まくら

読んだ本や好きな文章の感想

島尾敏雄『死の棘』読んだ(『男流文学論』③)

『死の棘』やっと読み終わった。会社の始業前と昼休みに毎日ちょっとずつ読んでたんだけどそのたびに気が滅入った。夫の浮気が原因で発狂した妻と、その妻と抱き合いながらぬかるみの中を滑り落ちていくようにして自身も狂っていく夫の話。

今週のお題「最近おもしろかった本」)

 

 

ながしには食器が投げ出され、遂にその日が来たのだと思うと、からだもこころも宙吊りにされたようで、玄関につづく二畳のまから六畳を通って仕事部屋に突っ立った私の目に写ったのは、なまなましい事件の現場とかわらない。机と畳と壁に血のりのようにあびせかけられたインキ。そのなかにきたなく捨てられている私の日記帳。わなわなふるえだした私は、うわのそらでたばこを吸っていたようだ。ふたりのこどもを連れてどこか遠いところに行くつもりの妻が、さしあたり駅前の映画館で半分だけ見て青冷めて帰ってきたが、前の日までの、三日とまたずに外泊のために出かけていく夫に哀願していたときのおもかげはもうどこにも残っていない。そして妻の前に据えられた私に、どこまでつづくかわからぬ尋問のあけくれがはじまった。

 

冒頭。妻(ミホ)が発狂するところから物語が始まるの、スピード感があっていいね。ただ1ページ目から発狂してしまって残り600ページどうするんだ…?と思ってたら最後まで発狂してた。

島尾敏雄のことは恥ずかしながらこれまで名前も知らなくて、『男流文学論』(上野千鶴子小倉千加子富岡多恵子)で話題になっていたので読んでみたんですが『男流文学論』経由で読んだ本の中では大分好きなほう。谷崎潤一郎『卍』もよかったけど。

 

 

この本はとにかく子供が不憫だった……私は子供だからという理由だけで子供に肩入れするタイプではないんですが、さすがにこれはひどかった。毎日毎日両親の暴力絡みのいさかいを見せられて(そのくせ家の中でセックスもしてるの、地獄か?)、衣服は汚く部屋は荒れ放題で、近所の子供たちにものけ者にされ、どんどん目つきがすさんでいく。その過程をこんなに緻密に描写しているのに罪の意識が「私」から全然感じられなかったのが不思議だ。

 

泣きべそをかいてあとについていると思ったマヤが見えない。しまった、神かくし。(……)瞬時の狼狽を取りもどそうと、目を据えて見まわすと、思わぬ先のほう、鉄路沿いの片側道へ、うしろを振り向き振り向き、前かがみになって、夢中になって逃げて行くマヤの小さくなったすがたが見えた。いつのまにそんなところまで行ったか。家にもどる小路とは反対のほうだ。どうしてそっちに行く気になったか。駆け足で近づくと、マヤはおびえて、まるくした目を一層赤く充血させ、災厄から逃れる真剣な顔つきで、かえって足を早めようとする。

「ニャンコ! あぶないから、とまりなさい」

 やっと手をつかまえ、引き止めると、あきらめて立ち止まったが、私を見る目はうつけて他人をながめる目だ。

 

荷物のあいだにふとんを敷き落ち着かぬ眠りを求めるなんにちかの夜があった。こどもらが安らげるはずはなく、何かに追われた小さなけだものが見さかいなく動きまわるぐあいだ。家にもどっても、親たちのあやうげな均衡にかえって居たたまれない静けさに出会うか、発作のなかでつかみ争う両親を見るだけだから、すぐまた外にとび出していく。(……)なかまたちにやつあたりしているか、のけものにされ石をぶつけて荒れているかもしれない。時折り何を感じてか、いきせききって家のなかに駆けこんできたが、親たちがいるのを確かめると、くびすをかえしまた外のどこかに前のめりに出かけて行った。

 

負けはじめるとどこまで広がるかわからない。それを伸一はすっかり見ているはずだ。感情が荒々しくふくれてきて、私は伸一をうつむけて左腕にかかえなおし、その尻を右のてのひらで思いきり叩いた。私は伸一の白くやわらかいからだつきが好きだし、彼もまた私が好きでこの乱暴をゆるすにちがいない。(……)甘い了解は通ったと瞬間思ったのだが、伸一が私に示したのは強暴なあばれだった。(……)尋常ではない彼の目つきに余計たけってきて、みんな気がへんになれと思い、ロンパースに手をかけ、引き裂き、下着のシャツもパンツも破って素裸にした。ふとった白い肉が出、乳のようなにおいににくしみと愛着とまざりあったへんなきもちだ。(……)

「じぶんのきたない罪をせめられた苦しまぎれに、こどもにやつあたりするようなひとなど見たことがない」

 と青ざめた唇をわななかせる妻の足もとで、伸一はひざをくずさず坐ったまま、ちぎられたロンパースを無言でたたんでいた。私はそばでうつけて立ちつくしていただけだ。

 

「私は伸一の白くやわらかいからだつきが好きだし、彼もまた私が好きでこの乱暴をゆるすにちがいない」ってすごいセリフだな。あまりに傲慢、あまりに自分たちの振る舞いに無自覚すぎないか? でも、本当に無自覚な人間が「ひざをくずさず坐ったまま、ちぎられたロンパースを無言でたたんでいた」息子の様子なんて描写できないと思うんですよ。「私」はうつけたふりをした非常に明晰な人間なんでしょうね。

この平仮名の多い、奇妙に柔らかい文体もそういう「うつけたふり」を演出するのに一役買っていると思う。文体については『男流文学論』でも言及があった。

 

富岡 何を投げたとか、どういう角度でどうだっていう、夫婦喧嘩の細かい――そのときの窓の外の明るさの細かいディテールまでわりに繰り返し書いている。飽きずに。そういう繰り返しによって読者が巻き込まれてしまうんじゃないかという気はしましたね。そんなことなかった?

上野 ああ、そうか。となれば、文体が偏執的であるだけでなく、そういう錯乱的な事態に対する偏執のことを狂気というんですから、だとしたら、狂気だったのはやっぱり島尾敏雄なんですよ。

富岡 文体がね。そして、普通の人間だったら漢字に書くところをわざと平仮名にひらいているところがずいぶんあるでしょう。仮名が多い。またときどき漢字にしたり。意識的にしていると感じましたね、文章を読んでいて。べつに情緒でべたべた書いて、装飾が多いというのじゃないの。だけど、つくっているんですね。こういうつくり方じゃなくて、島尾敏雄の他の小説みたいに、もっと散文的にきちっと書いていけば、こんなに読者は巻き込まれなかったかもしれない。

 

確かに偏執的な文章でしたね。ずっともやもやと曖昧な印象を受ける文体なのに妻の狂気や家の崩壊具合に対する描写はとても細かい。不思議な本だった。でもこういうの嫌いじゃないです。

『男流文学論』ではミホ(発狂した妻)の古代性と近代性について主に語られていたんですけど、私はミホの書いた手記のほうは読んでいないのとミホと敏雄のなれそめやバックグラウンドをよく知らんのでそのへんはあまりピンとこなかった。女の古代や近代に興味のある人は『男流文学論』読んでみても良いと思います。

 

 

 

男流文学論①はこちら