まくら

読んだ本や好きな文章の感想

4/4追記「見たこともないような美しく冷酷なものに、からめとられる」アンナ・カヴァン『氷』

タイトルの「見たこともないような美しく冷酷なものに、からめとられる」というのは、川上弘美さんによる解説の中にある言葉なのですが……言い得て妙。文庫版『氷』の帯にも使われているのですが、ずばりこの作品の異様さ、麻痺するような美しさ、残酷さが言い表されている絶妙な表現だと思います。

 

アンナ・カヴァンの『氷』……いや、この作品、本当にすごくて……私のこれまで読んできた本の中で、明らかにこの作品だけ頭抜けて異質。私の知る本すべてをジャンルごとにカテゴライズしたとき、『氷』は『氷』だけで一つのカテゴリーにせざるを得ない。それくらい、この本に似ている本というのを読んだことがない。

 

あらすじを簡単に述べると、急速に氷に覆われていく世界で、語り手の「私」が一人の少女を追い求める話です。具体的な年代や舞台となっている地名は明かされません。わかるのは、地球規模で急激な寒冷化に見舞われ、各地で争いが起こり、世界が終わりに向かって進んでいるということ。多くのことが謎に包まれたまま世界がどんどん混沌へと陥っていく不穏さ、終末感、骨まで凍るような雪や氷の描写、そうしたものも特筆すべきすばらしさです。

 

でもこの本で一番!!特徴的なのは、小説において最低限求められるであろう「秩序」や「因果関係」といったものが崩壊していること。

文庫版で本文の前に入っている序文では、「このストーリーには原因と結果というものが完全に欠けており、普通の小説と同じような姿勢でアプローチすれば、何とも荒っぽい構成の、勝手気ままとさえ言っていい小説に思えることだろう」とあります。それの具体例として、ちょっと次の引用を読んでみてください。

 時間はもうほとんど残されていない。しかし、少なくとも私たちは同じ最後の時を分かち合うことができる。森はすでに氷に飲み込まれ、最後の樹々の列が引き裂かれつつあるところだ。少女の銀の髪が私の口に触れる。少女は私に身を寄せかける。その瞬間、私は彼女を失った。私の手は二度と彼女を見つけることができなかった。氷の衝撃に引きちぎられた樹の幹が何百メートルも投げ上げられ、空中高く乱舞した。閃光が走り、あらゆるものがいっせいに震えた。半分ほど詰まったスーツケースが蓋を開いたままでベッドの上にあった。部屋の窓はどれも大きく開け放たれて、カーテンが部屋の内側に向けて流れ込むようにひるがえっていた。(中略)私は急いで上着を着こみ、窓を閉じた。

「半分ほど詰まったスーツケース」の文に入った瞬間、「え????」となりますよね?  これはかなり序盤の場面なのですが、だいたい作中通して程度の差こそあれずっとこんな感じです。初めて読んだときは本当に混乱しました。

 

他にも例を挙げると、少女が惨たらしく死ぬ場面が「私」によって眼前で起こっているかのように語られたのに、ページを進めると当然のように生きている少女が出てきたりします。だから少女は何度でも死にます。

 男たちはそれ以上待つことなく、少女をフィヨルドに投げ落とした。落ちていく少女のあとに、最後の痛ましい叫びが長く尾を引いた。次の瞬間、紙袋をたたき割ったように夜が炸裂した。巨大な水柱が噴き上がった。(中略)沸き立つ水の中から、とぐろを巻く鱗の輪が現れ、白いものが、鎧で固められた顎に噛み砕かれる寸前、水中で狂ったようにもがくのが見えた。

あらゆる場所を探すが、少女は見つからない。ようやく、私は瓦礫の間に横たわっている少女の体に蹴つまずく。異様な角度にねじ曲がった頭。渦巻く煙と土埃を通して、黒い土と建物の残骸を背にした白い肌が見える。その白い肌の上の血は、最初は赤く、やがて黒くなっていく。豊かな銀白色の髪をつかんでよこざまにねじられた頭。折れた細い首。子供時代に受けた虐待によって、少女は犠牲者としての運命を受け入れるようになった。

何度も、何度も、何度も、銀の髪をもつアルビノの少女は、「私」の前で無残な犠牲者となります。でも読み進めると、少女はまた生きて動いている。こうした原因と結果の消失が、この小説を決定的に異様なものたらしめています。他にも「私」が見るはずのない、「長官」と呼ばれる人物による少女のレイプシーンが克明に描かれたり。

これは、まあおそらく主人公の見た幻覚や妄想として説明づけられるものだとは思うんですけど……それにしては真に迫りすぎている。特にレイプシーンは眼前で見ているとしか思われない具体的な描写。語り手がそこで「私」から作者に移ったとも考えられますが、それにしてもそうした場面の挿入が唐突すぎる。場面転換や語り手の変換についての説明もほのめかしも本当に何もなく、次の一文でいきなりドカン!と場面が変わっていて、混乱する。序文でそうしたことの説明がなかったら、エエッ!?となってなかなか読み進めていられなかったと思います。

 

ところで序文で、「『氷』はスリップストリーム文学、それも、スリップストリームに分類される中で最も重要な作品のひとつ」とあり、スリップストリーム文学について具体的な作家や作品がいろいろあげられているのですが、そのどれも私は読んだことがなく……。もしかしたら、『氷』のこうした技法はスリップストリーム文学ではよくみられることなのかもしれません。そもそも私は「スリップストリーム文学」というものを『氷』の序文で初めて知ったのですが、それは序文の言葉を引用すると「本質的に定義不能な概念」で、「読者の内に”異質性”の感覚を誘発する」、「歪んだ鏡に映ったものを見てしまうような、見慣れた光景や事物をいつもとは違う角度から眺めたような感覚」を呼び起こすもの、だそうです。(「スリップストリーム」の言葉は川上弘美さんも知らなかったそうなので、そんなにメジャーな概念ではない?)

 

あとWikipediaスリップストリーム文学の項を見てみたら、アンナ・カヴァン以外で私が読んだことある作家としては村上春樹が挙げられていて、それで少し「あ~なるほど…」となりました。確かに村上春樹、特に『海辺のカフカ』あたりは『氷』の構造に少し近いものがあるかもしれない。近接する異世界に不意に入り込んでしまうような、普通の理屈では説明のつけがたい因果関係のねじれが起こってしまうような……?  でも村上春樹の場合は、語り手もしくは作者がその「ねじれ」や「異質さ」を自覚しているというのが『氷』との大きな違いだと思います。『氷』ではそれすらない。一番基盤となる文章構造、作者の意識からもう揺らいでいる感じ。作者のアンナ・カヴァンはヘロインを常用していて、死の前年に発表された最後の作品が『氷』だと聞いて、妙に納得しました。

 

 

で、その秩序の崩壊以外の点でも、この作品は本当にいろいろと癖が強くて好きなんですよ。

 

まず、「私」の少女への異様な執着。「私」の手をすり抜けるようにして離れていこうとする少女を、「私」は「絶対的な希求の思い」でもって追い続けます。「愛というより、説明のつかない常軌を逸した感情のような気がしてくる」というほどの渇望。それでいて、それだからこそ、「私」は少女に対して非常な加虐心、抱きしめて骨を折るような残虐性ももっていて、そのいびつさも好きなんですよね……。

 少女を見つけたのはまったくの偶然だった。ほど遠からぬ石の上に、少女は顔を下にして横たわっていた。口からひとすじの血が流れ出し、首は不自然な格好にねじ曲げられている。生きている人間がこんな角度で顔を曲げられるはずがない。首の骨が折れているのだ。(中略)前腕の骨が折れ、手首の尖った骨の先端が裂けた肉を破って突き出しているのを見て、私は欺かれたような感覚に捕らえられた。この腕を愛情を込めて折るのは私でなければならなかった。私だけがこのような傷を負わせる資格を持っているのだ。私は上体を屈め、少女の冷たい肌に触れた。

ほほえみが不意に傷ついた表情に変わり、たちまち怯えに、涙に移行してしまう。この誘惑の強さに私は動揺する。振り降ろされる死刑執行人の黒い腕、少女の手首をつかむ私の両手……この夢が現実に変わるかもしれないことが恐ろしい……少女の内にある何かが、少女を犠牲者にすることを要求する。

少女がみじめに惨たらしく虐げられる場面の描写が、本当に執拗で緻密。病的なほどに。損なわれていく少女をこんな風にうっとりと眺める一方で、「私」は「愛情豊かで無垢な姿」のインドリについて考えながら、「人間の破壊的な性向や暴力や残虐さがなくなれば、あるいは、こうした生き方がこの地上にも実現することがあるかもしれない」などと言ったりもしますからね……はぁ……たまりませんね……

 

 

続いて、「長官」と呼ばれる男の存在。おそらく結構な権力、影響力をもつ人物です(それも詳細は不明)。「私」が行く先々に登場し、ときに「私」と友好的な関係になったかと思えば、一転して非常に敵対的な存在にもなったりして、この人物もなかなか謎に包まれています。

風貌は、黄色い髪、青い眼、整った顔立ち、長身、たくましい運動選手のような身体、優美な細い腰、上等な服……といったように、かなりの美貌、支配者として他者を圧倒するような風格の持ち主です。

そしてなぜか長官も「私」同様、少女に異様なほど執着しており、たびたび「私」の前から少女を連れ去っていきます。ときに軟禁して強姦し(ただしこれは「私」の妄想かもしれません)、ときに少女を無理やり車に乗せて遠くの地へ走り去ります。

そこだけ見れば、「私」と長官は少女を奪い合う形で対立する関係となるようにも思えるんですが、しかし簡単にそうとも言えないんですね。「私」は長官であり、長官は「私」なんですよ。

 男が少女を自分の所有物と見なしているのは明らかだ。私は少女が私に所属していると考えている。我々二人の間で少女はその存在を消し去られ、無へと変じてしまう。少女の唯一の役割とは、あるいは我々二人を結びつけることだったのかもしれない。男の顔には、常に私をはねつける、あの極度に傲慢な表情が浮かんでいる。それにもかかわらず、私は唐突に、男に対して説明のしようのない親近感を覚える。まるで血がつながっているような、そんな近しさが混乱を生み、そして、私はこんな疑問を抱き始める。本当に我々は二人の人間なのだろうか……。

長官が現われ、うしろ手にドアを閉めた。少女に会いたいのだが、と私は言った。長官は「それはできない」と言ってドアに鍵をかけ、キーをポケットに入れると、ピストルをテーブルの上に投げ出した。「彼女は死んだ」胸にぐいとナイフが突き立った。この世でのそのほかの死はすべて外部の出来事だが、この死だけは、銃剣のように、私自身の死のように、私の内奥を深く刺し貫いた。「誰が殺した?」それができるのはただ一人、私しかいないはずなのに。「私だ」と長官が言った時、私の手が動き、ピストルに触れた。(略)

 説明しがたい形で、私たちの視線が交錯した。私は私自身の鏡像を見ているような気がした。突然、私は極度の混乱に飲み込まれた。どちらがどちらかわからなくなった。一個の存在の片われ同士であったかのように、私たちは何とも不可思議な共生状態に溶け込んでいった。(略)私は私ではなく長官なのだという感覚が絶え間なく襲いかかってくる。一瞬、実際に長官の服をまとっている感覚にさえなった。

私と長官はきっと、ひとつの存在なんですよね。少女を奪い合うというよりは、 むしろ二人で結託して少女を追いつめにかかっているような。「私たちは少女を共有することもできたのだ」とまで「私」は言います。

「私」と長官を一人の人間であるとするこうした演出、これもまた……よくわからないんですよね……何かの比喩なのか、象徴なのか……。少女が「犠牲者」であることをより強く印象付けようとしているのか。自分と同一の存在が眼前に現れること、こうした混乱した要素も「スリップストリーム」とされるゆえんなのかもしれません。

 

考察は置いておいて、とりあえず私の感想としては、長官が登場することが『氷』にとってかなり重要な、不可欠なスパイスになっていると感じます。多分長官を出さなくても、氷に覆われる世界で主人公が少女を追い求める……それだけでストーリーはまあ成立したと思うんですよ。そこにあえて長官を加えることで、より物語が謎めいていく。それは心地よい謎の深まりです。傲岸不遜で、青い眼をした、彫像のようなこの男こそが世界を凍らせているのではないかと思えてくる。

 

 

最後に、氷や雪の描写について。これもまた微に入り細に入り……もう、寒さが読んでいるこちらまでビンビンに伝わってくる。しもやけとかのレベルではなく、致命的な凍傷を負ってしまうまでの冷気。

 少女は深い雪に足を取られてよろめいてばかりいた。半ば抱きかかえるようにして進まざるをえなかったが、私自身、ほとんど息ができない状態だった。このうえない寒さに、息はそのつど断ち切られ、いちいち足を止めてからでないと呼吸できなかった。吐く息が襟元で凍って氷柱(つらら)になり、粘膜が凍って鼻の中が氷で詰まった。

寒気が皮膚を灼き、息を凍らせた。雪が目に入らぬよう、私は重いヘルメットをかぶった。浜辺が見えてくるころには、つばに厚い氷の輪ができてヘルメットはいっそう重たくなった。はためく純白の雪のカーテンを通して、前方にぼんやりと家の姿が現れた。だが、その先に広がるのが波浪なのか、それとも起伏のある広大な氷原なのか、もはや見定めることはできなかった。(略)雪はさらに激しく、いつ果てるともなく降りしきり、ひと時たりとも鎮まる気配も見せずに、不毛の純白の布で死にゆく世界の面(おもて)を覆っていく。

さ……寒い……。作者は実際にこうした極寒の地で過ごした経験があるのでしょうか。暴力的なまでに降りしきる雪、骨まで凍らせるような冷気の描写が本当に真に迫っている。夏大好き!寒いのは無理!って人は読んでるとウオ……(泣)となるかもしれません。

私は雪国の生まれかつ雪に対して結構愛着をもっているのですが、それでも『氷』の中の雪は怖い……。まったく人間に優しい雪ではないですね。容赦なく命を奪いにきている。しかしそこがまた好き……。世界を真っ白に埋めて、沈黙をもたらし、すべてを終わりへと向かわせる。慈悲がなくて、清潔で、好きです。

 

 

アンナ・カヴァンの『氷』、言及したいポイントが多すぎますね。そういうの全部ひっくるめて、私はこの本かなり好きです。終末感のある不穏な世界や、いろんな情報が伏せられたまま進行していくストーリー、氷のきらめきや肌を切るような冷気、異常な執着からくる残虐性などが好きな方はぜひ!

 

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)