まくら

読んだ本や好きな文章の感想

中村文則『掏摸』

生活していく中でいろんなことが終わってきたなと思ったら中村文則の本を読みます。たいてい私よりも終わっている人が出てくるので。

いや~~~……中村文則、めちゃくちゃ好きなんですよ。割と私の中で当たりはずれがあるので軒並み全部好きというわけではないのですが、好きなやつがもう本当に好き。

 

中村文則の著作の中で好きな作品三つ挙げるなら、まず『何もかも憂鬱な夜に』、次に『掏摸』、少し迷って三つ目に『遮光』。

広くいろんな人におすすめするなら『掏摸』、わりと仲のいい友達に薦めるなら『何もかも憂鬱な夜に』、かなり気心の知れた人に薦めるなら『遮光』って感じですね。今日は『掏摸』の好きなところの話をします。

 

 

主人公は掏摸の男です。いろいろスリます。この話は結構ストーリー展開もわかりやすくはっきりしているので、文体とか表現とかよりかはストーリーを楽しみたいって人にもおすすめです。

 

でも私が中村文則で好きなのは特徴的な文体……。読めばすぐわかる。雰囲気を一言で表すなら「陰鬱」。気だるくて憂鬱で常に終わりが近い感じがしますね。好きです……

 駅に着くと、客のいないタクシーが一台、雨に濡れていた。運転手は気だるく前を向き、何かに囚われたように、視線を動かさなかった。駅の階段を上り、傘をたたむ。寒さと雨を避け寝そべったホームレスが、こちらに視線を向けている。この時間に、ホームレスとして存在することが決まっていたかのように、彼の姿は馴染んでいた。その男の目つきが石川に似ていると思い、胸がさわいだが、年齢も顔つきも異なる人間だった。ホームレスの視線はしかし、僕からずれていた。歩いている僕のすぐ後ろを、そこに何かがあるように、いつまでも見ている。気分を逸らすため煙草に火をつけ、線路の向こうへ続く古びた階段を降りた。

あ~…夜に雨の中散歩するというなんでもない場面なのに、この陰鬱な感じ……。中村文則……。夜に煙草を吸いながら街を歩く描写は中村文則の作品の中でかなり頻繁に出てくるのですが、そういうなんでもない場面の文章でも好きなんですよね……。

 

あと会話文も結構クセがあって、これもなかなか好きです。

「十億持ってる奴から十万盗んだとしても、それはほとんど無だ」

 石川は、よくこういう話をした。金持ちから金を取るのを喜びとし、僕もそれに付き合った。彼は財布を取るがあまり金に執着がなく、取った金は大抵その日のうちに使った。

「でも、悪には違いない」

 僕がそういうと彼は頷いたが、笑みを浮かべながら会話を続けようとした。(略)

「でも、所有という概念がなければ、盗みの概念もないのは当たり前だろ? 世界にたった一人でも飢えた子供がいたとしたら、全ての所有は悪だ」

「でも、それで俺たちを肯定するのは間違い」

「肯定はしてないよ。ただ俺はね、自分が善人だって、頭から信じ込んでる奴が大嫌いなんだ」

「世界にたった一人でも飢えた子供がいたとしたら、全ての所有は悪だ。」この発言、私はいまいち咀嚼しきれていないんですが、なんとなく心に残っていてたまに思い出します。

 

 

『掏摸』の中で好きなところは、母親に万引きを強要されている子供の存在ですね……。この子供、大人が子供に押し付けるような「あどけなさ」「無垢さ」がなくてとても好もしいです。幼さゆえの未熟さはあるかもしれませんが、きちんと独立した一つの人格として扱われている。子供だというだけで愚かなものとして扱われたり侮られたりしていない。こういう風に子供を書いてくれる人、めちゃめちゃ好印象です。

あと、古典的ですが、やはり主人公と子供の間に結ばれる絆のようなものがこの話を救いのあるものにしてくれていますね。子供の名前すら最後までわかりませんが、全体的に陰鬱な流れの中でこういう明るさのある存在は本当に大事です。

「……取ったの?」

 あまりにも典型的な、茶色のヴィトンの財布だった。

「八千円か……しけてるな。財布はその辺の溝に捨てる」

「……見えなかったし。でも、相手の動きに合わせるってのは、何となくわかった」

「……そうか」(略)

「やってみたい」

「無理だ。……まあ俺にやってみろ」

 近くにあったマルイに入り、トイレの鏡の前に立った。僕はコートを脱ぎ、ズボンの後ろに財布を入れた。子供は僕にぶつかった瞬間、財布を取った。人差し指と中指、薬指で挟んでいた。

「……もう一回やってみろ」

 子供は同じ動きを繰り返し、同じように、財布を取った。僕の体のバランスが崩れる瞬間と、取った瞬間はほぼ同じタイミングだった。あの頃の自分と同じくらい速く、ミスをしない限り、見つかることはないだろうと思った。「全然駄目だ」と僕は言った。

この「全然駄目だ」が本当にいい……。主人公と子供の関係性というか、主人公の子供の見方がこれだけでわかる。こういう、ときおり出てくる主人公の“温度”の折り込み方が絶妙……。

 

あとは子供と最後にキャッチボールする場面もすごく好きです。

「……お前、ボール投げるの得意か」

「……わかんない」

「あのつまらないガキより速く投げろ」

 僕が遠くへボールを投げると、子供は一瞬迷い、走って取りにいった。(略)子供はそれを両手で取り、さっきよりも強いボールを僕に返した。取り損ねた僕を見て、子供は笑った。親子が、遠くで投げ合う僕たちを見ていた。しばらく続けた後、そのボールが元々は彼らのものであると気づいた。僕は常識的な人間のように礼を言い、親子にボールを、下から投げた。

「いいか」

 僕は少し息を乱しながら、近づいてくる子供に言った。

「俺は、遠くに行かなければならないから、もう会えない。……でも、つまらん人間になるな。もし惨めになっても、いつか見返せ」

この場面、特に「あのつまらないガキ」「常識的な人間のように」のあたり、中村文則流のおもしろ表現だと私は思うのですが、どうなんでしょうね。中村文則、ときどきすんごい真顔でギャグか?って思えるような文入れてくるんですが、意図的なものなのか偶然の面白なのか判然としないことがままある……。どっちにしろ私はこういう真顔の面白表現好きなのでフフッと笑ってしまう。

 

 

ほか印象に残ったところ。まず、自分の夢の話をした後の佐江子の言葉。

「でも、実際の破滅は、そんな抽象的じゃない」

「破滅にはいつも、つまらない形がある。つまらない現実の形がついてくる」

 これは本当にそうだなあと実感してます。破滅って、煙が霧散するような抽象的なものにはなり得なくて、血が流れたり、死体が残ったり、世間からの言及があったり、葬式などたくさんの手続きがあったりして、つまらない現実が必ずついてくる。残念ながら。これは忘れずに生きていきたい。

 

 

次、木崎の発言から。

「この人生において最も正しい生き方は、苦痛と喜びを使い分けることだ。全ては、この世界から与えられる刺激に過ぎない。そしてこの刺激は、自分の中で上手くブレンドすることで、全く異なる使い方ができるようになる。お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などにまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ。たまらないぞ、その時の瞬間は!(後略)」

この「悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない」、こういうのを言語化してくれると驚くと同時にちょっと感謝してしまう。言いたくても言えなかったこと、感じてはいても意識してはいなかったようなこと、それが言うのがはばかられるような内容であればあるほど言語化して出版までしてくれてありがとう……!の気持ちになる。中村文則はそういう、今まで私が意識したことがあったかどうか、その感覚が自分の中にあるのかどうかも不透明な、でもなんかわかる、その感覚知ってる気がするぞ、みたいなギリギリの内容を書き表してくれるから好きです。

 

 

掏摸は本当に言及したいところがたくさんあって……。総合的に見たときに、中村文則の中で一番バランスが良いというか、全体的にほどよくかゆいところに手が届くような構成になっている気がします。そこまで長くもないですし。陰鬱へのふり幅もそこまで大きくないから、読んだことのない人にも薦めやすい。一応『掏摸』の兄妹編として『王国』という作品もあるのですが、『掏摸』は終わり方も上手く嵌まっているという感じで好きなので、私個人は『掏摸』だけで十分かなあという印象でした。陰鬱な文章が好きな人、いろいろと限界の近い人間を読みたい人は中村文則をぜひ。

 

掏摸 (河出文庫)

掏摸 (河出文庫)