まくら

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妊娠という不自然――「妊娠カレンダー」から考える小川洋子

小川洋子「妊娠カレンダー」は何よりも、妊娠にまつわる「喜び」だとか「祝福」だとかが徹底的に排除されているところが特徴的だ。書かれているのは、不自然、違和感、不快感。

 

なお、この作品は第104回芥川龍之介賞を受賞している。

 

 

この話では、主人公の姉が妊娠する。

 姉は昼前に帰ってきた。アルバイトに出かけようとしていたわたしと、ちょうど玄関で一緒になった。

「どうだった?」

「二ヵ月の半ば。ちょうど六週め」

「まあ、そんなに厳密に分るの?」

「こつこつためたグラフ用紙のおかげ」

 姉はそう言うと、コートを脱ぎながらずんずん家の奥へ入っていった。特別な感慨があるようには見えなかった。

(略)

ありふれた会話を交わした後のような、あっさりした感触しか残らなかった。だからわたしは、おめでとう、というのさえ忘れていた。

 しかし本当に、姉と義兄の間に子供が生まれるということが、おめでたいのだろうか。わたしは辞書で『おめでとう』という言葉を引いてみた。――御目出度う(感)祝いのあいさつの言葉――とあった。

「それ自体には、何の意味もないのね」

 とわたしはつぶやいて、全然おめでたくない雰囲気の漢字が並んだその一行を、指でなぞった。

読者はここで、この話の方向性がわかると思う。「本当に、姉と義兄の間に子供が生まれるということが、おめでたいのだろうか。」まずそこに疑問を投げかける。

主人公の姉は未婚というわけではないし、経済的に困窮しているとか、大きな持病があるとかいうわけでもない。そういうわけじゃなくても、果たして妊娠って無条件に「おめでたい」ことなんだろうか? 肉体の劇的な変化に対する恐怖や嫌悪感が、「おめでたい」という世論に覆い隠されてしまっていないだろうか。

 

これ以降も、姉が妊娠を喜んでいる様子は一切描写されない。逆に自分の「妊娠」を持て余している様子が繰り返し描かれる。

これは豪雨の夜に「枇杷のシャーベット」を激しく欲しがった姉が言った言葉。

枇杷じゃなきゃ意味がないわ。枇杷の柔らかくてもろい皮とか、金色の産毛とか、淡い香りとかを求めてるの。しかも求めてるのはわたし自身じゃないのよ。わたしの中の『妊娠』が求めてるの。ニ・ン・シ・ンなのよ。だからどうにもできないの」

 姉はわたしの声を無視して、わがままを言い続けた。『妊娠』という言葉を、グロテスクな毛虫の名前を口にするように、気味悪そうに発音した。

強調引用者。「わたしの中の赤ちゃん」とかじゃなくて「わたしの中の『妊娠』」とあえて言うところが示唆的。自分の赤ん坊に愛着を抱いていないのが感じられる。

 

姉が赤ちゃんを受け容れていない様子は、次の描写からもわかる。

 食べれば食べるほど、姉のお腹は膨らんでくる。(略)

 身体の変形は胸のすぐ下から始まっている。そこから下腹部にかけて大胆に張り出している。触らせてもらうと、思った以上に固くてびくっとする。内側の煮詰まった感じが、生々しく伝わってくるからだ。そして膨らみは左右対称ではなく、微かに歪んでいる。そのことがまた、わたしをぞくぞくさせる。

「今頃胎児はねえ、まぶたが上下に分れて鼻の穴が貫通している時期よ。男子なら腹腔内にあった性器が下降してくるの」

 姉は自分の赤ん坊について、冷静に説明する。胎児とか腹腔とか性器とか、母親に似付かわしくない言葉遣いのせいで、余計彼女の変形が不気味なものに思える。

 

また、「わたし」も、赤ちゃんを「物体」に還元して理解している。

 これから生まれてくる赤ん坊について、自分は何も思いを巡らしたことがないと、ふと気づいた。性別とか名前とかベビー服とかについて、わたしも考えたほうがいいのかもしれない。普通はそういうことを、もっと楽しむものなのだろう。

(略)

 わたしが今、自分の頭の中で赤ん坊を認識するのに使っているキーワードは『染色体』だ。『染色体』としてなら、赤ん坊の形を意識することができる。

 

小川洋子の本をいろいろ読んできたけど、小川洋子は本当に、柔らかく、温かく、生々しいものが嫌いなんだなあと思う。ぐちゃぐちゃどろどろしたものは嫌悪の対象になって排除され、逆に冷たく静謐なものが望ましい、美しいものとして描かれる。それが如実に表れている作品がこの「妊娠カレンダー」、あとは「完璧な病室」、「六角形の小部屋」あたりだと思う。

 

私は小川洋子の作品をたくさん読んだ後にこの「妊娠カレンダー」を読んだから、妊娠に対するこの拒絶反応は「まあ、小川洋子だったらそうだろうな。」ってすんなり読めたけど、これが初読の作品だったら戸惑ってしまうかもしれない。

「わたし」が、染色体を破壊する薬品に漬けられていたかもしれないアメリカ産グレープフルーツのジャムを毎日姉に食べさせることについても、「わたし」の「悪意」というよりも、姉の心理に同調した行動のように見える。姉のこころの延長線上に「わたし」の行為があるというか……。

 

「妊娠カレンダー」で調べると、「わたし」の行動は「悪意」という言葉で説明されているのをよく見るんだけど、私は悪意じゃないと思うんだよなあ。「わたし」の感情が全然書かれていないからだろうか。「わたし」の自発的な行動ではなくて、何か(というか作者)に導かれている感じがする。

 

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久しぶりに小川洋子を読むと、かなり特殊な作家だなと感じるようになった。昔読み漁っていたころは小川洋子の、食べ物への嫌悪や内臓への執着、冷たく静かなものへの賛美に素直に同調していたけど。

 

小川洋子の好きなもの・嫌いなものリスト、まとめてみたいなとずっと思っていたのでまとめてみる。

 

■好き

・冷たくて静かで清潔なもの

・きれいな病院?(妊娠カレンダー、完璧な病室)

・キウイ以外のフルーツ(完璧な病室、妊娠カレンダー、匂いの収集)

・欠損(ドミトリイ、薬指の標本、バックストローク

・水泳選手(完璧な病室、バックストローク、トマトと満月)

・陸上選手(槍投げの青年、キリンの解剖)

・プール(ダイヴィング・プール、バックストローク

 

■嫌い

・食べ物(妊娠カレンダー、完璧な病室、六角形の小部屋、キリンの解剖、博士の愛した数式、洋菓子屋の午後)

・恋人としての医者(妊娠カレンダー、六角形の小部屋、キリンの解剖、冬眠中のヤマネ、白衣)

・内臓?(完璧な病室、森の奥で燃えるもの、詩人の卵巣、やまびこビスケット、六角形の小部屋、妊娠カレンダー、心臓の仮縫い)

・キウイ?(妊娠カレンダー、果汁、老婆 J)

 

■わからない

・極度に太っている女性(やさしい訴え)

・料理(コンソメスープ名人、博士の愛した数式、お料理教室、アリア、夕暮れの給食室と雨のプール)

 

太っている女性は『やさしい訴え』以外にも出てきていたような気がしたが見つけられなかった。

 

 

小川洋子の思想や嗜好は、最初期の作品「完璧な病室」にかなりわかりやすく・集約的に書かれていて、それを読めば小川洋子のことを理解しやすくなる。以下、「完璧な病室」より引用。

 S医師をこんなに近くで見るのは初めてだった。彼は背が高くて、白衣の上からでも胸の厚みを感じ取ることができた。水泳選手を連想させるような、すばらしくバランスのいいからだつきだ。彼のからだが水に濡れたらきっと美しいだろう、とわたしは思った。わたしは、男の人を見る時、その人の筋肉が水に濡れた姿を想像してしまう。浅黒くてピンと緊張した肩や胸板や太腿の筋肉から、透明な水滴が無数にこぼれ落ちてゆく様子を思い描くのだ。それはきっと初恋の人が水泳部だったからだろうと思う。

 わたしは、病室がとても好きになっていた。病室にいると、産湯につかった赤ん坊のように、安心できた。身体の内側が、隅々まで清らかに透明になっていった。

 わたしがこんなにも病室を好きなのは、そこに、生活がなかったからだ。病室には、残飯もない、油の染みもない、埃を吸い込んだカーテンもない。当然、腐りかけたきゅうりや、黴のはえたオレンジもない。

 何日放っておいても、この病室は何も変わらないだろう。シーツもレンジもホーローも相変わらずつやつやしたままだろう。変性しないこと、退化しないこと、腐敗しないこと。そのことがわたしを安心させる。

 半熟卵が一筋流れ出して、皿の縁に回虫のように張り付いている。コーヒーの飲み残しがセロリの切れ端を粘土色に染めている。ヨーグルトが、脳みそのように固まっている。流し台は“有機体”にあふれている

 ――食べる、ってことは、どうしてこんなに美しくないんだろう

 と思う。人間が起こす行動の中で、一番生理的で無意識的で官能的だ。料理はいつも、汚れた流し台と背中合わせに並べられる。

強調引用者。取りだしだすときりがないんだけど、こんな感じで、「生活」や「有機体」、特に食事への嫌悪が繰り返し語られる。非常にわかりやすい。

わかりやすいけど、こんなふうに露骨に・概括的に作者の思考をさらけ出している初期の作品より、少し経ってからの、「作者はきっとこんな人なのかなあ…」と読者に想像させる余地のある作品の方が好きだな。

 

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ところで、小川洋子はこれだけ“有機体”への憎しみをあらわにしているから、きっと「胎児」も嫌悪の対象なんだろうと思っていたんだけど、「妊娠カレンダー」を読んだらそうでもなかったのが意外だった。

 姉から初めてその写真を見せられた時、凍りついた夜空に降る雨のようだと思った。

(略)

 夜空は深く清らかな黒色で、じっと見続けているとめまいがしそうだった。雨ははかない霧のように空を漂っていた。そしてその霧の中に、ぽっかりそらまめ型の空洞が浮かんでいた。

「これが、わたしの赤ん坊よ」

 姉はきれいにマニキュアを塗った指で、写真の角をつついた。つわりのせいで彼女の頬は青白く透き通っていた。

胎児のエコー写真なわけだけど、これは「凍り付いた夜空」「清らかな黒色」というように、美しく肯定的なものとして描写されている。

また、「つわりのせいで彼女の頬は青白く透き通っていた」とあるように、妊娠初期の姉はものを全然食べられなくなり、結果「生活」から遠ざかった清らかなものとして描写されている。六週+五日の時点では「深く冷たい沼をさまようように、静かに眠る」と描かれたりもする。

 

しかしそこから、つわりが終わった姉は、「干しぶどう」や「枇杷のシャーベット」や「グレープフルーツのジャム」、つまりフルーツを食べてどんどん太っていく(それ以外のものも食べているだろうけど、ちゃんと描写されているのはフルーツばかり)。

食事は小川洋子の嫌悪する最たるものだけど、「フルーツ」は食べ物の中でも許容されている感がある(「完璧な病室」で、主人公の愛する弟はぶどうだけを口にする)。

 

これをどう理解したらいいのか?

私の感覚では、小川洋子にとって「妊娠」は受容できる・できないの境界線上にあるもので、それをがんばって受容しようとしている、という感じがする。(小川洋子自身、子どもがいる)

でも終盤、「わたし」が染色体を破壊するジャムを作って姉に食べさせ続けたように、心の底では受け入れがたい気持ちがあるんじゃなかろうか。

あと、小川洋子作品の中で主人公が「円満な夫婦/恋人関係」にあることがほとんどないのも、妊娠に対する複雑な態度と関係がある気がする。(ちなみに主人公が子供をもっている作品はいくつかある。『博士の愛した数式』「洋菓子屋の午後」など)

 

小川洋子のエッセイとかプロフィール、「妊娠カレンダー」の書評なんかはほとんどなにも読まず、小川洋子の小説作品だけを読んでの感想です。

「わたし」の行動が「悪意」と表現されるのに違和感があったこと、あと小川洋子作品が好きということを書きたかった。上述した小川洋子の思想・嗜好に共感できる人にはかなりおすすめです。小川洋子はぶれないので。