とにかく「冒頭がハチャメチャにカッコいい!!!!!!!!!!!!!!」ってクソデカ大声で言いたい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card777.html
汽車は流星の
疾 きに、二百里の春を貫 いて、行くわれを七条 のプラットフォームの上に振り落す。余 が踵 の堅き叩 きに薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉 から火の粉 をぱっと吐 いて、暗い国へ轟 と去った。
ンン~~~~~カッケェ~~~~~~~!!!!!! 日本の李白かァ!??!!?
漢詩(の書き下し文)大好きな私としては、川端康成『雪国』の冒頭よりこっちの方が好き……なぜこの冒頭が有名でないのか不思議で仕方がない。
まずこの簡潔さがスゴい。最初の一文、こんなに簡潔なのにこの“移動感”というか……“ダイナミックさ”というか……語彙がなくてアレなんですが、汽車に乗って真っ直ぐに結構な距離を移動してきたというのが端的に伝わる。
「二百里の春」という言葉で東京から京都までの長い距離を移動してる間、きっと車窓から春の田園風景とかが見えてたんだろうなと想像できるし、「貫く」って言葉から汽車の一直線に進むスピード感が伝わる。スゴイ。そして「二百里の春を貫いて」で俯瞰的(ロングショット?)な景色を出しておいて、そのあとの「行くわれを…」「余が踵の…」で一気に等身大にクローズアップされる。スゲェ……
この短編、今日初めて読んだんですが、なかなか面白い。ぜんざいの話でクスッと笑わせたかと思うと、正岡子規の死についての言及もあり、しんみりした気持ちにもなる。
始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は
正岡子規 といっしょであった。麩屋町 の柊屋 とか云う家へ着いて、子規と共に京都の夜 を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故 かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日 に至るまでけっして動かない。ぜんざいは京都で、京都はぜんざいであるとは余が当時に受けた第一印象でまた最後の印象である。子規は死んだ。余はいまだに、ぜんざいを食った事がない。実はぜんざいの何物たるかをさえ弁 えぬ。汁粉 であるか煮小豆 であるか眼前 に髣髴 する材料もないのに、あの赤い下品な肉太 な字を見ると、京都を稲妻 の迅 かなる閃 きのうちに思い出す。同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜 のごとく干枯 びて死んでしまった。――提灯はいまだに暗い軒下にぶらぶらしている。余は寒い首を縮 めて京都を南から北へ抜ける。
このユーモアとセンチメンタリズムの織り交ぜ具合が絶妙……どちらかに振り切りすぎることがなくてよい。甘いものとしょっぱいものを交互に食べれば永遠に食べ続けられる現象ですね。
子規は笑っていた。膝掛をとられて
顫 えている今の余を見たら、子規はまた笑うであろう。しかし死んだものは笑いたくても、顫えているものは笑われたくても、相談にはならん。
こういう風に、死んだ人のことを思うのは悲しい。もういない人と昔いっしょに来たことがある場所へ、一人で行くのは悲しい。このさっぱりした文体だからこそ、寂しさが伝わってくる気がする。
真夜中頃に、
枕頭 の違棚 に据 えてある、四角の紫檀製 の枠 に嵌 め込 まれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀 を象牙 の箸 で打つような音を立てて鳴った。夢のうちにこの響を聞いて、はっと眼を醒 ましたら、時計はとくに鳴 りやんだが、頭のなかはまだ鳴っている。しかもその鳴りかたが、しだいに細く、しだいに遠く、しだいに濃 かに、耳から、耳の奥へ、耳の奥から、脳のなかへ、脳のなかから、心の底へ浸 み渡 って、心の底から、心のつながるところで、しかも心の尾 いて行く事のできぬ、遐 かなる国へ抜け出して行くように思われた。この涼しき鈴 の音 が、わが肉体を貫 いて、わが心を透 して無限の幽境に赴 くからは、身も魂も氷盤のごとく清く、雪甌 のごとく冷 かでなくてはならぬ。
こういう、読点で繋いだ畳みかけるような書き方好き。冒頭でも書きましたが、簡潔かつ適切な言葉を重ねていく漱石の書き方、「頭良(よ)~~~!!」って感じがして好きだ……。 これぞ「洗練されている」って言うのかな。極限まで洗練されていて、モダン。個人的に漱石の文体は、今読んでも十分に「新しさ」を感じる。具体的に何にそう感じるのかはまだよくわからないが……。そして漢語の使い方がカッコイイ。
今日は又吉直樹の『劇場』を買った。まだ読み始めだけど、『火花』同様中村文則みがなかなか強い。私は中村文則の初期ごろ(?)の作品が大好きなのでそれについてはまた書きます。