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村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』が一番好きだ | 暴力と、ワタヤノボルというメタファー

 初めて読んだ村上春樹の長編も『ねじまき鳥クロニクル』だった。『風の歌を聴け』というデビュー作の中編だけは読んだことがあったが理解できず、面白さがわからず、それ以来しばらく村上春樹には手を付けなかった。でもふと思い立って『ねじまき鳥クロニクル』を読んでみたら面白すぎてびっくり仰天し、それ以来、出ているだいたいの長編を読んできた。だけど今でもやっぱり『ねじまき鳥クロニクル』が一番面白くて好きだ。

 

 

村上春樹の書く話って、「めちゃくちゃ面白いけど、意味がわからない」ものばかりで、『ねじまき鳥』もこれまでそういう感想だったんだけど、久しぶりに読んでちょっと構造を理解できた。それは「何度も読んだ」からじゃなくて、私の年齢とか経験とか最近の社会なんかが理由だと思う。

 

 

 

 

素朴な感想

なんで私がこの作品を好きなのかというと、素朴なところで言うと「夫婦の絆というわかりやすさ」と「暴力性」だと思う。『ねじまき鳥』は春樹作品のなかでは珍しく、暴力的な描写が多い。

 

村上春樹の描く物語では、主人公が円満な夫婦関係を築いていることってまずない。でも『ねじまき鳥』は、親密で緊密な夫婦があって、しかし妻・クミコが突如いなくなってしまう。主人公を突き放すような振る舞いをするクミコを、主人公が取り返そうとする話。ここがまずわかりやすいし感情移入しやすい。

 

そして暴力性。『ねじ巻き鳥』では戦争の話、満州の話が多く挿入される。その戦時下における凄惨な暴力が多く語られるし、主人公も暴力を働く。自分のことを、凡庸でどこにでもいそうなさえない人間だと思ってそうな主人公が、突然バットを握りしめて人間を殴打し始める。この急激な転換とその不気味さが面白い。

そして、今読むと、この「暴力」が作品の大きなテーマでもあったんだなと思った。

 

 

物語の構造

今回読んで全体的な構造がなんとなくわかった。と思う。非常にいろんな解釈ができる作品なので、あくまで私はこう思ったよ〜っていう話です。他の人の考えや論文はほとんど読んでないので見当違いかもしれません。

 

 

大枠としては、

主人公とクミコという、夫婦単位のミクロな対立

そして、主人公はクミコの兄・ワタヤノボルを蛇蝎のごとく嫌っているんだけど、ワタヤノボルは「この上ない邪悪」「おぞましい暴力」の象徴、ひいては「戦争」の象徴と思われる。この「対戦争」というマクロな対立

この二つの対立がストーリーの軸になっている。

 

作中にしばしば挿入される、満州事変のころの詳しい戦地の描写、これは作品のテーマが「戦争」であることを教えてくれているのかなと思う。なお、描写の仕方は非常にフラットで、人々に反戦を訴える社会的な作品のようにはなっていない。ただ、ものすごい悪を隠し持つ存在として描かれるワタヤノボルと、それに対する主人公の激しい嫌悪、という比喩的で個人的な描写があるばかりだった。そして私はこういう村上春樹の手法というか描き方が好きなんですね。

 

ワタヤノボルは、作中では政治家となっている。若く知的で能弁な、新進気鋭の政治家。テレビを通して見る彼はとても有能そうで、マスコミは彼をもてはやし、また民衆も彼を熱く支持する。テレビでの彼の発言力は増していき、雑誌に掲載された彼の評論はそれなりに説得力がある。しかしその論文を読んだ主人公はこう思う、「だからどうしろというのだ?

ワタヤノボルは確かに知的で舌鋒鋭い、ように見えるが、その奥に一貫するはずの彼の論理が見つからないと主人公は言う。それらしくはあるが、相手をやり込めるためのその場限りの理屈を展開しているだけだと。こういう人は現実世界でもしばしば見られそうですね。

 

村上春樹作品の主人公って、基本的にいつも飄々としていて、強い感情を抱くことがあまりない。だけど『ねじまき鳥』の主人公は珍しくワタヤノボルへの嫌悪をむき出しにする。しかも、作中では、その理由が筋道だっては説明されない。主人公はただ直感でワタヤノボルを嫌っているようにも見える。

 

なぜ主人公がそんなにもワタヤノボルを憎むのか、特に「ほとんど最初から」彼を嫌うのはなぜか、今まではよくわからなかった。

でも、「ワタヤノボル=戦争」と考えると、主人公の嫌悪にも説明がつく。もちろん作中で明言されているわけではないが、政治家であり場当たり的な意見を展開し民衆に熱く支持され、そしてすさまじい邪悪であり血と暴力の臭いがする、というならやはり「戦争」なのかなと思う。

 

また、彼の邪悪さは、登場する複数人の「女性を汚した」ことに表れる。ここでの「汚す」というのは肉体的なレイプではなく、「それ以上に」汚すことだった。

これは非常に村上春樹的な抽象的な表現なのだけど、本質的に、根源的に、人間を凌辱することなんだろう。そうとしか言えない。私は村上春樹のこういう、具体的な物事に置き換えられないような描写のしかたが好きだ。

 

しかし、ワタヤノボル=戦争なのだとすると、彼の被害者が女性ばかりなのはどう説明すべきか。戦争を主導するのは主に男性かもしれないが、被害者は女性だけではない。

うーん。主人公も「僕の周りには女が多すぎる」と言っているし、「女性」というのがなにか重要なファクターなんだとは思うけど。

これについてはいろんな仮説を立てられるけど、どれも憶測の域を出ない(満州で、戦争により被害を受けた女性となると…とか考えることもできるけど、作中に出てくる「戦争の話」に女性がほとんど登場しないことから、なんかしっくりこない)。

 

 

加害者と被害者は容易に反転する

ちょっと話は変わるけど、もう一つこの作品が描いていることで、「加害者と被害者の反転」っていうのもあるなと思った。

 

まず、主人公とワタヤノボル。ワタヤノボルはクミコら複数の女性に対しては加害者だった。でも終盤、ワタヤノボルは主人公によってバットで殴り倒されることが示唆される(あくまで「示唆」であるのもとても村上春樹的…。『海辺のカフカ』と同じ構造ですね。どういうこと?と思った人はぜひ読んでみてください)。ワタヤノボルは加害者であると同時に被害者でもあり、またそれまでどちらかというと被害者であった主人公も加害者となってバットを振るう。

 

あと、戦争の話。間宮中尉が語った話、またシナモンが語ったと思われる話があるけど、それらのエピソードのなかでは

・日本兵がロシア兵とモンゴル兵に殺される

・日本兵が中国人を殺す

というふうに、日本兵は加害者と被害者両方の立場に立っている(日本兵は中国人の頭をバットで殴って殺す。主人公がワタヤノボルにしたように)。

もし『ねじまき鳥』のテーマが「戦争」であるなら、人間の持つ加害性や、人間は被害者にも加害者にも容易に転びうる、ってことを書いたのかな……教科書的な答えになってしまうけど。

 

 

笠原メイについて

これまで読んだときは笠原メイのことどうにも好きになれなかったんですが、今回の読書では「好きでも嫌いでもない」ところに落ち着いた。

主人公を井戸に閉じ込めるところがどーにも…無自覚で傲慢な感じがして鼻についてたんだけど、改めて読むとちゃんと自分の「どうしようもなさ」を自覚して持て余してるみたいだったからちょっと受け入れられるようになった。

 

そして笠原メイ、彼女は他の女性たちとは少し立ち位置が違っていますね。

ひとことで言うと、彼女は主人公を殺しもするし救いもする、聖別されたトリックスターみたいな存在なんだろうなと。謎めいた占い師みたいだった加納マルタがやや近い立場にいるかな。

 

また、笠原メイは(死に惹かれつつも)少女らしい「未来の明るさ」を持っている存在でもあって、血と暴力がはびこる物語にほっとする温かさを与えていた。彼女のおかげで終わり方も優しいものになっていましたね。

そして村上春樹はこういうところで「少女に対する神聖視」が滲み出るね。こういうのが鼻につく人はいるだろう。

 

 

 

久々に読むといままでとは違った感想を持てるってのが、「繰り返す読書」のいいところですね。次は高橋和巳『悲の器』を読もうと思っているけど元気がないときにはしんどそうな気配。久々に『海辺のカフカ』も読みたい。