まくら

読んだ本や好きな文章の感想

メチャクチャ好きな短編 芥川龍之介「蜜柑」

芥川の「蜜柑」……めちゃくちゃ好きなんですよね~

話の展開が鮮やかすぎる、これぞ「短編」のお手本って感じで…「起承転結」がすごくちゃんとしていると思います。

芥川の作品の中で好きなやつ三つ挙げろと言われたら、「地獄変」と「蜜柑」は入るかな…って感じです。

 

ここで読めます。→芥川龍之介 蜜柑

 

まず最初の方のどんよりした描写が好きで……

 

うす暗いプラツトフオオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。私の頭の中には云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。

この無彩色の、陰鬱な風景が、あとの場面の色鮮やかさを引き立てるものなんですよね。

 

この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。

ウーンこの倦怠感。好きです。

 

 

トンネルを抜けた先でもどんよりとした風景が続きます。

 

踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が懶(ものう)げに暮色を揺つてゐた。やつと隧道(トンネル)を出たと思ふ――その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反そらせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。

くどくどしいくらい陰鬱な描写が続きますね。

しかし「曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた」って描写、すごくないですか?

この曇天は、たぶん一面真っ白ののっぺりとした空でなくて、濃淡のある、水分を含んだ厚い雲が低く垂れこめてるような空だと思うんですよ。子どもの背を押しすくめるくらいですから。日本海側の冬の曇天のイメージですね……。時間帯は「日暮」とありますが、赤い夕焼けは厚い雲を通り抜けることはなくて、ただ周辺全体がゆっくりと暗くなっていくような日暮でしょうね。

「町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物」も好き……。見ているだけで気が滅入りそう。このときの「私」のうんざりとした気持ちが伝わります。

 

 

で、ここから急にガラッと景色が変わるわけです。

 

するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。

ここの描写め~~~~っちゃくちゃに良い……

ここまで灰色一色だった景色の中に、突然「心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑」がばらばらと現れるわけです。素敵すぎる……こんなの見たら泣いてしまうかもしれない……

 

ところで、ここで私がちょっと気になったのが、娘が手を「勢よく左右に振つた」という記述です。最初読んだときは全然気にしていなかったのですが、読み返してみると少し引っ掛かりがあって。

娘は一つずつ蜜柑を握って投げたわけじゃないんですね。その投げ方なら多分「前後に振った」と書くと思うので。(「私」に対して横顔を向けている娘が腕を前後に振った様子を「左右」と表現したと言えないこともないかもしれませんが、そうすると「五つ六つ」の蜜柑がばらばらと(一度に)落ちてきたという描写と合わない)

ただ、腕を「左右」に振って、「五つ六つ」もの蜜柑を一度に、「踏切りの柵の向う」にいる弟にまで届けさせるような投げ方がちょっと想像つかないんですよね。汽車の窓のすぐ近くにいたとかならわかりますが……

だからここはリアリティから離れた表現なのかなと思いました。

 

でも確かにここは「左右」じゃないとダメなんですよね~。「窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢いよく左右に振つた」という様子は、弟たちに対する別れの挨拶にも見える。ここで蜜柑を鷲掴みにしてオーバースローで投げてるような姿じゃ格好がつかない。(そもそも一個ずつ投げていては時間がかかってしまうということもありますが)

作家のこういう脚色を見るとやっぱスゲ~~~って唸らされますね……

 

あと、娘の行為を見る前は、弟たちについて

いたいけな喉を高く反そらせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。

って書いていたのに、蜜柑を見た後では

小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たち

に変わっているのが良い……。娘の行為が、「私」のものの見方を変えてしまうんですよ。「私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた」。

 

 

そしてもう一つ私の好きなのが、一番最後の

 私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。

ここの「僅に」。少しの間だけしか「疲労と倦怠」や「下等な、退屈な人生」を忘れることができていない。ここがなんか……イイ。

ここでもし「感動的な場面を見て気分爽快!😀」みたいな終わり方だったら、こんなにこの話を好きになっていなかったと思います。

 

結局人生は下等で退屈なんです。それを前提として、クソみたいな人生の中にそれでもこういう鮮やかな一瞬があるからやっていけるんですよね。その一瞬が「切ない程はつきりと」心に焼き付けられて、それを何度も反芻することで生きていける、ってことがあると思います。

私はこういう「クソみたいな人生を前提とした救い」に弱いので「蜜柑」大好きです。芥川龍之介は最高!