まくら

読んだ本や好きな文章の感想

大須賀めぐみ『マチネとソワレ』と、江戸川乱歩『孤島の鬼』

『マチネとソワレ』っていう演劇をテーマにした漫画が面白くて好きなんですけど、その中で出てきた江戸川乱歩原作『孤島の鬼』の作中劇(使い方あってる?)がドドドド好みで「ありがとう!!!!!!!!」っつって絶叫しながら読んだ。

 

『マチネとソワレ』はサンデーうぇぶりのアプリでいくらか無料で読めます。

あと『孤島の鬼』は青空文庫でも読めます → 江戸川乱歩 孤島の鬼

以下感想です(ネタバレ注意)

 

 

 

孤島の鬼のあらすじはマチソワの作者さんが漫画で描いたのをツイッターで公開してくださっています。

 

 

このマンガ読んだ時点で『孤島の鬼』は未読だったんですけど、メチャクチャ楽しめました。

原作読んだ後で言わせてもらいますが、大須賀先生の解釈と表現がすこすぎる。みんな、9巻の133ページを見てくれ。

 

あのさ・・・・・・・・・「自己否定から来る崇拝」です。私は自己否定から来る外部の美しい存在への崇拝が大好きなんですよ。自分のことが嫌いで嫌いで仕方なくて、こんな汚い体を抱えて生きていけない、神様みたいに美しい君を眺めることでかろうじて自分を保てているみたいな精神状態にある人間、心底いとおしい。この性癖が始まったのは多分萩尾望都トーマの心臓』という超絶ド名作を読んでからなんですが・・・・・

 

この9巻の・・・・・神のように悪魔のように美しい、主人公の兄演じる簑浦に見下ろされた主人公が完全に「諸戸」となり、階段の上に立つ簑浦の足元に涙を流しながら這い寄って

 

「君は…」

 

「なんて……美しいんだ。」

 

と簑浦の靴先に接吻するという原作にはないシーンがあまりにもあまりにも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・好きすぎる

 

 

君は美しい。

道雄さんはいつもそうおっしゃる。

そんなことで僕の機嫌がとれるとでも?

とんでもない!

とんでもないよ! 簑浦くん!!

僕は本当に、

本当に君ほど美しい生き物を知らないのです!

 

ここの問答さあ・・・・・・・・ハァ・・・・・・・・・・原作にないセリフなのに、ちゃんと語り口調が原作に寄せてあるのがいいよな・・・・・「変に気が滅入っていけない。」「君、あの人とは余程懇意だったのですか?」「君と二人でこの別世界へとじ籠めて下すった神様が有難い。」みたいな、近代文学的な原作の言い回しがそのまま使われてるの好感持てる。

あとこの「美しい生き物」って言い方が私、好きなんですよ・・・・三浦しをん『風が強く吹いている』でもそういうのがあったと思いますが、崇拝する対象を「美しい人」とか「美しい男」とかじゃなくて「美しい生き物」って言うのが・・・・なんというか、恋愛や性欲やそういう俗世の感情から切り離された宗教的賛美、という感じがする・・・・・

 

 

世界観をスチームパンクにしたのもびっくりするくらい「正解」だったな・・・・江戸川乱歩の描く異形をこんな形で表現してくれるとはなあ・・・・・この劇、見に行きたすぎる。

 

原作ものの改変、魔改造、俺は大いにアリだと思ってる。

表現媒体が変われば表現方法も変わってくるもんさ。

必ずしも原作と同じ世界観やシチュエーションを再現しなくてもいい。

再現すべきものは、感情だ。

監督クロケーのこのセリフ、わかるわ……翻訳文学とか古典のリライトとか考えるとわかりやすい。直訳しただけではネイティブが読んだときに感じるものと全く同じものは感じられない。「再現すべきものは感情」いい言葉だ。

 

 

あと2.5次元編もそうだったけど、ライバル関係にある二者が同時に劇をやって観客にジャッジされる展開好き。『ガラスの仮面』のヘレン・ケラー編的な・・・・

それからこれはマチソワ全体について言えるんだけど、オタク(特に女オタク)に対する解像度が高くて好き。あおいちゃん(2.3万ツイート)の「花吐き病 御/幸×夢主 いいねしていただければリストに追加します -リスト限定公開-」や、劇中で流れた般若心経についての長文考察ツイートのリアリティ、何?

 

「孤島の鬼」の劇は9巻から始まるので、興味のある人はぜひ・・・・

表紙は主人公演じる諸戸です。イケメンすぎない?普段はあの髪型でわかんなかったけどお前こんなにイケメンだったのかよ。

 

 

それにしても演劇をテーマにした漫画って面白いの多くない?マチソワ然りガラスの仮面然りダブル然り七色いんこ然り・・・・七色いんこ七色いんこが面白いというか手塚治虫が面白いという次元だが・・・・・・

 

 

トルストイ「クロイツェル・ソナタ」読んだ

トルストイを読んだのはこれが初めてだったがなかなか面白かった。

 

 

イワン・イリイチの死」目当てで読んだけど「クロイツェル・ソナタ」のほうが面白かったし好きだ。妻を殺した男が性愛について語る話。

愛と性と憎しみの関係性や生物学的性と絡めたフェミニズムなどについて述べられておりめちゃくちゃ興味のあるトピックなんだけど、明日返却しなきゃで時間がないので全然内容をまとめられていない。とんでもない誤読をしていたら失礼……

 

 

 

「(……)もし喫煙の快楽というものがあるとすれば、それはあのことの快楽と同じで、後になってやってくるわけです。だからあのことについても、もし快楽を得たいと思えば、夫婦が自分たちの間で、あの悪徳を育まなければならないのです」

「悪徳ですって!」私は反論した。「でもお話になっているのは、もっとも自然な人間の本性のことではないですか」

「自然な、ですか?」彼は言い返した。「自然な? いや、はっきり申し上げますが、私が辿りついた結論によれば、あれは決してその……自然なことではありません。そう、まったくその……自然なことではないのです。ひとつ子供にたずねてみるといい、純潔な処女にたずねてみるといいでしょう。(……)

 あなたは自然なことだというのですね! 自然なことは、たとえば食べることです。食べるのはうれしいし、簡単だし、楽しいし、しかも最初から恥ずかしくなんてありません。ところがあのことは、いやらしいし、恥ずかしいし、それに痛いのです。いいえ、あんなことは不自然ですよ! だから純潔な娘はいつもあのことを憎んできた――そう私は確信しています」

 

なぜセックスは「いやらしいし、恥ずかしいし、それに痛い」のか?まあ痛みは人によるだろうが、それにしてもなぜ人間のセックスは恥ずべきものとして隠されるのか?類人猿はほかの個体の前で平気でセックスするのに……

これは大いなる疑問ですね。ジャレド・ダイアモンドの『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』で触れられていたような気もするがあまり覚えていない。この本も面白いので人間の性に興味のある人におすすめです。

 

性的なものに対する嫌悪感ってのはどこから来るんでしょうね。後天的なもなのか先天的なものなのか、そもそも万人が多かれ少なかれ共通して持っているものなのか。今度調べたい。

 

 

 

理論上は、愛というものは何か理想的な、高尚なものであるはずだとみなされているのに、実際は口にするのも思い出すのも恥ずかしくてぞっとするほど、何やらおぞましい、下劣なものだということです。

愛は結局きたねえ性欲にすぎないよね問題。これだけならまあそだね~という感じで特に目新しいとは思わなかったんですが、ここからさらに「性欲によって憎しみがわく」という話に展開していったのが興味深かった。

 

 私は自分たち夫婦の間の憎しみがいったいどこからわいてきたのかといぶかしく思ったのですが、理由はとてもはっきりしていたわけです。つまりその憎悪とは、人間の本性がみずからを圧しつぶそうとする獣性に対してあげる抗議の声だったのですよ

 私は互いが憎しみあうのを不思議なことと思っていました。しかし考えてみればそうなるしかなかったのです。その憎しみとは、いわば犯罪の共犯者同士が、お互いの教唆や加担に対して示す憎しみに他ならなかったからです。だってあれは犯罪に違いありませんよ。哀れな妻が最初の一月でみごもったのにもかかわらず、私たちの汚らわしい性関係はずっと続いていたのですからね。

 当時自分では気がつきませんでしたが、憎しみがわく時期というのがあって、それは完全に規則正しくきちんきちんと巡ってくる、しかもその時期は私たちが愛と呼んでいた感情のわく時期と呼応していたのです。つまり愛の時と憎しみの時がワンセットになっていたわけで、激しい愛の時の後にはその分長い憎悪の時が訪れるし、愛の表れが淡白な場合は、憎しみの時も短いというわけです。当時の私たちには理解できませんでしたが、この愛というのも憎しみというのも、単に同じ一つの動物的な感情を別々の側から見たものに過ぎなかったのですね。

 

強調引用者。夫婦間で生じた憎しみは性欲(に対する反発)がもたらしたものだったということですね。そしてその憎しみがまたセックスによって解消される(「お互いにこれ以上ないほど残酷な罵り言葉を浴びせていた二人が、急に黙り込んだかと思うと、目を見交わし、微笑み、口づけして抱き合う」)。

大ゲンカした後にセックスみたいな流れ、ちらほら見ることある気がするけどマジで「何で??????」って思っていた、その疑問が解消された……のか?私は憎しみが性欲はじまりだと感じたことがないので全然実感がわかないんですが、そういうこともあるんでしょうか。

 

 

 

 こうして豚並みの生活をかろうじて正当化してくれていた子供を産むという目的までが失われてしまったわけで、その結果、生活はさらにいまわしいものとなってしまいました。

子供をもつことがセックスの悪徳を正当化してくれる(セックスはキショいので、子供を産むのでもないのにセックスするのは恥知らず)という思想、いかにもキリスト教的だな~と感じた。でもその感覚、キリスト教徒ではないが私もわかる。聖書に基づいてではなく、生まれ持ってのもしくはこれまでの人生に基づいて。

このへんの感覚がキリスト教圏でのソドミーや堕胎の否定につながっているんだろうな。

 

 

 

文庫版の解説が話の内容について簡潔にまとめていた。

 

 男女関係のすべてを性衝動や支配/服従関係の問題に還元するかのような主人公の論理戦略は、結婚をめぐる制度を小気味よいほどに「異化」する効果を発揮しています。彼によれば求婚は女性という奴隷をめぐる市場取引であり、妻は長期の売春婦であり、性交は暴力であり、結婚生活は憎しみと性欲の波の交代であり、医者は妻を堕落させる破廉恥漢です。貴族の家庭コンサートが公然たる姦通の現場のように描かれているのもこうした論理の延長なら、最後のシーンでナイフによる殺人が性交の隠喩のように書かれているのも、同じ原理によるものと思われます。

 

この「ナイフによる殺人が性交の隠喩のように書かれている」というの、まじでちっとも気が付かなかったし実は読み返してもどのへんが「そう」なのかわからなかった。まあでも言われてみればナイフで刺し殺すのは性交の隠喩かもな……

そう考えてみると中村文則「世界の果て」のやつも性交の隠喩だったのかもな……(中村文則が好きなのですぐ中村文則の話をする)

 

 

全体的に見て、私は「クロイツェル・ソナタ」の妻殺し男の話は結構納得できるところがあって好きだった。トルストイ芥川龍之介に通ずるような人間描写の鋭さが感じられてよかった。ほかの本も読みたい。

 

 

夏目漱石『それから』読んだ / 転職活動で疲れている

漱石の『それから』読んだんですけど漱石の本によく出てくる高等遊民?なんなんですか?羨ましいですね。私だって本当はこんな風に生きてみたいがなぜかせっせと履歴書を書いて笑顔を作りパソコンのモニターに向かって「ありがとうございます!」と言いながら頭を下げている。

 

 

「僕の知ったものに、まるで音楽の解らないものがある。学校の教師をして、一軒じゃ飯が食えないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやっているが、そりゃ気の毒なもんで、下読をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしているより外に全く暇がない。たまの日曜などは骨休めとか号して一日ぐうぐう寐ている。だから何所に音楽会があろうと、どんな名人が外国から来ようと聞きに行く機会がない。つまり楽という一種の美くしい世界にはまるで足を踏み込まないで死んでしまわなくっちゃならない。僕から云わせると、これ程憐れな無経験はないと思う。麺麭(パン)に関係した経験は、切実かもしれないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちゃんだと考えているらしいが、僕の住んでいる贅沢な世界では、君よりずっと年長者の積りだ」

 平岡は巻莨(まきたばこ)の灰を、皿の上にはたきながら、沈んだ暗い調子で、

「うん、何時までもそう云う世界に住んでいられれば結構さ」と云った。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

麺麭(パン)に関係した経験は、切実かもしれないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない。

 

うるせ~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!私だってそうやって生きてえが、でも、パンがないと死ぬだろ!!???!??

本当は私だって美しいものに感動するばっかりで生きてえよ・・・・・宮本から君へで裕二だって「人は感動するために生きてっからよ」と言っていた、本当にその通りだと思う。

むしろそういう美しいものに感動するための余暇と資金を確保するために必死で働いてんだよこっちはよ……この坊っちゃんが………

 

 

でも『それから』は取り澄ましてこんなこと言ってた理屈っぽい坊っちゃんが友人の妻を略奪する(しようとする)から“良い”んですよね……

 

主人公の代助が友人の妻である三千代に思いを告げる直前のシーンがすごくすごく美しかった。

 

 彼はしばらくして、

「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もっと早く帰ることが出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。その生命の裏にも表にも、慾得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡てが幸(ブリス)であった。だから凡てが美しかった。

 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸(ブリス)から生ずる永久の苦痛がそのとき卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然として、我と吾手を眺めた。爪の甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫える様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が花びらに着く程近く寄って、強い香を目の眩(ま)うまで嗅いだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽せて、失神して室(へや)の中に倒れたかった。

 

本当にこの……百合の香りを嗅ぐ描写、美しすぎる。

特に「花から花へ唇を移して」のところ。これもし私だったら「唇」じゃなくて「鼻」や「顔」にしたかもしれない。でもここで「唇」という語を使うから、代助が百合に接吻しているように見える、ひいては三千代への接吻を読者に想起させる。これぞ、耽美………百合の花に囲まれて眠ると死ぬという迷信(?)の出典はこのシーンなんじゃないかとすら思われてくる。

 

夢十夜の第一夜を思い出しますね。

 

すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと瓣(はなびら)を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)える程匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花瓣に接吻した。

 

 

最初のうちこそこの高等遊民がよ~~ッという気持ちで読んでいたが、この美への感性を目の当たりにし、三千代へまっすぐに向かう希求の気持ちを目の当たりにしたあとだと、ラストの「僕は一寸職業を探して来る」という言葉が非常に切なく響く。読み終わったあと「どうすればいいんだ……?」という呆然とした気持ちになった。でもこういう余韻、嫌いじゃないです。

 

 

転職活動、まあまあメンタルやられますね。やってらんね~~の気持ちでいっぱいです。面接でやりたいビジネスについて笑顔で語ったあとベッドに大の字になって「ビジネスなんて微塵も興味ね~~~~~~~~!!!!!!!!」って叫んでる。感動するためだけに生きたい。

 

 

 

『伊曾保物語』と「counting sheep」の関わり

「眠れないときには羊を数えればよい」みたいな言い伝え(?)ってありますよね。

この前『伊曾保物語』の「いそほ帝王に答ふる物がたりの事」という話を読む機会があったんですけど、そこで「睡眠」と「羊を数えること」が関連して語られており、「眠るときに羊を数える」という行為の起源は何なのか気になったため調べてみました。

調査方法は全てgoogle検索です。

 

 

『伊曾保物語』(中巻・第四)「いそほ帝王に答ふる物がたりの事」

さるほどに、ねたなを国王いそほを語らひ、よなよな昔今の物語どもし給ふ。ある夜、いそほ、夜ふけて、ややもすれば眠りがちなり。

「奇怪なり。語れ語れ」

と責め給へば、いそほ謹しんで承り、叡聞に備へて云(いはく)、

「近頃、ある人千五百疋の羊を飼ふ。ある道に川有り。其の底深くして、步にて渡る事かなはず、常に大船を以て是を渡る。ある時、俄に帰りけるに、舟をもとむるによしなし。いかんともせんかたなくして、ここかしこ尋ね行きければ、小舟一艘汀に有り。又ふたりとも乗るべき舟にもあらず。羊一匹我と共に乗りて渡る。残りの羊多ければ、其のひまいくばくの費へぞや」

と云ひて、又眠る。其の時、国王逆鱗有て、いそほを諫めてのたまふ。

「汝が睡眠狼藉也。語果たせ」

と綸言有ば、いそほおそれおそれ申けるは、

千五百匹の羊を小舟にて一疋づつ渡せば、其時刻いくばくかあらん。其の間に眠り候

と申ければ、国王大きに叡感有て、「汝が才覺はかり難し」。

(伊曾保物語 - Wikisource参考に一部仮名遣いなど改変。強調引用者)

 

だいたいの内容は

いそほという人物が王様と話しているときに眠くなってしまった。しかし王様は眠らずにもっと話せといそほに言う。そこでいそほは「千五百匹の羊を一匹ずつ舟で渡す」話をして、「一匹ずつ舟で渡せば大変な時間がかかる。その時間を使って寝ます」と言って寝た。

という感じですね。

 

そもそも『伊曾保物語』とはイソップ物語(イソップ寓話)』の翻訳で、1615-24に刊行された仮名草子(かな書き小説)。

で、『イソップ物語』はというと、紀元前三世紀ごろに成立した説話集。古代ギリシャのイソップが作ったと伝えられています。

 

 

counting sheep

こちらも起源について調べるといろいろ出てきますが、結論から言うと12世紀初頭にスペインで書かれた「Disciplina Clericalis」というテキストに載っているらしい話が、今回私が見つけられた中で最古の用例でした。そしてその内容は『伊曾保物語』中巻・第四と酷似しているっぽいです。

以下のサイトに紹介されていました。

 

Disciplina Clericalisの原典を確認できなかったので孫引きになってしまいすみませんが、上記のサイトから該当部分を引用します。

 

a king every night heard stories from his storyteller. One night, the king, burdened with worries from the day’s business, did not feel like going to sleep. He demanded extra stories from his storyteller. But the storyteller himself wanted to go to sleep. The storyteller’s ingenious solution was to tell a story that required counting sheep.

 

A farmer went to market and bought two thousand sheep. Returning home, he found his way blocked by a flood-swollen river. Along the shore was a small boat that could carry only two sheep across at a time. The farmer put two sheep into the boat and crossed over. The farmer needed to do that a thousand times in order to get all his sheep home.

 

According to Disciplina Clericalis, the storyteller fell asleep after stating that the farmer put the first two sheep into the boat. The king woke the storyteller and demanded that he continue. The storyteller responded that the story required the farmer to transport all the sheep across the river.

羊の数がちょっと違いますが、ほとんど『伊曾保物語』の内容と同じですね。

wikipedia(Counting sheepの項)によれば、Disciplina Clericalisイスラム圏の物語を主に下敷きにしているようで、したがって「羊を数える」という行為は、12世紀初頭より前の時点ですでにイスラム圏では広く知られていたのではないか ということでした。

 

 

 

で……ここまで調べたとき、「おや?」と。

『伊曾保物語』の原書『イソップ物語』は紀元前3世紀ごろ成立、

一方「counting sheep」の起源は私が見つけられた範囲では「Disciplina Clericalis」で、12世紀初頭成立。

イソップ物語に「羊を数える話」が載っていたのなら(Disciplina Clericalisの話がイソップ物語をもとにしているのであれば)、counting sheep の起源が大幅更新されるのではないか…?と。

 

 

調べてみました。

小堀桂一郎氏の研究によれば、仮名草子『伊曾保物語』の底本は シュタインヘーヴェル本『イソップ』とのこと。

これは「ドイツ人ハインリッヒ・シュタインヘーヴェルが、十五世紀までの西欧に流布していた各種のイソップ寓話集を集大成し、編者独自の見地から編纂・構成した大部のもの」*1とのこと。

 

で、濱田幸子さんの論文(*1)を拝読したところ……

『伊曾保物語』中巻・第四の話は、「イソップ寓話」ではなかった。

「シュタインヘーヴェル本『イソップ』の構成の第六部に属すアルフォンス寓話集抄」に収められている話であるとのこと。

 

オ~イ(笑) なんやねん(笑)

で、この「アルフォンス寓話集抄」ですが原典未確認。どういうものなのか詳細も未調査。ですが多分、少なくとも羊を数える話は「Disciplina Clericalis」からとった話なんじゃないんでしょうか…。

以上。力尽きたので調べた人いたら教えてください。

 

 

 

ちなみに、こういう起源調べる系で興味深い調査を行っている方がいらっしゃったのでご紹介します。かなりディープで面白いです。

 

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*1:濱田幸子(2011)「『伊曾保物語』成立についての一考察--イソポの伝記を中心に」,『佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇』39, pp.103-118