富岡多恵子『芻狗(すうく)』という短編集を読んだ。
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↑私が読んだのは図書館にあった講談社の単行本だけど、売ってなかったのでこっちを出してます
何なのか、と言いつつ、わかってないんですが。
論文や他の人の感想もあったけど読めてないので私の思ったことだけ書きます。
表題作「芻狗」、とりあえず「芻狗」について辞書を引くと
①祭りで使う、藁で作った犬
②用があれば用い、用がなければ捨てるもののたとえ
とのこと(精選版日本国語大辞典)。
となるとまあ、主人公にとっての性交相手のことでしょうね。
性交相手にとっての主人公のことかもしれない。
以前同じ作者の「波打つ土地」読んだときも「わかりそうでわからん・・・」だったんですけど(以前の記事:最近読んだものや観たものの感想)、今回もわかりそうでわからなかった。でもわかりたいと思う。
わたしは栄吉が部屋に入ってきた時から、どのような手順で性行為に運んでいくかだけを考えていた。(…)よく知らぬ他人の肉体の一部が具体的にわたしのなかに入ることだけで、はたして肉体の関係になるのかという興味があった。
(「芻狗」傍点ママ)
まず、この「肉体の関係」というのは何なのか。いわゆる肉体関係ではなく、もうちょっと抽象的な「関係」を指すのだと思いますが、はっきりとはわからない。
主人公は40歳くらい、いつも自分より若い男と性交するんだけど、それは単に若い男に対する嗜虐心とか好みからくるものなのかなと思っていた。
「わたしと性行為した若い男性が、それをしたことによって、なんらかのいやな思い、感じの悪い思いをもつことをどこかで期待してはいた。」
「得体の知れない、若い男の憂鬱の内臓を自分の歯でひきずり出し、ひき裂いて食べてみたいのだった。この気持が、性行為をしなければならぬという使命感(?)に重なってきていた。」
などとあったので。
でもそれ以降の記述で、そう単純な話でもないのか、と思った。
「ねえ、ちょっと待ってよ。そんなに早く歩かないでよ。右の脚がつっぱってきた。神経痛が出るのよ、冷えると」とわたしはまた憂鬱な要次の腕をつかまえ、脚をひきずりながら歩く。わたしの神経痛は、勿論半分ウソだ。憂鬱な要次が、年寄りと性交をめざして歩いていることを、わたしは示したいのだ。
「こんな高級なところ、生まれてはじめてだ」と要次は天井をにらみつけて陰気にいった。要次と歩いている途中に、いくらでも群から離れた動物をやすませるための専門の木陰はあった。それは、この男を自然にしてしまうとわたしは思った。わたしとこの男は、薄い個室喫茶のカーテンから足を出す発情した若い恋人たちではないのだった。
ともに傍点ママ、太字強調は引用者。
主人公は、同世代とではなく自分よりずっと若い男性と性交することで、性交を「不自然なもの」にしたがっているんだなと思った。
それがなんでかというと、作中には明言されていないけど、情緒的な「情事」でなくてただの「肉体的な結合」であると強調するためなのかな・・・と思う。
うーん。それにしてもよくわからん。ひとつの思想をいろんな角度から繰り返し説明してくれているような気がするのに、読んでも読んでも全体像がつかめない。
わたしは、性交によって、肉体によって、相手と自分の肉体のなかの肉体でない部分を知ろうとしている。だからわたしは、自分の肉体を、袋を裏がえすように露呈する。見知らぬ男の性器が、自分の肉体という袋をすっかり裏がえしてくれるのをのぞむ。わたしの性器はその袋の口だ。袋の隅に、精神とか悪意というようなものがほこりといっしょにまじりこんでいるのかどうか。袋がすっかり裏がえされたら見えるのか。(…)わたしの肉体からにじみ出る液体は、裏がえしにされることで、またたく間に乾燥するに違いない。
このあたりも難解だった。男と性交するのは「性交がその男と自分を関係づけるかどうか」を知るためかと思っていたけど、どうやらそれだけではないらしい。「肉体によって、相手と自分の肉体のなかの肉体でない部分を知ろうとしている」。性交が終わると相手に興味がなくなるとも書いていたから、相手はただの道具として扱っているのかと思っていたら、相手のことを知ろうともしているらしい。うーん……
肉体でない部分、精神とか悪意というようなもの、というと、非動物的な・人間的なものと言い換えられると思うけど、これに関して以下のような記述もある。
俊介との性交によってもたらされた肉体関係によって、わたしの、動物になって生きる希望がはっきりあらわれて見えたのを感じた。(…)動物になって生きるのは、肉体の関係も言葉もすてることだった。俊介の性もまた、そのために、祭りのあとのワラ人形のように燃やされた。
つまり主人公は、性交によって「肉体の関係」や「精神」「言葉」について把握しようとしていて(得ようとして、ではなく)、なぜかというと、それらを捨てるため。そういうこと?
さっきまでなんとなく主人公は肉体の関係を結ぼうとして男と性交していたのかと思っていたけど、改めて読むと「性交が肉体の関係を生むかどうか興味がある」、という書き方しかされていないね。たぶん。
特に難解だったのは以下の箇所。
いつまでも降りつづく梅雨の雨のような性交のくり返しの中に消えていくのは熱の疲労だけでなく、関係も消滅するのだった。快楽の高さも広がりも深まりも、いつかは一定になっているのを、快楽者は気づこうとしない。自己の消滅を肉体に賭け、それでいて、自己がそこから辛うじて這い出してくるのを、肉体が助太刀しているのだ。快楽の中で自己を握りしめ、ついに自己が独裁者となるときには、性交の相手は物体にすぎない。そして、物体との肉体関係に幻滅する――。快楽のはてに横たわる人間ふたりは、岸辺に打ちあげられた大きな腐った二匹の魚みたいに、無能で無力な、ひからびた二匹の息をする生物だった。それでもまだ、快楽者は自分の体液をしぼり出すのだ。わたしはそういう快楽者ではなかった。
詩……だね……。「いつまでも降りつづく梅雨の雨のような性交のくり返し」この部分好き。
でもわからない。「自己の消滅を肉体に賭け、それでいて、自己がそこから辛うじて這い出してくるのを、肉体が助太刀しているのだ」特にこの部分。試験でここに傍線引かれたら絶望する。なんだろう。全体とすると、快楽を目的とした性交はどこにもいきつかない(相手との「関係」も結べない)、ということだろうけど。「快楽の中で自己を握りしめ」というのもわからないな……「自己」ってなんだろう。
なんか、この小説というか富岡多恵子の思想を理解できたら「性交」に対する認識を一段進められる予感がするから理解したいんだけど、まだ理解できない。論文読めばわかるのかな。
「芻狗」以外で好きだったのは「箱根」のこの箇所。
発情が、上澄みのところで沸騰していたのに比べると、性欲は底に沈んだものが腐敗し発酵し、気化してかたまったように、思える。その気体が球形となり、自分の目の前でいつも宙に浮んで静止しているように、教子には思える。それは、男が欲しいという感覚でなく、男の全体を要求するという感覚だ。
これは、わかる気がする。発情と性欲。表面にあるものと沈殿しているもの。発情は刹那的で解消も容易だけど、性欲はずっとうっすらそこにあるという感じ。
なんとなくだけど、発情は「受ける」ことで解消されるけど、性欲は自分から誰かに襲いかかることで解消される、破壊的なものの気がする。なんとなく。
最近はホラーをよく読んでいる。あと村上春樹『街とその不確かな壁』読み終わった。
小野不由美『魔性の子』も久々に読んだ。十二国記はスプラッタな描写を避けていたけど、『魔性の子』は露骨だね。凄惨さが伝わってくる。それにしてもこれがシリーズ1作目ってすごいな……この時点で十二国記の世界は小野不由美の頭の中でどのくらいでき上がってたんだろう。