村上春樹の新刊『街とその不確かな壁』を読み、「なんか世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドと似てる気がするなあ」と思って読み返したら最初に入ってる「世界の終り」の地図からして同じすぎて笑った。
『世界の~』(1985)に出てくる「世界の終り」と、『街と~』(2025)に出てくる「壁に囲まれた街」はかなり似てるけど、こまごまとしたところが違っている。私はどちらかというと『街と~』に出てくる街のほうが、「終着点」感が強調されていて好きだった。こんな街に住むのもありかもしれないという魅力があった。
2つの物語の大きな違いとしては「終わり方」がありますね。「街」に行くのか、「街」から出るのか。
『街と~』の終わり方はなんか尻切れトンボ感があった。春樹の作品でこういう終わり方のは珍しい気がする。
『街とその不確かな壁』感想
・冒頭がナイーブ。序盤はそのまま観念的というか、抽象的な語り口が続いていて、うーんあんまり好きじゃないかも……と思っていたら、主人公が「街」から戻ってきて図書館で働くようになった辺りからいつも通り面白くなった。
やっぱり村上春樹はこういう具体的で実務的な話をしているところのほうが面白いんだよなあ。ねじまき鳥クロニクルしかり羊三部作しかり。
・サヴァン症候群と思われる「イエロー・サブマリンの少年」が登場する。春樹の作品ではこういう謎めいたキー・パーソンって少女のことがほとんどだから、少年が出てくるのって珍しい。
サヴァン症候群の人は女性より男性の方がずっと多いみたいだから、それで少年の設定にしたのかな。もしくは、終盤に主人公とこの少年との間に起こるある出来事に性的な含意を持たせないために、少年を主人公と同性にしたのかもしれない。
・春樹作品でスマートフォンが登場した場面初めて見た。
彼女はそこでふと思い出したように、ソフト・ジーンズのポケットから赤いプラスティック・ケースに入った携帯電話を取りだし、細い指を器用に使って、素早く画面をタッチしていたが、やがて顔を上げて感心したように言った。
「うーん、あってるわ。私の誕生日は本当に水曜日でした。間違いなく」
私は黙って肯いた。そう、もちろん水曜日に決まっている。イエロー・サブマリンの少年が計算を間違えるわけがないのだ。確認するまでもない。しかし自分の誕生日が何曜日だったのか、グーグルを使って調べれば、今では十秒もかからず誰にでも簡単にわかってしまうのだ。少年はそれをたった一秒で言い当てることができるわけだが、西部劇のガンファイトではあるまいし、十秒と一秒との間にどれほどの実利的な差があるだろう? 私は少年のために、少しばかり淋しく思った。この世界は日々便利に、そして非ロマンティックな場所になっていく。
(第二部、強調引用者)
春樹の作品では、スーパーで買ったものを紙袋に入れたり、インターネットを使わなかったり(『街と~』では、なんと図書館での業務にパソコンを使っていない!)、テレビを見ずにラジオを聞いたりと、登場人物たちがかなりアナログな暮らしをしている。スマホに入れたサブスクのアプリで音楽を聴いたりなんかしない。レコードか、せいぜいカセットテープで聴く。今時そんな人いるかいなと思うんだけど、確かにこういう”ロマンティック”な暮らし方の方が親和性があるんだよな。小説と。
今時の小説読んでて、メールの文面とか、ネットの掲示板の書き込みとか、ネットスラングとか出てくると、なんか……萎えるんだよな。こっぱずかしくなるというか、むずがゆいというか。私が古い人間だからですか?
それに対して、「街」はまさに「ロマンティックな場所」だった。薪ストーブで暖をとって、ランプに灯りをつけ、壁の外で取れる林檎でつくった菓子を食べる。こういう物語は落ち着く。やっぱり私は小説にはある程度の「古風さ」を求めてしまう。ラインよりメールで、メールより手紙で、Google Meetじゃなくて対面で会話をしていてほしい。
・主人公はある女性と親しくなるんだけど、その女性は性行為がうまくできない。以下は女性と主人公のやりとり。
「あなたのことは好きなの。だからできれば役に立ちたいとは思う。本当よ。でもどうしてもそんな気持ちになれないの」
(…)
「待っていても構わないかな?」と私は言った。
「待つって……私がそういう領域において積極的な気持ちになるのを待つということ?」
「積極的でなくてもかまわない」
「より受容的な気持ちになる、ということかしら」
私は肯いた。彼女はその提案について、しばらく真剣に考え込んでいた。そして顔を上げて言った。
「そう言ってくれるのは私としては嬉しいけど、それには長い時間がかかるかもしれない。というか、積極的にせよ、受容的にせよ、そういう気持ちにはもう二度となれないかもしれない。解決しなくてはならない問題が、私の側にいくつかありそうだから」
「待つことには馴れている」
(第二部)
このやり取りはいかがなものかと思った。文芸批評ではなくて枝葉末節な批判になってしまうけど、この場で女性が欲しかった言葉は「待つ」じゃなくて「できなくてもいい」「そんなことしなくても楽しい」だったんじゃないだろうか。なんか、この主人公は性行為が女性と男性の関係において必ずなくてはならないと考えているようで嫌だ。性行為以外にも親しくなる方法はいっぱいあるのに。
『ダンス・ダンス・ダンス』でホテル勤めの眼鏡の女性と最後に性行為したのもちょっと嫌だったな……「そんなことしなくたって仲いいじゃん」って思った。いきなり性行為するのはいいけど仲良くなってから性行為するのは残念に感じる。『1Q84』みたいに必然性のある性行為ならいいけど(うろ覚えだから確かではない)。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』再読感想
・前読んだときのことはほとんど何にも覚えてなかったけど、やっぱり面白かったな。村上春樹作品はめちゃくちゃ面白いのに読み終わるとストーリー忘れるから何度でも読めてお得。
・「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうはコミカルな文体、「世界の終り」のほうは静かな文体。文体の書き分けが各作品(数十年前のものから現代のものまで)でナチュラルに行われているのが春樹の地味にすごいところだと思う。
・春樹は「暗黒の地下世界」を頻繁に取り上げますね。ハードボイルド・ワンダーランドの地下世界、『ねじまき鳥クロニクル』の井戸の底。『騎士団長殺し』でも地下に降りていった覚えがある。この執着がどこから来るものなのかはいまだわからないが。
『街と~』に出てくる「溜まり」から打ち上げられた魚(「そんな魚たちの多くは目を持たなかった」「太陽の下で不快きわまりない異臭を放った」)は、「ハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる「やみくろ」の聖域に施されたレリーフとつながりがあるのかな、と思った。
「巨大な魚が二匹で互いの口と尻尾をつなぎあわせて円球を囲んでいる図柄だった。それは見るからに不可思議な魚だった。頭はまるで爆撃機の前部風防のようにぽっかりとふくれあがり、目はなく、そのかわりに二本の長く太い触角が植物のつるのようにねじまがりながらそこから突き出ていた。」(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』21)
ユートピアのような「世界の終り」(≒壁に囲まれた街)に、不穏で危険な場所「溜まり」を含ませることで物語に引っかかりができておもしろくなっている。やっぱり面白い作家ってすごい(小並感)。
・主人公と、図書館で働く女性の間に以下のような会話がある。
「図書館というのはとても平和なところだから。本がいっぱいあって、みんながそれを読みに来るだけ。情報はみんなに開かれているし、誰も争ったりしないわ」
「僕も図書館につとめればよかったんだ」と私は言った。ほんとうにそうするべきだったのだ。
この主人公の願いは『街と~』で果たされている。よかったな(泣)私もこういう図書館みたいに平和な場所で働きたい(泣)
「世界の終り」と「壁に囲まれた街」でも主人公は図書館で働いてるけど、きっと春樹にとっての労働の理想形がこれなんだろうなあと思った。うん……こんなふうに働けたらいいよね……
いまは『神の子どもたちはみな踊る』を読んでいる。あとホラー小説をいろいろと。洒落怖大好きだからインターネットホラーの話も今度したい。