まくら

読んだ本や好きな文章の感想

(歌集) 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』/工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』/鈴木美紀子『風のアンダースタディ』

好きな歌や最近読んだ歌集について。

 

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木下龍也『きみを嫌いなやつはクズだよ』

現代短歌の歌集で初めて買った本かな? タイトルと装丁が好き。

図書館で見かけて読んで、気に入ったので買いました。

 

あれ、あれと呼べない距離に近づいて、これ、ぼろぼろのこれは、こどもだ

 いや~この歌好き…ちょっとびっくりしたね初めて読んだとき……
「こどもだ」まで読んだときの絶望感。「ああ、そういうことか」って。

こういう、最後まで読んだときに「そういうこと!?」って意味がわかる歌が好きです。

「あれ」と呼んでいた、遠くにあってよく見えないぼろぼろの塊みたいなものが、近づいてみると、子どもだった。

最初の「これ」の時点ではまだわかってないんですね、子どもだと。それぐらい「ぼろぼろ」だったわけです。それが、二回目の「これ」でようやくわかる。「ぼろぼろのこれは、こどもだ」……ヒ~……

「こども」って平仮名なのもよい。目に映るものに呆然として、独り言のように「こどもだ」とぽつりとこぼしてしまった感じですかね。そのたどたどしさから、より凄惨な感じが出る。

「あれ」「これ」って指示語が人間には使い難いことも改めて思い知らされますね。その無機質な言葉が、歌の最後に「ぼろぼろのこども」に結びついてぞっとする。『"It"と呼ばれた子』を思い出しました。

 

 

だけだものあなたにはぼくだけだものだけだものぼくだけけだものだ

第一印象は「言葉遊びの歌」だったんですが、これがなかなかどうして……咀嚼していくと、印象が単なる言葉遊びに収まらなくなる。

この歌のミソは、「あなたにはぼくだけ」であって、「ぼくにはあなただけ」ではないところだと思うんですよ。

「あなたにはぼくだけ」って、押しつけがましいですよね。本当に「あなたにはぼくだけ」なのか、非常に疑わしい。なぜなら「けだもの」なのは「ぼくだけ」だから。

「ぼくだけけだもの」、つまり「ぼく」だけが一方的に「あなた」を好いているんじゃないでしょうか。「あなたにはぼくだけだもの」と駄々っ子みたいに言うけれど、それは「ぼく」の願望に過ぎなくって、実際には「ぼく」だけが「けだもの」みたいに「あなた」を欲している。この押しつけがましい、未成熟な感じが、平仮名だけで書かれた幼い字面ともうまく結びつく。いや~よくできてる……

 

 もしこれが「ぼくにはあなただけ」だったら、「けだもの」みたいな「ぼく」が一方的に「あなた」を好いている。それで終わる。〈ねじれ〉みたいなもののない、言葉の響きは面白いがするりと読み流してしまうような歌になっていたと思います。

 

 

立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ

 これ素敵……。めちゃくちゃになってうずくまってるときにこんなこと言われたら泣いてしまう。わかりやすい句ですが、メッセージがシンプルに好き。

 

 

からっぽの病室 君はここにいた まぶしいくらいここにいたのに

 これは『君を嫌いな奴はクズだよ』ではなく、『つむじ風、ここにあります』より。この歌は連作になっている中の一首かと思うんですが、その連作の中でこれが一番好き……。意味はわかりやすく、かつ情景がすごくすっと浮かんできました。

私のイメージでは、「君」がいたころは、ベッドに座る「君」が病室の大きな窓から差し込む光に照らされて、頬の産毛が輝くのが見えた。でももう「君」はいなくて、代わりに「君」が座っていたベッドのシーツだけが光を浴びている。目が痛いくらいに。その白い反射を見ながら、ひとりベッドの前で立ち尽くしてしまう。「まぶしいくらいここにいたのに」。

 

 

 

工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』

 

これはですね~書名にもなっているこの歌がとにかく好き。

膝蹴りを暗い野原で受けている世界で一番すばらしい俺

好きですね~この歌……「膝蹴り」「暗い野原」「世界で一番すばらしい俺」これらの言葉の結びつきが秀逸。

特に「暗い野原」がよい。「暗い」「野原」って語の組み合わせ、初めて聞いたかもしれない。「暗い野原」って聞いて私の中に浮かぶイメージは、草の部分は青々としているんですが、その上にかぶさる空が暗い濃紺で、下は昼で上は夜みたいなバグってるような景色。日食の日みたいな(?)。そのバグ感が「膝蹴り」と「世界で一番すばらしい俺」の組み合わせの奇妙さとうまく調和する。奇妙さの調和。

 

あと、もし「野原」じゃなくて「平野」とかだったらこの歌はそんなに好きじゃなかったかもしれない。「平野」だったら広がりのある土地ってイメージだけど、「野原」だと「広がり」よりも低い草が茂っている「地面」のビジョンがまず出る(私は)。

「膝蹴り」を受けていたらきっと視線は地面に向いている。腹の痛みを感じながら、足元に咲いてるたんぽぽなんかを見ている。上の句まではそうした「自分中心」のアップの画面なんですが、下の句になると「世界で一番」と、急にめちゃくちゃロングショットになる。これが好きですね~。もし「平野」だったら最初から「広さ」があるので、こういう「視点の広がり」は感じられず、そこまでインパクトを受けなかったと思う。

種田山頭火『分け入っても分け入っても青い山』も、私はアップ→ロングショットという視点の広がりが感じられるところが好きですが、それと同じような感覚を受けました。

 

 

なんとなくいちごアイスを買って食う しあわせですか おくびょうですよ

 これもなんか好きでした。なぜと言われると説明しづらいですが……。「いちごアイス」と「おくびょう」が結びつくこと、読んだときなぜか「わかる!」と思ったんですがなぜそこが結びつくのかは自分でもよくわからない……。

「いちごアイス」、私の中ではハーゲンダッツなんですが。いちご味のハーゲンダッツがわりと好きで、クッキー&クリームと迷いながらたまに自分へのご褒美的に買うんですが、ただその「ご褒美」によって「しあわせ」になっているのかといったらそこまでは言えない。いちご味のハーゲンダッツを買うとき、これで少しは「しあわせ」になるのだと自分をだましているような感覚がある……ような気がする……。「しあわせ」になるためにはもっと別のものを得なければいけない気がするけど、それを手近なアイスでごまかしている。のかもしれない。

 

 

 

鈴木美紀子『風のアンダースタディ

 

 

この人の歌集は初めて読んだんですが、この人の歌好きです。

 

この辺は海だったんだというように思い出してねわたしのことを

これはかなりド頭(二首目)にある歌なんですが、これ読んで「好き!」となりました。

私は別れた恋人に向けての言葉のように感じました。別れた後、二人の思い出の場所なんかに行くたび、「昔ここに一緒に来たんだ」と思い出してほしい。「ここに来たときは幸せだったんだ」というように。「この辺は海だったんだ」と、水が満ちていた痕跡だけがある乾いた地面をなでるみたいに。

最初読んだときはすぐには意味がわからなくて、ちょっと立ち止まって考えたところ、こういうことなのかなという解釈にたどり着きました。こういう、比喩が使われていて意味がすぐには把握しづらく、ちょっと考えさせるような歌好きです。この歌集ではそういう歌がちらほらあってよかったです。

 

 

重心のとれないままに倒れこむ二人の間の野菜スティック

これ「二人」まで読んだ時点で、抱き合った恋人がよろめいてベッドか何かに倒れこむところを想像したんですよ。でも「野菜スティック」。「野菜スティック」!?

「倒れ」たのは「野菜スティック」なんですよね多分?(「倒れこむ二人」の間に「野菜スティック」があるのはシュールすぎ) となると、景色ががらりと変わってくる。

「二人」は抱き合ってなんかいなくて、むしろテーブルをはさんで向かい合ってるみたいに距離があって、黙って向かい合う二人の間に置いてあった野菜スティックがぱたりと倒れる。(コンビニで売ってるようなやつを想像すればよいのか?「重心のとれない」というのがよくわかりませんが……) そこにあるのは、上の句だけを読んだときに受けた甘く睦まじい雰囲気ではなく、よそよそしく、気まずい雰囲気。

もしそういう読みでよいのなら、この歌スゲ~なって……。上の句読んだときと下の句読んだときとで、喚起される風景が全然違うんですよ。上の句の甘美さが残っていたから、そのあとのよそよそしさが一層際立つ。すごいし、面白い。

 

とりあえず気道を確保するために横向きで抱いてください 花束

狂おしく夢と魔法の王国で手を振るだろう軍事パレード

これらもそういう系統ですかね。

上の歌は、膝の上にあおむけに人が横たわっているところを想像したんですが、「花束」。花束だったんですよね~。そういえば花束って横向きに抱くことが多いなって気づかされて。そしてそのさまを「気道の確保」ということにつなげるというのが、独特の着眼点だなと思いました。確かに横向きで抱いている方が、優しい感じがするかも。

下の歌は、ディズニーランドのエレクトリカルパレードか何かと思ったら「軍事パレード」。まじか~って。ミッキーの乗ってるきらびやかな乗り物が急に戦車になりましたよ。

 

 

わたしだけカーテンコールに呼ばれないやけにリアルなお芝居でした

これ、最初読んだときは夢の話かと思ったんですが、人生のことかもしれないですね。「リアルなお芝居」みたいな人生を生きてる中で、「わたしだけカーテンコールに呼ばれない」こと、ままあるかもしれない。

あと書名の「アンダースタディ」(主要な役を演じる俳優の不慮の事故にそなえて、その役を稽古して公演期間中待機している控えの俳優)もそうなんですが、この歌集は演劇にまつわる用語が多く出てきますね。作者は演劇をやっていた方なのかも。

 

 

「何処まで」と訊かれて途方にくれるためそのためだけに停めるタクシー

逆転してますね~。よいですね、こういうの……。行き先のないことを思い知るために、タクシーに乗る。でもこういう、一見すればわけのわからないこと、してしまうことがある。

 

幾重にも巻き付けたのにまだ余る包帯だから傷がたりない

これも逆転していますね。包帯を巻くために傷を作る。やるせない。どこにも行けない感じがする。

これぐらい包帯がいるだろうと思っていたのに、巻いてみればそんなこともない。本当はこんなもんじゃないのに、人から見れば大したことはない。私はこれだけ傷ついてるんだよって見せつけるために自分でもっと傷を増やそうとしてしまう。やるせないですね。書き起こしてみると構ってちゃんな感じもしますが、でもこういうこと往々にしてあるかもしれない。

 

 

笑いながら「これ、ほんもの?」と指で押すサンプルだって信じてたから

この「サンプル」は食品サンプルか何かでしょうが、きっと別のことの比喩なんでしょうね。

偽物で、壊れないってわかってたから、たたいてみる。

嘘だってわかってたから、「本当に?」と笑いながら言ってみる。 

なんでしょうね……もうちょっとでつかめそうでつかめない……数か月後にいきなり〝理解(わか)る〟ときが来そうな歌。

 

 

間違って降りてしまった駅だから改札できみが待ってる気がする

これは歌集の一番頭にある歌です。これもね~よいですね……。

この歌のミソは、「だから」だと思います。ここでも〈ねじれ〉がある。

これがもし「間違って降りてしまった駅なのに改札できみが待ってる気がする」だったら凡庸な歌になると思います。「そういうこともあるかもね~」で終わりそう。

 

間違った駅〈だから〉「きみ」がいる気がする、というのは、つまり正しい駅では「きみ」に会えないということ。少なくともこの歌の主体はそう思っている。切ない。普通に生活を送って、いつもの駅で乗り降りするだけでは「きみ」までたどり着けなくって、その日常から逸脱した世界でないと「きみ」には会えない。「きみ」は別れた恋人とかでしょうか。かつて駅の改札でよく待ち合わせて、そしてもう待ち合わせることのない人。

 

 

加藤治郎さんの解説では、『風のアンダースタディ』について次のように書かれています。

 近代短歌以降、家人は連作志向が強かった。(中略)この歌集は一首志向なのである。それは一つの価値だ。連作も一首も等価でありような短歌観が育まれていくか。注視したい。畢竟、読み継がれるのは一首だという思いがときおり過るのである。

私は連作の短歌があまり好きでないので(それはそれで深みを出せるのだと思いますが)、一首でバチーン!と世界を作っている歌がたくさん出てきたら嬉しいですね……。「畢竟、読み継がれるのは一首だ」というのは本当にそう思います。その歌一首だけで完成しているもの、文脈に関係なく力を持つもの、やっぱり折に触れて思い出すのはそういう歌です。短歌の良さってやはり短いところだと私は思っているので。