出来上つた次の夜」に速やかに縊死できたと言える。

 また、寝言で「奈落には己の娘が待つてゐる」とも言っていることから、娘に会うために自死したとも言えよう。良秀は良心の呵責に耐え兼ね、やむなく死を選んだわけではなく、長期にわたる覚悟の上の積極的な自死であったと私は読んだ。最愛の娘を燃やし、屏風を描き上げ、猿に象徴された良心も消滅し、さらに娘が彼岸で待っているとあれば、良秀がこれ以上生きる理由はあるまい。「安閑として生きながらへるのに堪へなかつた」という語り手の解釈もあながち間違いではないが、「堪えなかった」というよりは「生きる理由がなくなった」という方がより適切かと思われる。

 

 ところで、芥川自身は良秀の死にどのような意味を与えようとしたのであろうか。三好行雄氏は良秀の死について、次のように述べている。

 

この小説でほろぶのは、良秀の人生だけである。全人生を人生の「残滓」としてほうむることなしに、芸術家の意味はよく存立しえぬというのが、「戯作三昧」をつぐ「地獄変」のテーマであった。良秀の人生は娘の死とともに終っている。良秀の死は、みずから予感した運命を実現するリフレインにすぎず、作者にそれが必要だったのは、良秀の墓標が「誰の墓とも知れないやうに苔蒸し」たという一行のためであった。彼の一生が忘れさられてもなお、芸術はその「人生」のあかしたりうる。[3]

 

 この三好氏の「良秀の人生は娘の死とともに終っている」という見解には同感である。また「誰の墓とも知れないやうに、苔蒸してゐる」という一文が重要な意味を持つことにも同意する。

 ただ、この一文は「彼の一生が忘れさられてもなお、芸術はその『人生』のあかしたりうる」ことを示すためのものであろうか。良秀の人生が滅んでも芸術は滅ばないということを一番に主張したいのであれば、最後の一文は地獄変の屏風のすばらしさを讃えるものになるべきではないか。

 この最後の一文について細川正義氏[4]は、「妙に悲しい響きを残す」とし、「良秀と同じ運命を自覚する芥川自身の痛みをも伝える」としている。人間性を捨てることで、確かに良秀はたぐいまれな芸術家へと上り詰めた。この(いわゆる)芸術至上主義はやはり「地獄変」のテーマであると思うし、良秀は芥川にとって理想的な芸術家だったかもしれない。しかしそのうえで、そうした芸術家の破滅的な生き方に対する芥川の苦悶を、最後の一文から感じずにはいられない。

 

 

 

3.「地獄変」における獣と大殿

 十九章の最後は次のようになっている。

 

私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震へるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るやうに、眼も離さず、良秀を見つめました。空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂を奪はれて、立ちすくんでゐる良秀と――何と云ふ荘厳、何と云ふ歓喜でございませう。が、その中でたつた、御縁の上の大殿様だけは、まるで別人かと思はれる程、御顔の色も青ざめて、口元に泡を御ためになりながら、紫の指貫の膝を両手にしつかり御つかみになつて、丁度喉の渇いた獣のやうに喘ぎつゞけていらつしやいました。……

 

 「猿のやうだ」(二)と言われていた良秀が「開眼の仏」のような威光を放つかたわら、大威徳明王にもなぞらえられていた大殿が「喉の渇いた獣」のようになる。この理由はどのように解すればよいのだろう。

 

 二十章で、良秀のことを評する言葉として「人面獣心」が出てくる。「人面獣心」の意味は、辞書で引けば「冷酷非情な人や義理人情をわきまえない人」(精選版 日本国語大辞典)となる。

 しかし「地獄変」で登場する実際の獣、つまり良秀と名付けられた子猿は、良秀の良心や父性を象徴する存在である。このことから、「地獄変」における「獣」は「世俗への執着」といったものの象徴なのではないかと考えた。そう考えると、絶対的な権力者であって放埓にふるまう大殿も「獣」の最たるものである。大殿も良秀と同じく「人面獣心」の存在なのである。しかし大殿の獣性は、大殿を信奉する語り手によって隠蔽される。獣性が露呈するのは、先ほど引用した十九章のほかに、良秀が大殿にお眼通りしたとき(十五)がある。

 

「どうか檳榔毛の車を一輛、私の見てゐる前で、火をかけて頂きたうございまする。さうしてもし出来まするならば――」

 大殿様は御顔を暗くなすつたと思ふと、突然けたたましく御笑ひになりました。さうしてその御笑ひ声に息をつまらせながら、仰有いますには、

「おゝ、万事その方が申す通りに致して遣はさう。出来る出来ぬの詮議は無益の沙汰ぢや。」

 私はその御言を伺ひますと、虫の知らせか、何となく凄じい気が致しました。実際又大殿様の御容子も、御口の端には白く泡がたまつて居りますし、御眉のあたりにはびく/\と電(いなづま)が走つて居りますし、まるで良秀のもの狂ひに御染みなすつたのかと思ふ程、唯ならなかつたのでございます。それがちよいと言を御切りになると、すぐ又何かが爆ぜたやうな勢ひで、止め度なく喉を鳴らして御笑ひになりながら、

「檳榔毛の車にも火をかけよう。又その中にはあでやかな女を一人、上臈の装をさせて乗せて遣はさう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、悶え死をする――それを描かうと思ひついたのは、流石に天下第一の絵師ぢや。褒めてとらす。おゝ、褒めてとらすぞ。」(十五、傍線引用者)

 

 ここで大殿の獣性が露呈するのは、「懸想していた娘を燃やす」機会が良秀によって与えられたからであろう。娘を燃やす行為は、娘への執着と表裏一体である。

 

 十九章では、猿が焼死し、良秀は世俗=娘への執着から解き放たれる。そのとき良秀は純粋な芸術家となり、「不可思議な威厳」を発する。そして良秀の威光に照らされることで、語り手の中での大殿の価値が瞬間的に急落する。同時に二人が天に立つことはできないのである。そして語り手は、「喉の渇いた獣のやうに喘」ぐ大殿の有様を冷淡に写し取る。

 

 広藤玲子氏[5]は、良秀を「芸術の価値」の象徴、大殿を「現世的な価値の象徴」と見て、「地獄変」を「芸術の価値と現世的なものの価値との両者を極端なかたちにして対立させている」作品ととらえる。そのうえで、十九章最後の場面について「芸術の価値が現世的なものの価値を屈服させるに至る」としている。三好氏も、良秀が「恍惚たる法悦の輝き」につつまれたとき「芸術の決定的な勝利が実現した」と述べる。

 しかし、大殿と良秀はそうも直接的に対立していたのであろうか。娘をめぐって間接的に対立していたとは言えようが、大殿から良秀に向けた発言「それ(=燃える女:引用者注)を描かうと思ひついたのは、流石に天下第一の絵師ぢや。褒めてとらす」も、良秀と大殿との対立は感じさせない。あくまで良秀の意識は屏風の完成に、大殿の意識は娘に向いていたのであって、大殿と良秀との間に直接的な対立があったとは思われない。良秀と大殿は、二人とも娘に(それぞれの形で)執着しており、そして良秀のみが獣性を捨てて真なる芸術家となる一方、獣性に囚われたままの大殿は喘ぐことしかできない。「地獄変」ではそのように、人面獣心の二人の人生が、時に干渉しつつもパラレルに展開していく様子が描かれているのではないだろうか。

 

 

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・・・・・・

メッチャ疲れた・・・・・・

地獄変」、あまりにも多様な読みが可能。ストーリー展開の上での登場人物の心理、作者である芥川の意図、さらに「愚かな語り手」の問題が絡まりあって本当にどうとでも解釈できるところが多いと思う。趣味で解釈を書くには強大すぎる代物だった。

本来は記述や資料から帰納的に作品のテーマを導くのがいいんだろうけど、それができずにあらかじめ直感で感じ取ったテーマに沿うように演繹的に記述を解釈してしまったところが多い。

読んでもらったらわかるように随所でロジカルジャンプしているので、この記事まんまレポートに使ったりするのはやめておくのが身のためだと思います。

 

以下、今回書けなかったものや調べきれなかったもの。

  • 大殿が良秀に地獄変の屏風の作成を依頼した動機(良秀を罰するためというより、良秀を娘から遠ざけるためかとは思うが…)
  • レイプ未遂事件のときの娘の描写がやたらと艶めかしい理由
  • 語り手は「老獪」か?(「陰の説明」によって意図的に大殿を批判しているか?)
  • 戯作三昧」など他の芥川作品との関わり
  • 吉田精一氏の論文をきちんと読めていない…

 

記事を書く途中で「ウワ!!わからん!!!」となったものがまだまだあった気がするけど思い出せない。

多分にガバガバで恣意的な解釈となってしまいましたが、今までモヤッと読んでいた「地獄変」の解釈を自分の中で整理できたのでよかったです。

 

ところで、何度か論文を引用させていただいた須田千里氏ですが、この方が書かれた「夢十夜」の第一夜についての論文が好きなのでよかったらぜひ。漱石の「夢十夜」の中で唯一のハッピーエンドと言われている?第一夜ですが、そこに描かれているのはハッピーエンドではないとした論文です。

須田千里. 「第一夜」の構造と主題--非「ハッピー・エンド」の説. 1997-05. (特集 夢十夜) 漱石研究 (8) p.166~176. (https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I4377237-00)

 

 

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 参考文献

[1] 須田千里(1997)「芥川龍之介歴史小説の基盤 : 『地獄変』を中心として」『叙説』25, pp. 73-103. (http://hdl.handle.net/10935/2044)

[2] 高沢健三(1969)「良秀像の再検討 : 『地獄変』の読み方の問題点二、三にふれて(文体と総合読み・芥川文学の場合)」『文学と教育』57, pp. 1-8. (https://doi.org/10.19023/bungakutokyoiku.1969.57_1)

[3] 三好行雄「『地獄変』について」『国語と国文学』昭和37年8月号(日本文学研究資料刊行会編『日本文学研究資料叢書 芥川龍之介』有精堂、1970年所収)

[4] 細川正義(1974)「芥川『地獄変』の世界」『人文論究』, 24(2), pp. 16-31

[5] 広藤玲子(1969)「『地獄変」について : 芥川龍之介論Ⅱ」『近代文学試論』(7), pp. 30-37