まくら

読んだ本や好きな文章の感想

新井英樹『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』の感想が書けない(24.3.3追記)

 

なんなんだろう………? この、漫画………………

なんだろう? なんだこれ? どうしたらいい? 誰か、わかる人はいますか?

 

 

 

絵柄の感じを見て欲しかったので3つリンクを貼りましたが、これらは連続した巻ではないので買うときは注意してください。

 

 

 

 

 

テーマについて語れない

 

2つの「神様」?

この話では、暴力の化身のようにためらいなく人を殺す(途中から変化してはいくが)人間・モンと、街を破壊するほどの大きさで移動するだけで大量の人が死ぬ怪獣・ヒグマドンに関する物語が並行して語られる。(モンには共犯者として元・普通の青年のトシがいる。)

ともに圧倒的な力をもって人間たちの命を蹂躙していくんだが、この2つの存在が繰り返し「神様」として作中で語られる。

 

モンを知る人間はモンを「人間じゃない……鬼人さ。(040 HERE&THERE) と言い、またヒグマドンが崩した岩を神像のように拝む地元の人間たちが描かれる。アイヌイヨマンテ宮沢賢治「なめとこ山の熊」なんかも繰り返し話題に上がりましたね。

※神が姿を変えたものとして熊を捉え、その熊を神の世界へ送り返すための儀式

 

 

ヒグマドンは「動物・自然・地球なんかとつきあいの下手になった人間に対する警告」として人を殺しているのではないか、とヒグマドンの取材をしている記者が言うシーンがある。

 

人間よりも上位にいる強大な存在が、人間を殺すことで裁いている、ということ?

でも、殺される人間たちはどう見ても無差別に選ばれている。家族があり、生活があり、人生があったいろんな老若男女を問答無用で蹂躙するような存在が「神様」なんだろうか?

 

 

と思っていたら、作中一カッケェ(と私が思っている)熊撃ち猟師のおじいさんがこう言うんですよ。

熊であっても人間であっても神であってもだ、

人を襲うようなのはろくでなしだ!!

山に位があるように 立派なものとそうでないものがいるのさ。

誇り高く威厳のあるものはそれにふさわしい生き方をしてる。

そういったもんだべさ!!(055 なめとこ山の熊)

これは、作者の言葉にかなり近いのでは?

 

作中、モンもヒグマドンもだんだん神聖視されていき、あれだけ人の命を蹂躙したのに人々はこれらの存在を賛美しさえする。でもこれは作者が暴力を否定するためにあえて人間をこう描き続けたのだろうな……ということに、4回ぐらい読んでからやっと気がついた。もしかしたらそうじゃないのかもしれないが。RINやSUGARは比較的明快な話だったが、ザワールドイズマインはあまりにもいろいろな要素が描かれていて「要約」がさっぱりできない。

 

 

不愉快な暴力

この本では、作中の人間たちが何度も「力」を「神」になぞらえる。

人類が知恵もち200万年かかって到達した世界は 結局 力の世界や。

神は力に非ず。せやけど 力は神なり!!

(…)

生殺与奪のチャンピオンが神様なら、ボクら そこそこチャレンジャーや

……ちゃうか?(118 CHALLENGER)

守るべき命と葬るべき命の選択の行使こそ神が人間に与えた神同等の力だ(122 TO BE OR NOT TO BE)

 

この作品の特徴的なところは、こういうセリフが出てきつつも、最初から最後まで人を殺す暴力が「不愉快なもの」として描かれるところだと思う。つまりおそらく作者自身が「力」を「神」として賛美しているわけではないということ。

殺された人にも生活があり、人生があり、また殺された人と親しい人も当然存在する。新井英樹は「そこ」を決して見逃さない。殺戮はいつも等身大で行われて、一人一人の血液の温かさまで描いてくれる。(血だまりから湯気が立つ描写!)

 

例えば物語作品では「圧倒的な力をもつ(多くの人を殺した)人物が英雄として扱われる」ことってよくあって、それはザワールドイズマインでも同じなんですけど、この作品は「生々しい暴力」と「殺戮を喜ぶ人間たち」を両方描くことで、読者が殺戮者であるモンを「カッコいい」と思うこと、ひいては世にある暴力に読者が惹かれていくことに警鐘を鳴らしているような気がする。デス○ートあたりと比較しながら読むと面白いかもしれない。

 

 

作者自身も本に収録されているインタビューでこう言っている。

暴力性は過剰に描くつもりはありませんでした。暴力をすごいだろうと見せるつもりは今も昔もありません。原因と結果を描いていただけなんですけどねぇ、なぜか残酷だと言われるんです。暴力はある種の不快感を伴うものなんだと表現したつもりです。(新井英樹特別ロングインタビュー《3》)

こういう漫画家って、少ない気がする。暴力って視覚作品では往々にしてエンタメ、見ていて気持ちのいいもの、として描かれる。バトル漫画とかたいていそうですよね。実際私もそういうものを山ほどエンタメとして読んできたわけだが、それでもザワールドイズマインの暴力は見ていて耐え難いものがあった。そして暴力や暴力がもたらした悲惨な結果を「描く」って相当相当相当しんどいと思う。なんかほんと、これだけむごい「ありのまま」をよくぞこれだけの解像度で描けたものだ、とその点だけでも恐れ入る。

 

 

自分の娘だったとしても人質を殺すか?

この「人質問題」は、物語後半のテーマの一つになっている。警察側の主要人物3人で人質に対する考え方がはっきり分かれていて、娘でも殺す須賀原本部長、娘なら殺さない薬師寺補佐、誰であっても救う塩見警部補がいる。ここでは現場から離れるほど、大衆のために一人を殺す、という最大多数の最大幸福的思想になっているのだな。

 

人質は、女1名に非ず。

市民だ。(127 上意下達/須賀原本部長の発言)

集団・社会・国家・世界を統べる者たちも転覆を計る奴らも、

必要なら殺す、知恵ある者は皆殺してきたんだよ。

殺すってのは倫理じゃねえ ……覚悟だ。(128 GUARD POSITION/薬師寺補佐の発言)

 

また序盤で時の総理大臣・ユリカンがこうも言っていますね、「民主主義は素晴らしいと言いながら少数の犠牲もあってはならないとつぶやき叫ぶことは、私の大きな耳には偽善 欺瞞にしか聞こえませんよ。」(024 ユリカン)

 

人が死ぬ数を考えればまあ人質ごとモンとトシ(モンの共犯者)を殺したほうがいいんだろう……と思いはするが、しかし、そんな風に割り切ることで失われるものはないか?

 

けっ 警察は殺し屋ではねえっス!!

殺して済むンだば警察いらねえっス!!

「守るべき命と葬るべき命の選択」してはならねえっス。

正解なぎ問いを考えぬいでこそ人間ではないが!?(125 WALTZ FOR MARIA/塩見警部補の発言)

この塩見警部補のセリフが私は好きで……

 

私もきっとこの世界に生きる市民だったら、何十人もの通行人が死んでるんだから人質ごと犯人を射殺してくれ。って思うだろうし、でも現場で実際に人質と犯人に銃を向ける警察官になったら、こんな世界間違ってるって思うかもしれない。

 

警察は殺し屋ではねえ」。そうなんだよな。たくさん人を死なせてしまったから一人くらい救いたい、というのは真っ当で美しい考えだと思うが、でもその選択によってまた人が死ぬ。その死んだ人にも日常があるし、その人をこそ救いたかった人がいるかもしれない。これは答えの出ないトロッコ問題です。

 

 

 

 

印象深いシーン

 

「幸福と善意と優しさと愛に満ちた世界を要求する」

これは青森西警察署を占拠したときに、トシが国に向かって出した要求。

 

世に棲む生きとし生けるものすべてが、自由に、平和に平等に、美しく明るく楽しく暮らせる、幸福と善意と優しさと愛に満ちた世界」。

 

そんなもんこの世に存在するはずのないユートピア。それをさっき殺したばっかりの血だらけの人質を小脇に抱えながら言うんですね。なんという皮肉な絵面。

 

でもこれは単なる時間稼ぎとか、警察をおちょくってるとかだけじゃなくて、トシがそういう世界を望んでいるというのは本当だと思うんです。そんな世界を望んでる人間がなぜ大量殺人犯になるのかと聞かれたらちょっとすぐには答えられませんが……。

そして私はこの要求に対する、総理大臣・ユリカンの返答がとても好きです。この要求に対する最良の返答では? 「そういう物語」を読むために私は生きています。

 

 

「燃える出会い 燃える恋して 燃える家庭 築きてえっス」

これは青森西警察署でトシモンに人質に取られ、無残に殺された警官・山崎のセリフ。殺された後で、山崎の上司の回想として、山崎が飲み会でこの発言をする数コマが挿入される。これも直接見てみてほしい、とんでもねえなと思ったから。

私こういう、新井英樹の、「惨劇」と「幸福な日常」を並べて出してくる手法が………大好きなんですよ………………なんでここまで惨いことができるんですか?って……………………

でも、これが「リアル」なんだよな。と思わせてくる。それだけの技巧がある。

 

居酒屋で顔真っ赤にしながら熱く将来について語る山崎の表情、体温、息遣いを描いた後で、警察署の階段にいかにもゴミみたいに捨てられている山崎の死体。新井英樹の醍醐味は「コレ」ですよ。

 

 

アベック殺しの嫌になるほどの丁寧さ

生々しい。作中一番丁寧に描写された「殺し」の場面だったのでは?(「殺し」自体が丁寧という意味ではない)

トシモンは青森西警察署を脱出したところで、ラブホテルから出てきた大学生アベック(つとむくん&ポポひょん)に遭遇する。トシモンはこのアベックの運転する車に乗って逃走を図るのですが、その道中でアベック二人は殺されるんですね。

青森西警察署でのロケットランチャーを使ったド派手な大量殺人とは違い、等身大の人間が一人一人殺されるプロセスがねっっっっっとり描写される。それまでとはまた違うタイプの「地獄」。

 

まずこの……つとむくん&ポポひょんの描写ね。アベックとトシモンが遭遇した時点で「あっ、死んだな」って思ったけど、それでも死ぬまでの少ないページ数でちゃんと二人の人格を「わからせ」てくるんです。

 

トシモンが下水道から地上に上がろうとしている傍ら、つとむくんは「HOTEL めぐり逢い」の駐車場でポポひょんにこんな話をする。

今から弘前に出とけば、亀ヶ岡の縄文館近いし、それとも逆 行ってキリストの墓に行く手もあるか。

ゴルゴタの丘で十字架にかけられたのはイエスの弟イスキリだったと、ヘブライならぬ戸来(へらい)村でイエスは106歳の生涯を送り3人の子供を儲けた。でも やっぱ遮光器土偶のレプリカ先か。

接続いいよな、アラハバキ神社で和田家文書とスフィンクスだろ。三内丸山遺跡経由下北へ抜けて… 時間 足んねーよ 困っちゃうなあ。

あとちょっとで死ぬであろうキャラのためにめっちゃファクトチェック必要そうな情報出すやん。

この3コマで急につとむくんが「捨て駒」から「生きた人間」になっちゃったんだよね。ただ死ぬためだけに生まれた背景みたいなキャラクターがいないのも新井英樹作品の好きなところだ。

 

このあと、運転しながらトシモンに媚びを売るつとむくん、ポポひょんをレイプしようとする原始人みたいなモン、目の前を動くワイパーを見ながらただポポひょんの悲鳴を聞いているつとむくんの表情、モン射精の一コマ(雪の東北、夜の道路を疾走するこの冷たい風!)、ポポひょんが吸っていた煙草を灰皿に入れようとしたが物が入っていたためやむなく手に唾をつけその唾で火を消そうとするつとむくん。なんだこの、微に入り細を穿つ描写。情報量が多すぎる。

 

 

そして、つとむくんがモンに射殺された後の、ポポひょんとトシの「殺し合い」ですよ。この場面がもう………………ね………………………………。

 

このころはまだ、トシは直接人を殺すことに抵抗があるんですね。モンに「刺せ」と言われて、「ナイフとトカレフ交換してや!!」と言う。その間ポポひょんは泣きながら雪の上を這いずり回っている。

トシはこう叫ぶ。

そっ そら修羅場くぐって来たボクやけど、さっ… 寒いしっ。

あっ 頭… 冷めてもうて、

ふっ…普通、頭 ブチ切れんと……でけんもんやろ!!

山崎をなぶっていたときは頭がブチ切れていたからできたけど、今雪の中に立って、泣きながら転がっている女を見ていたら、とても刺せない。それぐらいの理性や罪悪感が、このころのトシにはまだ残っている。

 

 

そして、理由がないと殺せないとわめくトシ、何でもします仲間にしてくださいと言って服を脱ぎだす女の間に、モンが銃を投げる

 

 

雪の上にトカレフが落ちた、このときの静寂……!

 

 

次の瞬間から、ポポひょんとトシによる、自分の命を懸けた本気の殺し合いが始まるんですが、ここがもう・・・・・・・・・・・・・・・・圧巻ですよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

見たことないけど、本当に死ぬかもしれないという状況になったら、人間って「こう」なるんだろうな。と思わざるを得ない、圧倒的な説得力。なりふり構わず獣みたいな声を上げて、転げまわりながら相手を殺そうとめちゃくちゃにもがく生き物。

 

特に、銃を握ったポポひょんの手首から先が切り離されたときのこのコマ!!!!傷のついたトカレフの光沢、揺れるイヤリング、飛び散る血飛沫と手首の断面、そしてこのときのポポひょんは下半身が裸で、足を開いて失禁しているんですね・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんかもう、説明できないんだけど、「何でこんなものが描けてしまうんだよ・・・・・・・・・・・・・ッ」って呻くしかなかった、このコマは。

 

 

人を殺して勃つのと勃たないの、どちらが正常か

これは議論が深まりそうな問いではないですか?

性的興奮から人を殺す人と、性的興奮してなくても人を殺せる人(しかも復讐とか利益とかのための「手段としての殺人」ではない)、どっちのほうがヤバいのか。

個人的には後者の方が恐い気がします。前者はまだ「性欲」として処理できるが、後者はもっと別の理解をしなきゃいけないから。

 

ブチ切れて 人 殺すんやったらアホでもできる。

けど… 冷めたまんま殺せるようなったら 人間 終わりやで。

 

今 ボクな、チンコ勃たへんかったわ。

どっちや?

あんた勃たんゆうとったけど ……そのほうが人間か?(049 布団)

 

アベックの女を刺し殺したときは勃起していたトシが、自分の母親の死を知ったあと、殺さなきゃ殺されるとか、快楽とか、そういうもんがなくても「冷めたまんま殺せるよう」になる。

トシの母親の死を報じるニュースを見ているときのトシの様子から「ああ、お前、まだ人間だったんだな」って思ったけど、その直後に見知らぬ一家を躊躇なく刺し殺したトシを見て、あ、ここで人間やめたのかって。(モンに比べたらトシは最後まで「人間」だったが)

 

「人を殺しても勃たなくなったトシ」って、この情報だけでトシの変質がわかった。トシは物語の序盤と終盤で人相もめちゃくちゃ変わっていて、モンという強大な力を手に入れた人間がどんなふうに崩壊していくのか、というのもじっくりと描かれていたと思う。

 

 

殺人犯の親、殺人被害者の親

トシの父親の投降勧告もまたすごかった、大量殺人鬼の親はこう語り、こう泣き、こう叫ぶのかと。ただ私は、その父親の涙に感動感動感動する民衆を描いたあとでの、「ポポひょんの母親」への取材シーンに衝撃を受けた。

 

生活感溢れる台所、そのままになってる娘の部屋、ややぞんざいな擦れた態度、明らかに憔悴した表情に、ところどころで描写される話の噛み合わなさ。(この「相手の話が耳に入っていない」描写が自然でゾワッとする)

 

トシの父親の投降勧告中継を見て「泣いちゃった」と言う母親にライターが質問する。

 

「どういう意味で?」

「意味?」

「じゃ…怒り? 感情的に許せないと。」

「もちろん許せないけどただの父親だし、…いろいろ。なんだろ すごく…くやしい。」

「どうしてですか?」

 

あの中継見て同情した奴らは紀子をもう一回殺してる。

そういう気がして……もう……ちくしょ。(114 私は泣いています)

 

殺人鬼の親の慟哭を描き、それに涙する民衆を描いたあとで、「被害者の親」の存在を我々に突きつける。「あの中継見て同情した奴らは紀子をもう一回殺してる」。すごいな、世界の両端を同じぐらいの重さで我々に提示して、我々に「気づけ」と突きつけてくる、考え続けないといけないからこの漫画は重たい。

 

 

 

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本当はマリアのこと、ラストのことも書きたかったんですが、全然書き終わらないのでここで一旦投稿する。ここまでに書いた文字数はそんなでもないはずなのになぜかめちゃくちゃ時間がかかっている(作品が私のキャパを超えて重厚すぎるせいである)

新井英樹の別作品『キーチ!!』と『ザ・ワールド・イズ・マイン』の関わりも書きたいから、そのときに書くかもしれない。

 

もっと気軽にブログを書きたい。

 

 

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2024/3/3追記

 

・またもや新井英樹先生御本人に記事を読んでいただけました…………認知、されている…………

大変恐れ多いことですがとても嬉しいです………………キーチの記事書くの緊張する………………………
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・2/7にメールフォームよりメッセージをお送りいただいたマさん

こちらこそご感想嬉しいです……😭ありがとうございます!

新井英樹さんの作品は語りすぎないから読んだあとめちゃくちゃ考えちゃいますよね。

好きで書いてる感想を読んでくれてる人がいるととても励みになります、更新がんばります!