まくら

読んだ本や好きな文章の感想

赤ちゃんはいつから「ばぶ」と言うようになったか:『吾輩は猫である』より

赤ちゃんの喃語を「ばぶ」「ばぶばぶ」みたいに表記するのって結構最近(早くても戦後とか)のことかと思ってたんですけど、夏目漱石吾輩は猫である』(1905発表)読んでたら赤ちゃんが「ばぶ」と言うシーンがあって驚いた。

それで赤ちゃん言葉「ばぶ」はいつごろ発生したものなのか気になり、調べてみた。

 

 

吾輩は猫である』での用例

一番小さいのがバケツの中から濡れ雑巾を引きずり出してしきりに顔中撫で廻わしている。雑巾で顔を洗うのは定めし心持ちがわるかろうけれども、地震がゆるたびにおもちろいわと云う子だからこのくらいの事はあっても驚ろくに足らん。ことによると八木独仙君より悟っているかも知れない。さすがに長女は長女だけに、姉をもって自ら任じているから、うがい茶碗をからからかんと抛出して「坊やちゃん、それは雑巾よ」と雑巾をとりにかかる。坊やちゃんもなかなか自信家だから容易に姉の云う事なんか聞きそうにしない。「いやーよ、ばぶ」と云いながら雑巾を引っ張り返した。このばぶなる語はいかなる意義で、いかなる語源を有しているか、誰も知ってるものがない。ただこの坊やちゃんが癇癪を起した時に折々ご使用になるばかりだ。

(十、強調引用者)

青空文庫へのリンク→夏目漱石 吾輩は猫である

 

強調部分の書きぶりを見ると、「ばぶ」は漱石の造語……というか漱石の娘「坊やちゃん」が勝手に使っているオリジナルの言葉であるように思われる。つまりこの時代に「ばぶ」=「喃語を表した言葉」という等式が一般に受け入れられているようには思われない。あくまでここを読んだだけの印象ですが。

 

 

 

青空文庫全体での用例

で、次、青空文庫内の作品に出てくる言葉を調べられるデータベースAozorasearch 青空文庫全文検索で「ばぶ」の用例を調べてみた。

結果、ヒットしたのは漱石の『猫』以外だと山本周五郎柳橋物語』(1946発表)内に出てくる4例のみ。カタカナの「バブ」でも検索しましたがそっちは0件。

 

 ――三日の夜は幸太郎の寝つきが悪く、いくたびも乳をつよく吸っておせんを驚かした。十時ころにいちど用を達させ、それから少しうとうとしたと思うと、痛いほど激しくまた乳を吸われた。からだじゅうの神経がひきつるような感覚におそわれ、おせんは思わず声をあげて乳を離させた。
「いやよ幸ちゃん、吃驚するじゃないの、どうして今夜はそうおとなしくないの」
ああちゃん、ばぶばぶ、いやあよ
「なあに、なにがいやなの」(五)

「ほらじゃぶじゃぶ、おもちろいわねえ、じゃぶじゃぶ、みんなしてじゃぶじゃぶ、幸坊も大きくなったらじゃぶじゃぶねえ」
ああちゃん、ばぶばぶ、おもちよいね、はは
 子供は背中ではねた。笑いごえもたてた。しかし同時に震えていた。怖いのだ、怖いけれども自分でそれをまぎらわそうとしている、こんな幼い幸太郎が、……おせんはいじらしさに胸ぐるしくなり、いくら拭いても涙が出てきてしかたがなかった(五)

「さあたまたまのうまよ、おいちいのよ、幸坊、たくちゃん喰べてね」
「たまたまね、はは」子供は木の匙でお膳の上を叩き、えくぼをよらせてうれしそうに声をあげた、「――こうぼ、うまうまよ、ああちゃんいい子ね、たまたま、めっ」
「あら、たまたまいい子でちょ、幸坊においちいおいちいするんですもの、ああちゃん悪い子、ああちゃん、めっ」
ああちゃんいい子よ、ばぶ」子供はこわい顔をする、おせんはいつもいい子でないといけない、おせんが自分を叱ってみせたりすると子供は必ず怒る、「――ああちゃん、わるい子、ないよ、いやあよ、ああちゃんいい子よ」(七)

 おせんは走りだした。するとふいに子供の泣きごえが、聞えた、「ああちゃん」という声がはっきりとするどく、すぐ耳のそばで呼ぶかのように聞えた。子供の手がぎゅっと肩を掴む、子供は身をかたくして震えている。震えながら奇妙なこえで笑った。「はは、ばぶばぶね、ああちゃん、ははは」それは出水の中を逃げるあのときのことだ、恐ろしいということを感づいていながら、おせんの言葉に合わせてけなげに笑ってみせた。ああ、おせんは足が竦み、走れなくなって喘いだ。(七)

すべて強調引用者。青空文庫へのリンク→山本周五郎 柳橋物語

 

最初の例を見ると「ばぶばぶ、いやあよ」となっていて、『猫』の「いやーよ、ばぶ」と用法がよく似ている。このことから、山本周五郎漱石の例を踏まえて書いたのじゃないかな……という予想が立てられる。

 

 

 

ググった

漱石の例が初出なんじゃないか?といううっすらした予想を立てつつ、ググってみた。「赤ちゃん ばぶ 由来」「赤ちゃん ばぶ なぜ」とかでググると、次のyahoo知恵袋が上位にヒットする。

 

 

日本だと「だぁだぁ」と聞こえる喃語が最も多いそうですが、英語ですと「babble(泡=bubbleではありません)」と聞こえるそうで、これが日本語になる課程で重なって、「babble babble→バブバブ」になりました。「バブー」は「バブバブ」のバリエーションです。なお、赤ちゃんのことを「babe」というのもbabbleから来ています。

 

まさかの英語由来説。ただ、辞書などいろいろ引いてみましたがこの情報を裏付ける資料は見つけられず。そういう説もあるらしいということで頭に留めておく。

漱石は英語教師だったわけだしbabbleを意識して「ばぶ」を『猫』で使った可能性も無きにしも非ずだとは思いますが、わからん。

 

 

 

辞書を引いた

広辞苑、明鏡では立項なし。

デジタル大辞泉日本国語大辞典には立項あり。

 

デジタル大辞泉

ばぶう(読み)バブウ

[副]赤ん坊の発する声を表す語。ばぶばぶ。

※10年ぐらい前に買った手持ちの電子辞書に入ってる「デジタル大辞泉」には立項なし、コトバンク内のデジタル大辞泉には立項あり。最近追加された?

 

日本国語大辞典

ばぶ〔名〕九州で大人が子どもを制するときのことば。また、小児が怒るときに発する語。

ばぶ〔名〕[方言]餅をいう小児語。あんも。

 

ウーーーーン・・・・・・

この二つの辞書を見て思ったのは、大辞泉では「ばぶ」ではなく「ばぶう」になってること、日国では「小児が怒るときに発する語」という限定がなされていることから、なんとなく大辞泉「ばぶう」と日国「ばぶ」は語源を異にする語なんじゃなかろうかという気がする。

大辞泉「ばぶう」の項がここ10年ぐらいに追加されたものだとしたら、サザエさんに出てくるイクラちゃんの「バブー」とかを使ってる可能性もある(マジの憶測です)

一方で日国「ばぶ」は「怒るとき」っていう限定をわざわざしていることから、漱石『猫』の「いやーよ、ばぶ」の用例に基づいたものなんじゃなかろうか・・・・?

 

あと、日国の「九州で大人が子どもを制するときのことば」というのについては詳しいことをまだ調べられていない。ググってもそれらしい情報は見つからず。今度図書館行ったときに方言辞典を引く機会があれば調べてみます。

 

 

 

結論

わからん。説としては

漱石の造語

②英語

③方言

この3つを考えたけど、複数の要素が絡んでる可能性もあるし、まったく別の語源があるのかもしれない。

 

なお、

少納言 KOTONOHA「現代日本語書き言葉均衡コーパス」

というデータベースでも「ばぶ」の用例を調べてみましたがヒットはほぼなし(2000年代初頭のブログにそれっぽいのが1件あったのみ)。とにかく用例をあまり見つけられなかった。ジャパンナレッジとかで調べた人いたら教えてください。

 

 

(歌集)永田和宏『メビウスの地平』

「あの胸が岬のように遠かった」というフレーズが心に突き刺さって離れなかったので永田和宏の歌集を読みました。

『知の体力』とか『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』とかは軽く読んだことがあったんですが、歌集をちゃんと読んだのはこれが初めてです。

 

 

 

蚯蚓腫れのアスファルトの坂くだりつつかろうじて神にはとおきはつ夏

 

全体的に「わかりやすい」とは言えない歌が多かった印象ですが、私は好き。

わかりやすくはないけど、「難解」というわけでもないんですよね。なんというか、典拠を知ってなきゃわからないとか使われてる言葉が難しいとかじゃなくて、「取り合わせ」が奇抜。私は「具体的な情景」と「抽象的な感情」とが組み合わされてる歌が印象に残ったんですが、情景と感情の間のジャンプ、詠まれてる対象と対象の間の懸隔が激しい。

上に挙げた歌も具体と抽象の間に飛躍を感じる歌で正直意味はよくわからないのですが、でも「雰囲気」は感じる。この雰囲気ってつまり、私がこれまで実際に見たことのある(もしくは、見たことがある気がする)風景、感じたことのある感情が記憶から引き出されたもので、そういう鮮明なイメージを想起させてくれる歌が私は好きです。

ひび割れたアスファルト、夏、下り坂、蝉の鳴き声が激しくて、坂を下り切った先には薄暗い森に包まれた神社がある。色あせた鳥居が初夏の日差しを静かに浴びている、とかそういう景色が自分の中から引きずり出された。実際はそんな風景見たことないんですが。

 

 

 

 

くれないの愛と思えり 星掴むかたちに欅吹かれていたる

 

「くれないの愛」と「欅」の間の飛躍……わからん……わからんけど、「伝わる」。

この歌集はこういう説明不足の歌が多くて、でも作者のそのときの感情?パッション?そういうものがしっかり伝わってきたからなんじゃこりゃみたいには思わなかった。確か『知の体力』で永田さん自身が「短詩系文学で大事なのは、嬉しいとか悲しいとかいった最大公約数的な形容詞を使わずに、物の描写で作者の特殊な感情を伝えること」と述べられていたのですが、そういう作歌の態度がしっかり実践されている歌たちが収録されていると思った。

「星掴むかたち」に風に吹かれている欅、その下に立って夜空を見上げて「くれないの愛」について思う。「くれないの愛」って何かわかんないけどきっと激しくてまだ成就していない恋で、そういう激情にかられた人間が紺青の空の下で一人立ち尽くしている、その対比がいいんですね。

 

 

 

 

あと韻を踏んでいる言葉遊び的な歌もちらほらあってよかったです。

 

かくれんぼ・恋慕のはじめ 花群に難民のごとひそみてあれば

錫色にすすきが揺れるもはやわれと刺し交うべき影はもたぬを

ほおずきの内部にひっそり胎されてほのお以前の火のほのぐらき

 

韻を踏んでる文、日本語を愛してもてあそんでいる感があって私は好きですね……

音から受ける印象も踏まえて作品を作れる人、日本語上級者という感じで出会うとほれぼれする。

ほか韻を踏む系で私が好きな作品は、種田山頭火の「あざみあざやかなあさのあめあがり」。これ以上に雨上がりの朝にぴったりな言葉ある?

 

 

 

 

あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年

 

上の句が本当にめちゃくちゃ良い。「あの胸が岬のように遠かった」……? もうこれだけで一つのドラマができる。岬なんて生まれてこのかた行ったことあるかどうかも定かじゃないのに、髪をなぶる潮風、水平線、岬の突端、そこに立つ愛すべき人、そういうビジョンがいっきに脳内に広がる。

下の句……これもよくわかんないですね……「おれの少年」は「おれのものである少年」(外部の存在)なのか、「おれのなかにいる少年」(自分の一部)なのか。そもそもこの「少年」はboyなのか、それとも「幼年期」を指すのか。よくわらかないけど、でもこのわからなさがいい。何もかも説明されてしまうと能動的に読めなくてつまんないから……

 

この歌、文庫版の解説読むと「『あの胸』は女性の胸であり、かなわなかった性欲が歌われている」って書かれていて「あ!?!??!」になっちゃった。性欲!? これって性欲の歌なんですか? 私はそうは思わん、プラトニックな切ない少年期の愛のイメージで私はこの歌を愛誦し続けるよ。

 

 

 

 

銹におう檻をへだてて対き合えば額に光を聚めておりぬ

 

この歌、「さびにおう おりをへだてて むきあえば ぬかにひかりを あつめておりぬ」で読み方あってる? 特に「額」、音数でいえば「ぬか」だと思うんだけど「光」とのつながりでいえば「ひたい」である可能性もある……韻ふみがちな歌集だったのでなおさら迷う……

この歌集、恥ずかしながら調べないと読めない漢字が多かった。調べればわかるものはまだしも、この「額」みたいに読み方を定められない字はルビを振ってもらえると大変助かりますわね……

 

漢字の読み問題といえば、以前どこかで読んだ萩原朔太郎「天景」(『月に吠える』所収)に出てくる「四輪馬車」の読みについての話が興味深かった。

 

しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり、
しづかにきしれ四輪馬車。
光る魚鳥の天景を、
また窓青き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。

「四輪駆動」は「よんりんくどう」なので普通に読んだら「よんりんばしゃ」になるかもしれないんですが、この詩では「しりんばしゃ」と読むのが適当という話だった。

理由は、この詩では「づかにきりんばしゃ」と「し」での押韻がなされているとして読んだ方が「馬車のきしみ」感がより出るから、ということだった気がする。なるほどな~と納得し、そういうわけなので読みが難しい漢字にはルビを振ってほしい(編集者への要望)

 

 

 

 

花の闇軋めるほどの抱擁よ! 見事に肉となった泥たち

泉のようにくちづけている しばらくはせめて裡なる闇繫ぐため

 

とても好きだった二首。ほの暗くて激しい愛を詠んだ歌が印象深かった。

「花の闇軋めるほどの抱擁」はまだわかるんですが、「見事に肉となった泥」がこれまた難しいですね……でも、なんとなく「抱擁」が後ろ暗いものであるようなことは感じる。「肉となった泥」は抱擁している二人?

こういう風に、永田さんの歌は歌全体で意味が通るようにするんじゃなくて、「花」「闇」「軋める」「抱擁」「肉」「泥」っていうような一単語一単語がもつイメージで勝負してきている感じがした。それで十分伝わるんですよね、何かの「核」が。何の核なのかはうまく説明できないけど、そもそも言葉を組み立てることによっては説明できないようなことを永田さんは伝えようとしているのだと思う。

 

そしてこういう作品の作り方って、日本語に対してものすごく繊細で敏感な感受性をもってないときっとできない。

「泉のようにくちづけている」という比喩もそう。「花びらのように抱き合い」とか「どんぐりのごとき孤独」とか「崖のようにひとりの愛を知り」とか……比喩が奇抜で、でもおかしくない。言葉に引きずられているんじゃなくて、情感の核を引きずり出すための言葉を慎重に(もしくは直感的かつ的確に)選んでいるんだろうなと感じる。

 

それにしてもこの歌……「泉のようにくちづけている」で清冽な、神話みたいな明るい愛の様子をイメージさせておいて、下の句で一転「せめて裡なる闇繫ぐため」。

い、淫靡…………………………このイメージの反転、すさまじくないですか? 日差しの下で抱きあう若い恋人たちの間で、内なる闇が繋がれている。まばゆい清潔さと口内の湿った闇の対比、「秘め事」って言葉がよく似合う。

 

 

 

きまぐれに抱きあげてみる きみに棲む炎の重さを測るかたちに

 

これも言葉選びがすごく素敵。「きみに棲む」「炎の」「重さ」を測る「かたち」に

……………………? な、何事……………? 全部なかなか結び付きがたい言葉たちなのに気持ちよく調和してばっちり意味が伝わる。こういう人を「文学者」って呼ぶんでしょうね………脱帽です。永田和宏の歌、もっと読みたい。

 

 

島尾敏雄『死の棘』読んだ(『男流文学論』③)

『死の棘』やっと読み終わった。会社の始業前と昼休みに毎日ちょっとずつ読んでたんだけどそのたびに気が滅入った。夫の浮気が原因で発狂した妻と、その妻と抱き合いながらぬかるみの中を滑り落ちていくようにして自身も狂っていく夫の話。

今週のお題「最近おもしろかった本」)

 

 

ながしには食器が投げ出され、遂にその日が来たのだと思うと、からだもこころも宙吊りにされたようで、玄関につづく二畳のまから六畳を通って仕事部屋に突っ立った私の目に写ったのは、なまなましい事件の現場とかわらない。机と畳と壁に血のりのようにあびせかけられたインキ。そのなかにきたなく捨てられている私の日記帳。わなわなふるえだした私は、うわのそらでたばこを吸っていたようだ。ふたりのこどもを連れてどこか遠いところに行くつもりの妻が、さしあたり駅前の映画館で半分だけ見て青冷めて帰ってきたが、前の日までの、三日とまたずに外泊のために出かけていく夫に哀願していたときのおもかげはもうどこにも残っていない。そして妻の前に据えられた私に、どこまでつづくかわからぬ尋問のあけくれがはじまった。

 

冒頭。妻(ミホ)が発狂するところから物語が始まるの、スピード感があっていいね。ただ1ページ目から発狂してしまって残り600ページどうするんだ…?と思ってたら最後まで発狂してた。

島尾敏雄のことは恥ずかしながらこれまで名前も知らなくて、『男流文学論』(上野千鶴子小倉千加子富岡多恵子)で話題になっていたので読んでみたんですが『男流文学論』経由で読んだ本の中では大分好きなほう。谷崎潤一郎『卍』もよかったけど。

 

 

この本はとにかく子供が不憫だった……私は子供だからという理由だけで子供に肩入れするタイプではないんですが、さすがにこれはひどかった。毎日毎日両親の暴力絡みのいさかいを見せられて(そのくせ家の中でセックスもしてるの、地獄か?)、衣服は汚く部屋は荒れ放題で、近所の子供たちにものけ者にされ、どんどん目つきがすさんでいく。その過程をこんなに緻密に描写しているのに罪の意識が「私」から全然感じられなかったのが不思議だ。

 

泣きべそをかいてあとについていると思ったマヤが見えない。しまった、神かくし。(……)瞬時の狼狽を取りもどそうと、目を据えて見まわすと、思わぬ先のほう、鉄路沿いの片側道へ、うしろを振り向き振り向き、前かがみになって、夢中になって逃げて行くマヤの小さくなったすがたが見えた。いつのまにそんなところまで行ったか。家にもどる小路とは反対のほうだ。どうしてそっちに行く気になったか。駆け足で近づくと、マヤはおびえて、まるくした目を一層赤く充血させ、災厄から逃れる真剣な顔つきで、かえって足を早めようとする。

「ニャンコ! あぶないから、とまりなさい」

 やっと手をつかまえ、引き止めると、あきらめて立ち止まったが、私を見る目はうつけて他人をながめる目だ。

 

荷物のあいだにふとんを敷き落ち着かぬ眠りを求めるなんにちかの夜があった。こどもらが安らげるはずはなく、何かに追われた小さなけだものが見さかいなく動きまわるぐあいだ。家にもどっても、親たちのあやうげな均衡にかえって居たたまれない静けさに出会うか、発作のなかでつかみ争う両親を見るだけだから、すぐまた外にとび出していく。(……)なかまたちにやつあたりしているか、のけものにされ石をぶつけて荒れているかもしれない。時折り何を感じてか、いきせききって家のなかに駆けこんできたが、親たちがいるのを確かめると、くびすをかえしまた外のどこかに前のめりに出かけて行った。

 

負けはじめるとどこまで広がるかわからない。それを伸一はすっかり見ているはずだ。感情が荒々しくふくれてきて、私は伸一をうつむけて左腕にかかえなおし、その尻を右のてのひらで思いきり叩いた。私は伸一の白くやわらかいからだつきが好きだし、彼もまた私が好きでこの乱暴をゆるすにちがいない。(……)甘い了解は通ったと瞬間思ったのだが、伸一が私に示したのは強暴なあばれだった。(……)尋常ではない彼の目つきに余計たけってきて、みんな気がへんになれと思い、ロンパースに手をかけ、引き裂き、下着のシャツもパンツも破って素裸にした。ふとった白い肉が出、乳のようなにおいににくしみと愛着とまざりあったへんなきもちだ。(……)

「じぶんのきたない罪をせめられた苦しまぎれに、こどもにやつあたりするようなひとなど見たことがない」

 と青ざめた唇をわななかせる妻の足もとで、伸一はひざをくずさず坐ったまま、ちぎられたロンパースを無言でたたんでいた。私はそばでうつけて立ちつくしていただけだ。

 

「私は伸一の白くやわらかいからだつきが好きだし、彼もまた私が好きでこの乱暴をゆるすにちがいない」ってすごいセリフだな。あまりに傲慢、あまりに自分たちの振る舞いに無自覚すぎないか? でも、本当に無自覚な人間が「ひざをくずさず坐ったまま、ちぎられたロンパースを無言でたたんでいた」息子の様子なんて描写できないと思うんですよ。「私」はうつけたふりをした非常に明晰な人間なんでしょうね。

この平仮名の多い、奇妙に柔らかい文体もそういう「うつけたふり」を演出するのに一役買っていると思う。文体については『男流文学論』でも言及があった。

 

富岡 何を投げたとか、どういう角度でどうだっていう、夫婦喧嘩の細かい――そのときの窓の外の明るさの細かいディテールまでわりに繰り返し書いている。飽きずに。そういう繰り返しによって読者が巻き込まれてしまうんじゃないかという気はしましたね。そんなことなかった?

上野 ああ、そうか。となれば、文体が偏執的であるだけでなく、そういう錯乱的な事態に対する偏執のことを狂気というんですから、だとしたら、狂気だったのはやっぱり島尾敏雄なんですよ。

富岡 文体がね。そして、普通の人間だったら漢字に書くところをわざと平仮名にひらいているところがずいぶんあるでしょう。仮名が多い。またときどき漢字にしたり。意識的にしていると感じましたね、文章を読んでいて。べつに情緒でべたべた書いて、装飾が多いというのじゃないの。だけど、つくっているんですね。こういうつくり方じゃなくて、島尾敏雄の他の小説みたいに、もっと散文的にきちっと書いていけば、こんなに読者は巻き込まれなかったかもしれない。

 

確かに偏執的な文章でしたね。ずっともやもやと曖昧な印象を受ける文体なのに妻の狂気や家の崩壊具合に対する描写はとても細かい。不思議な本だった。でもこういうの嫌いじゃないです。

『男流文学論』ではミホ(発狂した妻)の古代性と近代性について主に語られていたんですけど、私はミホの書いた手記のほうは読んでいないのとミホと敏雄のなれそめやバックグラウンドをよく知らんのでそのへんはあまりピンとこなかった。女の古代や近代に興味のある人は『男流文学論』読んでみても良いと思います。

 

 

 

男流文学論①はこちら

 

J.D.サリンジャー著/村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読んだ

前々から名前は知っていて気になっていた。ようやく読めた。

海外文学って「有名で気になっているが読んだことがない本」が多い。モモとか長くつ下のピッピとか、実は読んだことがない。星の王子様は高校生のときに初めて読んだんだけど「これは小中学生のころに読むべきだったな……」と思った。

キャッチャー・イン・ザ・ライも中高生の時期に読むとよい本かもしれない。

 

 

 

全体的にオタク特有の誇張表現みたいなクソデカ比喩が多くて面白かった。

 

母親の方はブラッドハウンドなみに耳が鋭いんだ。だから両親の寝室の前を通り過ぎるときには、とことんこっそり歩いた。呼吸もしなかったくらいだよ、ほんとの話。父親の方は一度寝ちゃうと、椅子でぶん殴ったって起きやしない。でも母親は違う。たとえばシベリアのどっかで君がこそっと咳をするだけで、彼女はぱっと目を覚ましちゃうわけだ。もうまっしぐらに神経質なんだよ。

そこにはDBがフィラデルフィアでアル中の女の人から買い取った、気がふれたみたいにでかい机があった。やたら巨大なベッドもあった。なにしろ縦十マイル、横十マイルくらいあるんだよ。(……)フィービーがそのクレイジーな机に向かって宿題とかをやってる姿を、君にも見せてやりたいよ。

※10マイル=約16キロ

 

 

 

ホールデンがタクシーの中でアヒルの話をするシーンは、村上春樹ねじまき鳥クロニクル』の「アヒルのヒトたち」の話を思い出した。

 

「だからアヒルたちがさ、あの池でひらひら泳いでいるじゃない。春とか、そういう季節に。あのアヒルたちが冬になったらどこに行くのか、あんたひょっとして知らないかな?」

「何がどこに行くかって?」

「アヒルたち。ひょっとして知ってるんじゃないかと思ってさ。つまりさ、誰かがトラックみたいなのに乗ってやってきて、みんなを集めて連れて行っちゃうんだろうか。それともアヒルたちは自分たちで勝手にどこかに飛んでいくのかな。南に移動するとか、そういうことで」

 ホーウィッツはくるっと後ろを向いて、僕をじっと見た。すごく激しやすいタイプなんだよ。まあ、悪いやつじゃないんだけどね。「なんでそんなことを俺が知ってなくちゃならないんだ?」と彼は言った。「なんでまた俺が、そんなしょうもないことをいちいち知ってなくちゃならないんだ?」(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)

 

「アヒルのヒトたちは池がぜんぶ凍ってしまうと、みんなでどこかに移っていってしまったの。ねじまき鳥さんもあのヒトたちのことを見たらきっと好きになったと思うんだけれどな。春になったらまたここにいらっしゃい。今度はアヒルのヒトたちに紹介してあげるから」(『ねじまき鳥クロニクル』第3部41)

 

村上春樹が影響を受けたのかどうかはわかりませんが、こういうつながりを見つけるのって楽しいですよね。

 

 

 

私が好きだったのはホールデンがミスタ・アントリーニにした「わき道」の話と、物語のラスト。

 

このコースのクラスでは、生徒が教室で一人ひとり立って、スピーチをしなくちゃならないんです。なんていうか、即興みたいな感じで。それで話がちょっとでもわき道にそれちゃうと、みんな先を争うように『わき道!』って怒鳴らなくちゃならないわけ。そういうのって僕には我慢できなかったんです。

僕が言いたいのはですね、なんていうか、いったん話を始めてみるまでは、自分にとって何がいちばん興味があるかなんて、わからないことが多いんだってことなんです。それほど興味のないものごとについて話しているうちに、ああそうか、ほんとはこれが話したかったんだって見えてきたりするわけです。(……)少なくとも誰かが何か面白そうなことをやっていて、それに夢中になりかけてるみたいだったら、しばらくそいつの好きにさせておいてやるのがいちばんじゃないのかな。そういう具合に夢中になりかけてるやつを見てるのって、なかなかいいものなんです。ほんとに。(……)口を開けば、単一化しろ、画一化しろ、そればかりなんだ。でもね、中にはそんなことができないものだってあるんですよ。つまりですね、誰かにそうしろと言われたからといって、はいそうですかって、ほいほいと単一化したり簡略化したりできないものもあるってことです。

 

これ読んで、ホールデンは本当になんというか繊細で純粋な感性を持っている人間なんだなって思った。「世間知らず」とかそういうけなす意味ではなく、本当に素敵な人だなと思った。こういう人間がこういう感性を保ったまま大人になれたらいいよね。

就職活動や転職活動をしている人間にはかなり堪える内容ではないですか?「わき道」「わき道」って怒鳴られながら口角引きつらせて話すより、好き勝手に脱線して「本当に話したいこと」に気づきながら話せる、そんな会話を友達としたいよ。筋道立てて話すのが苦手なんです、私は・・・・・・

 

 

 

ラストの、メリーゴーラウンドに乗る妹のフィービーを雨の中で眺めるシーンが作中で一番美しかったと思う。真夜中にベッドでフィービーと話しながらホールデンがいきなり泣いちゃうシーンも好きだけど。

 

 それからもう正気じゃないみたいにどっと雨が降り出したんだ。それこそバケツを思い切りひっくり返したみたいにさ。いや、文字通りの話だよ。子どもたちの親だとか、そこにいた誰もかもが、ずぶ濡れにならないために回転木馬の屋根の下に駆け込んだ。でも僕はけっこう長いあいだ、そのままベンチに座っていた。おかげでぐしょ濡れになっちまったよ。(……)でもかまやしない。フィービーがぐるぐる回り続けているのを見ているとさ、なんだかやみくもに幸福な気持ちになってきたんだよ。あやうく大声をあげて泣き出してしまうところだった。僕はもう掛け値なしにハッピーな気分だったんだよ。嘘いつわりなくね。

 

回転木馬に乗ってぐるぐる回る妹を見るだけで泣き出しそうなくらいハッピーな気持ちになる人間って、追いつめられて追いつめられて、ほとんどいろんなことが限界になってる人間なんじゃないかと思うんですよね。それでこのシーンは私は妙に悲しくなった。大雨の中回り続ける回転木馬とそれに乗る妹、温かくてハッピーだけど、それに幸福を見出す感性の背景にあるものがやるせない。

 

 

やはりこれは高校生のころに出会っておきたかった本だな~って思うけど人間の感性に子供も大人もないので何歳で読んでもよいです。(?)