まくら

読んだ本や好きな文章の感想

それを、ほんとうにわたしは見たのだったかしら――川上弘美『真鶴』

川上弘美の『真鶴』、ほんとうに好きです。

年に一回、冬の終わり、春のはじめ頃になると、読みたくなります。五回ほどは読んだと思いますが、何回読んでもよい。ストーリーも好きですが、それ以上に言葉の運び方選び方、作者のものの見方が好きなので、何度でも読めます。

川上弘美を初めて読んだのは多分高校生の頃、問題集か何かに載ってた『神様』だったと思うのですが、奇天烈な話を書く人だなぁ……と思いました。ふわふわとした、ファンタジーな感じがしました。それから他にもいくつか読んだのですが、なんだか地に足ついてない感じがして、そこまでピンと来ておらず……

でもこの『真鶴』はめちゃめちゃに好きです。これで川上弘美を好きになりました。比較的、地に足ついてますね。

 

※ここから先、作中で私が好きだと思ったところをいろいろ引用していくのですが、物語の核心に触れるようなところにも言及しているので、ネタバレはちょっと……という方はお気をつけください。

 

主人公は、十二年前に夫が失踪した女性。母と娘と女三人で暮らしています。

書き出しはこう。

 歩いていると、ついてくるものがあった。

 まだ遠いので、女なのか、男なのか、わからない。どちらでもいい、かまわず歩き続けた。

『真鶴』は主人公の「京(けい)」と失踪した夫との話でもあり、娘との話でもあり、肉体関係を持つ男「青磁」との話でもあり、母との話でもあり、この「ついてくるもの」との話でもあります。

 

まずこの作品の特徴として、非常に和語が多いです。それに加えて言葉の用法が独特。全体的に柔らかで、とても女性的な印象を与える文体になっています。これが好きですね〜。

最初から読み進めて「川上弘美の割にけっこう普通だな…?」と思っていたところへ、このかなり独特な言葉の使い方が出てきて「ウワ!!やっぱり川上弘美だった!!」となりました。

 

 急に空が広くなった。海が遥か下にある。いくつもの波頭が白く砕けている。のぞきこむと、ひとりふたり、狭くくねった坂道をつたって崖下の波打ち際へおりてゆく。(略)

 しばらく目をこらしているうちに、おりてゆく人ふたりが底についた。両手をまうえにさしのばし、のびをしているのだろうか、指ほどの大きさにしかみえないのだから、気持ちがよさそうなのかそうでないのか、わからないはずなのに、爽快な絵である。風が雲を飛ばして、天頂には青い色ばかりがある。真鶴、と口にしてみてしばらく、崖下を見やり、ほんの少し欲情した。

 

よ……「欲情」???????

 

 かたちあるものに欲情することは、少ない。少なくなった。

 よろこびにつながることもあるし、えぐられるような寂しさにゆきつくことも、そしてどんなところにもゆかず、ただそこにぽかりと浮かぶばかりのこともある。どちらにしてもそれを欲情と名づけただけのことである。

 

ここでの「欲情」の使われ方をいまだにしっかり理解できてはいないのですが、何度が読むうちに、でもなんとなくわかる、の気持ちになってきました。私の中では、多分「せつなさ」に近いものなのかなあと。胸がきゅっと少し鋭く、局所的に絞られるような。キュンとする、ってやつですかね……。そう考えると、私も例えば青空に浮かぶ雲の形を見たり夕立のあとのにおいをかいだりしたときに、「欲情」することがあるかもしれない、と思うようになりました。符号化していた言葉に新しい意味を加えてくれます、川上弘美

 

 

親子関係と恋人関係の対比も好きです。

娘である百(もも)が生まれたばかりの頃に、乳をやっていた場面。

 やはり、いとおしい、ではなかった。熱いくちびるが一瞬うとましかった。うとましいと大事とは、反するものではないことを知った。男のからだを、そのようにうとましいと思ったことはなかった。男のからだが、夫のからだが、何より必要だと思っていた。百の体は、必要なのではなく、大事なのだった。

 男を、夫を、欲しなかった。百が、じゅうぶんに熱かったから。乳をやっている間は、からだが夫を欲しなかった。夫は大事ではなかった。大事でなくとも、頭は夫を恋うた。夜になって夫がくると、からだの表面だけでほがらかにむかえた。頭とからだが別なのかと思っていたが、ほんとうは、からだだけなのだった。頭はからだの部分なのだった。

作中通して、娘を大事に思う気持ち、夫を恋う気持ちが、それぞれはっきり別のものとして書かれていると思います。夫への愛や娘への愛が描かれた本って色々あると思うんですけど、その愛の違いについてこうも明らかに書かれているのを読んだのはおそらく『真鶴』が初めてでした。娘が「うとましく」、それでいて「大事」。これ初めて読んだときはちょっと驚いたんですが、でもじきに腑に落ちた気がします。子は「必要」なのではない。百への思いを「いとおしい、とは、やはりちがう」とも言っていて、子はたぶん頭で求めるものでなく、ただそこにあるべきもの。そこになくてはならないもの。自分と切り離せずつながっていて、それが当たり前で、ときにそれが疎ましい。血縁、というと広すぎですが、母と子を結ぶ強く太い糸(絆ということではなく、ここに良い意味も悪い意味もない)みたいなものでしょうか。

一方、恋人は「大事ではなく」「必要なもの」。必要と大事、あんまり違いを意識したことなかったんですが、こう見てみると結構違いますね。頭だけで求めるもの、からだで結びつくもの。そして子は男よりも近くにある。

 

 こんなふうに傷みをくわえることのできるのは、百だけだ。容赦がない。やわらかなところへ、かまわずくわえてくる。跡になって膿むとも知らず。百には、やわらかな部分しか、さらせないのだ。かたくおおって守ればいいものを。むかし、百の自分のからだが所有していたことをおぼえていて、へだてをつくって拒むことができない。

近いから、子からは傷をつけられてしまう。子は親を傷つけてしまう。こういうの読むとドキッとしてしまいますね。知らず知らず、私もたびたび親を膿ませていたかもしれない。

 

 

この本はほんとに……何気なく、そこら中で、はっとするようなことをたくさん書いている。考えたことも感じたこともなかったけれど、書き表されると、わかる。そういうものが確かにあると、読んで知る。もとから自分の中にあったはずだけど気づいていなかったものを気づかせてくれる本、知らせてくれる本が概して好きです。

 母は、だから礼を好いていなかったのだろう。近いものを遠ざけられた、はこびかたが上手で、かけらや切れ端がいくつも残るようではなく、ぴったりとあった大きさの箱に、詰め込みもせず隙間が空くでもなく、易々とわたしをしまいこみ、はこんでいってしまった。近かったのに、礼という男が遠ざけた、娘。

ここ好きなんですよね〜〜〜。礼というのは失踪した夫のことです。娘を、夫となる男によって遠ざけられたことを、「箱にしまわれて運ばれた」と表現してるのすごく好きです。めちゃくちゃ斬新な表現なのに、わかる。しっくりぴったり納得できる。奪い取られる、とか、邪魔される、とかとは違うんですよ。箱に入れて運ばれるとしか言えない。こういう比喩が本当に上手くて唸ってしまいます。

 

 青磁にだかれる、のではなく、わたしが青磁をだく、こともある。どちらなのか、かたちで決まるのではない、こころもちや、部屋の空気のぐあいや、はだの冷たさで決まる。

ここめっちゃ好きです……。決まって女が抱かれる側になるわけではないんですよ。入れるとか入れられるとかじゃない。「こころもちや、部屋の空気のぐあいや、はだの冷たさ」でどちらが抱くのか決まる。これめちゃくちゃ素敵な考えじゃないですか?  どっちが抱いたって抱かれたっていいんですよ。抱きしめあってるときにはどっちが抱いてるとかないじゃないですか。それでいいんですよ。(急に何?)

 

 

あと、物語の核心、礼が失踪前に女と会っていたことを京が思い出す場面。

それまでどことなくぼんやりとした、半ば眠り半ば覚醒しているような雰囲気で、京から礼への思いも描かれてはいるけれど強い輪郭をもっていないようだったのが、急に目が覚めたようにバチンと変わって物語に色彩や陰影がついたようになる場面。ここがとても好きです。脅かされました。

それまで礼が失踪した理由について触れられていなかったのが、京自身も知らないためかとてっきり思っていたところへ、失踪直前のことを突然京が思い出し語り始める。その描写があまりに明瞭で……京は礼のことをこんなにも恋しく思っていたのだと改めて思い知らされ、そして京の目を通して女と向かい合う礼を見て、愕然とする。

文体や言葉の選びだけでない、この引き落とすようなストーリー展開もめちゃくちゃ好きです、『真鶴』。

 頭を枕にしずませ、思いだそうとする。忘れていたことを。忘れようとしていたことを。

 京、と、わたしの名をよぶ礼の声。よばれるたびに、からだのどこかが傷んだ。にぶい刃物のように、礼の声はわたしを瑕した。どうしようもなく、礼がすきだった。礼に、囚われていた。結婚して、礼のこどもを生んで、生活のようなものの中に、その執念き心をうすめいることができるかと思っていた。けれど、できなかった。

 女の横顔はしろかった。用件で会っているだけかもしれなかった。21:00の約束。紙片に書かれていた時刻。深緑色のジャケットを着て、礼は女に会っていた。(後略)

21:00と書かれた紙片も、深緑色のジャケットも、物語の前半で出てきているんですが、そのときは女のことについては一切触れられませんでした。京が忘れていたんですね。そしてまた「要件で会っているだけ」なわけもないのです。

京は、夕方から礼の会社が見える店の中に座り、8時ごろに会社を出た礼の後をつけ、切符(近くの駅全部のものを用意してあった)で改札を抜け、礼の乗った隣の車両に乗り、礼のあとをつけました。(ここで初めて、冒頭にあった「ついてくるもの」がついてきました)

ここの描写が本当にリアルで、生々しい現実感が急に立ち現れてきます。それまでまどろみの中で生活していたような京が、銀の手すりを握りしめ、顔を青ざめさせ、地下鉄の振動に揺れている。この転換のさせ方が本当に良い……。それまで語られていなかった過去がどんどん明らかになっていき、わくわくもするんですが、続きに待っているのは明らかに破滅なので、知るのが怖くもある。

ホテルのラウンジで、礼は女に会っていました。そこで飲んで、そのあと。

 わすれて、いないのかしら。礼と、女とが、並んでホテルのエレベーターに乗りこんだ、二人きりで踏み入ったところに一緒についてゆくこともかなわず、ただ移動した階の表示ばかりを見つめていた、飲食の店のある上層の階でもなく、結婚式場のかたまっている下層の階でもなく、客室だけの中層の階が表示され、しばらく灯りつづけたのを、ほんとうにわたしは見たのだったかしら。

「ほんとうに、みたのかもしれないわよ」女が、のぞきこみながら、またささやく。

 みてない。そんな光景、みていない。ただわたしがつくりあげたもの。(後略)

ハ〜〜〜〜ここ……好きですね….苦しい。きっと見てるんですが、見ていなかったことにしたい。忘れていたい。礼が失踪したわけを考えないでいたい。つらいですね。礼への恋しさが吐露されたあとなのでなおさら。

 

さらりとした文体で書かれているのですが、京は礼のことが好きで好きで好きで、嫉妬もバチバチで、でもそれがやはりさらりとした文体で書かれているので、その違和感も好きです。書かれていることと書かれ方がしっくりはまらない感じ。

礼との子供が百の他にもいたけど、できたとわかった直後に礼が失踪したので堕胎したというのも、結構大きな出来事だと思うんですが、あまりにさらりすらりと書かれているので読むたび「そういやそうだったね」となります。あと、京が礼の首を絞めたという描写も。

ところでこれ、京が礼を殺したという解釈、あるんですかね。「殺したかった」とは言っていますが、「くびをしめた。それでも、死ななかった」と言っているし、ラストのあたりからして殺していないと私は解釈したんですが、どうでしょうか。

 

 

多分作中一番のクライマックスは、京が真鶴での幻想の中で礼に会っている場面のここ。

 ベンチに座っている礼のからだを、さぐる。腰からわきばらへ、胸からくびへ、顎をつたってくち鼻ひたい、たまらなくなって口づけする、だえきが零れる、むさぼる、背中につよく腕をまわす、しめつける、名を呼ぶ、こいしい、こうして隣にすわってすきまなく寄っていても、こいしさは薄まらない、かなしくて、かなしくて、からだが消えてしまいそうになる、消えてしまって、きもちだけになる、きもちも散って、そこには何もなくなってしまう、それでも恋しさは消えない、果てがない、鷺が飛んでゆく。

この読点でつないで畳み掛ける文、好きですね……。奔流のようにほとばしる勢いがありつつ、柔らかな織物のような流れがある。こんなにも近くにいても恋しさが薄まらない、唾液が零れるほど貪ってもきつくかき抱いても全然足りない。熱いですね……。とっても好きです……語彙が死んでしまいました

 

ところでこの鷺、真鶴の幻想の中でしばしば出てくるのですが、鷺は死や彼岸の象徴だという共通認識が日本にはあるんでしょうか。

 浮舟が生き返るためには宇治川に身を投げなければならないわけだが、それは『真鶴』の語り手〈京〉が真鶴にひとりで三度、通わねばならなかったのに似ている。「真鶴」という土地はそのなかに鶴という白い鳥を含むから、すなわち彼岸の意味を含むから選ばれたに違いないが、川上弘美の中の書き手は、そのうえ二羽の白鷺を舞わせることで、その事実をいっそう強めている。

これは文庫版の解説からの引用なのですが、私はこれまで鷺について特に何のイメージも持っておらず……。ネットで調べてみると、ヤマトタケルノミコトが死後「白鳥」になったそうなので、これのことでしょうか?(「白鳥」が白鷺のことなのかはちゃんと調べてません)

 

ちょっと逸れますが、意識してみたら他の本でもときどき鷺が出てくることがあり、やっぱり死のメタァーなのかなぁと思うものがあったので引用します。

死がわくとき、その頭上のあめつぶに、しろいカササギが一羽とまること、てんという足音がちいさく響くことに、あまりにも騒がしい葬儀の中で、人はいつまでも気づけずにいる。死の周囲はいつでもうるさく、喧騒。粗い会話の粒子がゆきかい、しんだひとに近しいひとほど、口をつぐむ。えいえんの沈黙を中央にして。

最果タヒ「恋文」より一部引用(『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア)収録)

鷺じゃなくてカササギやんけ!!と言われるかもしれませんが、カササギって割と黒いので、「しろいカササギ」となるとサギのほうがイメージされてるということもあるのかなあと。それか、カササギってヨーロッパでは不吉の象徴らしく、「しろいカササギ」とすることで鷺とカササギ両方のイメージを喚起させようとしたのかもしれないと思いました。全然違ってたらすみません。

 

夕空と夜空のまざりあふ場所をしづかにゆきて帰らざる鷺

(藪内亮輔『海蛇と珊瑚』「冬の鷺」収録)

これは、もし「鷺」が死の象徴なんだとしたら、読み方が変わってくるなぁと思った歌です。鷺が死とか死者、死者の魂の象徴なのだとしたら、「夕空と夜空のまざりあふ場所」は「あの世とこの世の境目」で、鷺は死して帰らぬ故人、その静かな、不可逆的な死について詠んだ歌と読めるかもしれないと思いました。これも全然違ってたらすみません。

 

まだまだ好きなところはたくさんあるんですが、その一部を紹介させていただきました。川上弘美『真鶴』、とっても大好きです。また読みます。

 

真鶴 (文春文庫)

真鶴 (文春文庫)

  • 作者:川上 弘美
  • 発売日: 2009/10/09
  • メディア: 文庫