小佐野彈の歌集を初めて読みました
真夜中に読んでグチャグチャに心が打ちのめされた
オープンリーゲイの方だそうですが、同性愛を扱った歌が特に好きですね………
家々を追はれ抱きあふ赤鬼と青鬼だつたわれらふたりは
理屈より先に感情が来た 何だこの「痛み」は?
これは青鬼が赤鬼のために演技をしなかった世界線なのか、家を出ていった青鬼を赤鬼が追いかけた世界線なのか、どっちにしろこの逃避行中のような鬼たちが人里離れたところで抱き合ってるビジョン、ハッピーエンドにはならないだろうという強い予感がして苦しい。
私は赤鬼青鬼と見た瞬間「こりゃ『泣いた赤鬼』だ……!!!」と即断してその話に重ね合わせて読んだんですけど、全くの無関係かもしれない。あの二人は「家々を追はれ」てはないだろうし、完全なる誤読かもしれない。でも私はもともとあの赤鬼青鬼の関係性が好きだったので、あの二人を思い浮かべながらこの歌を読んで感動した。感動したので残す。
これは推しカプ概念短歌と呼べそうだと一瞬思いましたが呼べませんでした、推しは鑑賞物であり外在的なものですが、この歌はそこに詠まれている感情が自分の中に内在化されてしまう。「推し」にするにはこの二人の痛みがあんまり自分に近すぎる、作者の痛みが直接私の腹の中に注がれる感じがする。
セックスに似てゐるけれどセックスぢやないさ僕らのこんな行為は (無垢な日本で)
平易明快な歌ですが私はこれすごく好きです。
セックスじゃないんですよね。生殖行為になりえない性行為って一体何なのか? どこに行き着くものなのか? 性行為と生殖行為は似てるけど別物で、でもその別物をひとくくりにしたような曖昧な「セックス」って言葉に(そしてその言葉が広く使われている社会に)自分たちが疎外されているような感覚を抱く。
どこまでいっても自分にはセックスの真似事しかできないのだという意識は自分の不完全性についての意識にもつながるかもしれない。
結句の「こんな行為は」も苦しい。「あんな」じゃなくて「こんな」だから、ちょうど性行為の最中にその疎外感は掻き立てられていて、でもそんな感情は「私達はセックスをしている」と迷いなく言える人々は抱いていないだろうはずのもので。そのやりきれなさがこの少し投げやりな諦めたような口調で歌われていることも苦しい。
家族つてかういふものか ふるさとの桃や葡萄はみんなまあるい (無垢な日本で)
「家族」の語があるのに「家族の不在」が感じられて好きです。
周囲に広がるふるさとのまあるい桃や葡萄、その優しさ柔らかさは多分実際の家族とは真逆のもので、ああ家族って本来はこういうもののはずなんだと果樹園の中で一人嘆息をもらす。たわわに実る果物の中で孤独を感じるという対比的な構造も鮮やかで(切なくて)すき……
僕たちは流転してゆくだけだから凭れあひつつ次へ行かうか (メタリック)
へその緒の話になれば黙り込むしかないわれら夜に集へり (鳥の消息)
来年は行けたらいいねアメリカに さういふことでつながつてゐた (鳥の消息)
これらは歌集の中でとびとびに出てくる歌なんですけど、同じような感情でダメージを受けた歌で、「来年は~」の歌まで読んだときになんか急に限界になって泣いてしまった。
「僕たちは~」の「流転」は輪廻転生の意に取ったんですが、なんでしょうかね、この、歌から漂ってくるさっぱりした諦めとか明るい絶望みたいなもの。今生で比翼の鳥連理の枝になりたかったけど、無理で、そこで出てくる「僕たちは流転してゆくだけだから」。
「固く抱き合ひ」とかじゃなく「凭れあひつつ」なのもなんか……イイ……。「次へ行かうか」が転生の意だとしたら、死のことを言っているわけで、この言い方の軽さと中身の重さのミスマッチ感が良い。
「へその緒~」と「来年は~」は同性愛者であることの痛みですね、見えないんですよ、「未来」が……。結婚、出産、老後、そういう話題になれば黙り込むしかない。十年後にはマイホームがほしいねとかじゃなく、「来年は行けたらいいねアメリカに」。この約束の近さ……。そういう……そういうさあ~~~~~!!!!!!!こっち向いてちょっと歩いたら壁、別の方向向いてちょっと歩いたらまた壁みたいな、なんていうかな、壁の近さよ。見た目ほど堅牢な壁じゃないのかもしれないし、そんなに高いものじゃないかもしれないけど、なんか多いな……壁が……って感じ
同性愛を扱った歌ばかり取り上げましたが、歌集全体について言うと、聖書とかについて知識があればもっと楽しめたかな……という印象でした。教養がないため知らない言葉がいろいろと出てきた。読んでたときはウンウン!よくわからんがまあいっか!!って感じで流しちゃったのがたくさんあるので後で調べます。