まくら

読んだ本や好きな文章の感想

「THE FIRST SLAM DUNK」観た

観た。

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私の周りで観た人みんなめっちゃ良かった〜って言ってたし私は基本的に原作至上主義者なので私の中の期待値かなり上がってたんですが、それをきれいに超えてきてくれました。ありがとう。

 

以下、ネタバレへの配慮ありません。未視聴でこれから観る予定の人は読まないことをおすすめします。

原作の話もします。

 

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大江健三郎『芽むしり仔撃ち』10年ぶりぐらいに読んだけどやっぱりキツイ

描写がめちゃくちゃ上手いからこそキツい本ってあるよね~

 

 

大江健三郎は『芽むしり仔撃ち』と『死者の奢り・飼育』ぐらいしかちゃんと読んだことはないんですが、どれも軒並みキツかった印象。何がキツいのかというと「すさまじい閉塞感」だろうか……

『芽むしり仔撃ち』のあらすじは、大戦末期に感化院の少年たちが山中の村に集団疎開するんですけど、そこで疫病が流行したために村人たちが少年たちを置いて逃げ出して、少年たちは冬の山村に取り残される……といった感じです。

 

私が持ってる新潮文庫版の裏表紙にある作品紹介を見ると「社会的疎外者たちは、けなげにも愛と連帯の“自由の王国”を建設しようと、緊張と友情に満ちたヒューマンなドラマを展開する」って書いてあるんですけど、ここ見るたび「あ、愛と連帯の“自由の王国”……???」となる。この本って愛とか連帯とか自由とか、ヒューマンなドラマとか、そんな耳触りのいい言葉で形容できるものじゃなくないですか? ずっとそれどころじゃなくないですか?

 

 

 

 

 夜更けに仲間の少年の二人が脱走したので、夜明けになっても僕らは出発しなかった。そして僕らは、夜のあいだに乾かなかった草色の硬い外套を淡い朝の陽に干したり、低い生垣の向うの舗道、その向う、無花果の数本の向うの代赭色の川を見たりして短い時間をすごした。前日の猛だけしい雨が舗道をひびわれさせ、その鋭く切れたひびのあいだを清冽な水が流れ、川は雨水とそれに融かされた雪、決壊した貯水池からの水で増水し、激しい音をたてて盛りあがり、犬や猫、鼠などの死骸をすばらしい速さで運び去って行った。

 

作品の冒頭なんですが、もうここだけで「ア゛~~~<汚さ>と<美しさ>の高度な調和…!」となる。だって「夜のあいだに乾かなかった草色の硬い外套」を「淡い朝の陽」に干し、また「清冽な水」が「犬や猫、鼠などの死骸」を「すばらしい速さ」で運び去るんですよ。読み始め30秒でもうこの先が恐いよ。

 

なんというか、全体的にずっと汚くて、基本的に汚いのにずっと生き生きとしている。生き生きとして、汚い。

 

 

 

僕らの日常には、躰や心を極度に傷つけながら慣れてゆかねばならぬことが次からつぎへたちふさがり、僕らはそれにぶつかって行くほかはなかった。殴りつけられ血を流して倒れることなどは最も初歩的な慣習にすぎなかったし、一箇月ほど警察犬の飼育の当番にあてられた仲間は、毎朝、餓えた犬に餌をあたえる時、頑強な顎に咬まれて形のかわってしまった幼い指で器用に猥らな彫刻を壁や床板に刻みつけることができたのだ。

馬跳びにあきた南たちは円く輪になって、それぞれズボンをずり落し、彼らの下腹部を風にあてはじめた。卑猥なくすくす笑いと、やかましい嘲り。彼らのセクスは明るい陽をあびてのろのろと勃起し、やはりのろのろと萎み、再び勃起した。欲望の荒あらしい生命感も、充足のあとの優しさもないセクスの自律運動は長いあいだみんなの注視のもとにつづいた。そしてそれはおもしろくなかった。

 

「なんでそんなことまで書けるんだろう?」って思う。こんなことまで書けて、こんなふうにまで世界が見えてしまうと、しんどくないですか?

作中ずっと「もう、勘弁してくれ……」ってくらい描写が濃密で観察が緻密すぎて、それが汚さを生んでいるんだろうけど、その汚さって普段私が目をそらしているだけでずっとそこにあるものなんだろうと感じられるので、不快だが憤りはない。ことさらに汚いものを誇張して見せているとか、露悪的ってわけではなくて、大江健三郎には世界が当たり前にこんな風に映っているんだろうなと思う。あと上の引用文の「そしてそれはおもしろくなかった」は作中唯一笑えたところですね。

 

 

 

ほか、印象深かったところ。

まず、李が「僕」たちに自宅でかくまっている脱走兵を見せびらかすシーン。

 

男は予科練の兵隊のあらゆる輝かしさ、光彩に欠けていた。ひきしまって小さく硬く欲望をそそる制服の中の尻、逞しい頸、剃りたてで青っぽい顎を彼は持っていなかった。そのかわりに、しぼみきっている年齢があいまいな貧弱な顔に暗く疲れきった表情をたたえてむっつり黙っているのだ。彼はしかもあの情欲にみちて極度にみだらな戦争の服のかわりに作業用の上衣をつけていた。

 

作品の最初の方にもあったんですけど、兵隊に対するすさまじい情欲がしばしば語られるんですよね。それが壮齢の男の肉体に対するものなのか、戦争という「暴力」に対するものなのかは判然としませんが。でも多分両方なんだと思う。暴力的なイメージを内包する力強い男の肉体への明らかな情欲、こういうのって最近の文学では(私が読んできた限りでは)全然見かけないけど、やっぱり戦争の時代特有のものなんだろうか。三島由紀夫の作品で描かれる直接的な肉欲よりはやや抽象的な欲望のような印象は受けた。

ところで私も軍服に対してうっすらした欲情を覚えるので、「情欲にみちて極度にみだらな戦争の服」というものすごくストレートな表現を見てなんだか安心した。ここまで直接的に表現してくれるものってそうそうないよ。そして「軍服」じゃなくて「戦争の服」って書いてるところに作者のこだわりを感じる。

 

 

「百姓があんたを殴ったの?」と弟が眼をきらきらさせていった。

「え? 殴るなんてもんじゃないぜ」と南は誇りと軽蔑のまじった声でいった。「俺の尻に鍬を叩きこみたがって泡をふいている奴をかわすだけでくたくただったんだ」

「ああ」と弟は夢みるように、うっとりとしていった。「あんたのお尻に鍬を」

 

こことか改めて読んでみるとよくわかんないよな……なぜ弟は「眼をきらきら」させる? なぜ南は「誇り」のまじった声でいう? なぜ弟は「うっとり」する? 明らかに暴力的なものへの憧憬があるよな。これはどこからくるものなんだろう? 時代的なものだけじゃなくて、年齢的な理由もあるんだろうか?

 

 

 

 

「これでこそ、大江健三郎……」と嚙み締めたのは、弟が雉を捕まえるシーン。

 

「おい、お前やったな」と僕は喜びに殆ど嗚咽の衝動におそわれて叫んだ。

「ああ、ああ」と弟は低いかすれた声でいい、僕の胸へ顔をおしつけた。

 僕らはそのまま短い時間抱き合っていた。レオは僕らの周りを吠えながら駆けずり、ふいにおどり上った。弟が僕から離れ雉を投げ出し、レオに組みついていった。弟とレオは雪の上を転げまわった。そしてその格闘に僕が加わった。僕らはまったく躰中のあらゆる血管を狂気に毒されていた。

(……)弟の指が雉の頭長の赤っぽい艶のある硬い緑の羽毛を小きざみになでた。そして犬の唾液に濡れている暗い菫色の頸、豊かな色の氾濫する背。それはしっかり引きしまって運動感覚にみち美しかった。

 僕は弟の頬に涙が流れているのを見、その首筋に無数の引っ掻き傷があるのを見た。

「お前やられたな。ずいぶんやられてるな」と僕は弟の躰から雪をはらい落してやりながらいった。

 弟は涙の光をたたえる眼で僕を見あげ、短く断続する甲高い声で笑った。それから僕らは立ちあがり、よろよろしながら杉林をぬけ雑木林を降りて行った。その間ずっと弟は僕にとりとめなく彼の勇敢な狩りについて話しつづけながら、その破裂するまぎわまで感情を膨張させている者の笑いに間歇的にとりつかれ、また彼は発作に揺り動かされて雉を抱きしめ、その肉に爪を立てた。

 

う、美しい、この克明な描写力…? 雪と雉の色彩のコントラストが鮮やかで、光に満ちた雪原の風景とその中で転げまわって喜ぶ兄弟の姿がはっきりと目に浮かぶ。弟と「僕」の無邪気な喜びが刺さるように伝わってくる。すさまじい描写力だ……

 

で、私が驚いたのはこのあと。

 

 

「ほら」と弟は顔をふりたてていった。「僕の右の眼ひどくやられて、まだうまく見えないよ」

 ほんとうにそれは充血して熟れすぎた杏の実のようだった。僕は弟の頭をつかまえて揺さぶり、弟の笑い方をまねて笑った。

 

抉るような描写力そのまんまに、ここで「熟れすぎた杏の実」のように傷ついた弟の右目を描写してみせる。「雉をつかまえてハッピー」じゃ終わらないんだよ。それだけで終わってもよかったのに。雪と光の中で喜ぶ兄弟をさんざん描いてみせた後での、杏の実のように充血した弟の右目……

びっくりした。こういうところがいかにも大江健三郎だって思った……

 

 

 

 

 

で、作中で一番圧倒的にキツイのはやっぱり終盤、村人たちが村に戻ってきてからなんですよね。読んでいて、めちゃくちゃ胸が悪くなる。

キツすぎてあんまり引用できないんですけど、脱走兵が村人たちに連行されてるところは本当に勘弁してくれ;;;;;となりました。

 

少女が死んでからの、「僕」と脱走兵のみじめなそして幸福な傷の舐めあいセックスを書いた後で、それはあんまりだよ……

 

彼は僕の肩に腕をまわした。僕らは語りあうこともなく穀物倉庫へ戻り、床に躰をからませたまま寝た。僕は兵士の汚れて鬚の伸びた貧弱な顎、角ばって血色の悪い頬を、いまは英雄的に美しくさえ感じていた。嗚咽におそわれた僕の頭を汗の臭う胸にひきつけて脱走兵は僕に完璧に優しかった。それから短い間僕らは疫病の脅威にさらされ、疲れきり、言葉が喉からうかびあがりえないほど無気力に絶望しきって、しかし小さく惨めな快楽をおたがいに味わったのだ。黙りこみ、おたがいに鳥肌だって貧しく凍えた尻をあらわにし、陰険な指の動きに集中しきって。

 

 

彼らは猟銃と竹槍を脇腹にひきつけて垂直にたて額をたれて歩いて来た。そして脱走兵は夕暮の艶とうるおいにみちた空気、かすかに雪と葉の匂う風に躰をさえぎられてでもいるように、抵抗感のある足どりで上体をがくがく揺すりながら歩いて来た。彼はいま、上衣をはぎとられ、夏の盛りにいるように袖のまくれた荒い布のシャツしか着こんでいなかった。彼を囲む行進が納屋の前を通る時、僕らは彼の小さく貧弱な顔に土がこびりつき、それが乾いて粘土色をしているのと、腰のふたしかな支えの上で不自然に柔軟な動きをくりかえす腹部を覆う褐色の布地が破け、破れめだけ黒褐色にそまり、そのあいだへ新しい水みずしく柔らかいもの、陰った光をうけてぬめぬめしたあざやかな色の波動をおこしているものが、たれさがっているのを見た。それは歩行につれてぷるんぷるん震えそのたびごとに金色の強い光を照りかえした。

 

ひどすぎない?

 

 兵士は分教場前の広場から下りの道へ踏み出そうとしてよろめき、不器用に長い腕を振って自分が倒れるのをふせごうとがんばった。それはきわめて痛いたしく幼い身ぶりだったので、僕らに涙を流させた。しかし、その瞬間、彼の肩をがっちりした二人の村人が抱え、そのまま引きずるようにして行進をつづけた。

 

なんでそんなことまで書くんですか?

 

いや、本当に、「新しい水みずしく柔らかいもの、陰った光をうけてぬめぬめしたあざやかな色の波動をおこしているものが、たれさがっているのを見た」「それは歩行につれてぷるんぷるん震えそのたびごとに金色の強い光を照りかえした」 何これ?マジで勘弁して。描写が、“力”を持ちすぎだろ

 

本当に本当にキツい。胸がムカムカする。終盤の描写の細密さ、死体の前に座り込んでじっくり模写する絵仏師良秀ですか?悪臭と血と汗と汚物が狭苦しい空間の中に充満してて吐き気がするよ。こんなに最悪な「ぷるんぷるん」という擬態語を見たのは初めてです。

 

この、描写が上手いからこそすさまじく胸糞悪くなるの、大江健三郎の他だと平山夢明の短編集『独白するユニバーサル横メルカトル』ぐらいかな、今まで読んできたフィクションの中だと……。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』もかなりキツかったけどこれらとはちょっと性格が違うかも。

ちなみに、『独白する~』の中では「無垢の祈り」が一番(というか、唯一)好き。

 

初めて読んだときから10年ぐらい経ってたからもっと知的な感想を出せるかなと思ったけど相変わらず「キツ~~~;;;;;;;;;;」が感想の8割を占めた。美しいところは美しいけど汚いところがとことん汚い。でもそれがきっと(少なくとも大江健三郎にとっての)「生命」なんだろうな。大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』と『静かな生活』が今後読みたい本メモの中に残されてたので、今度読むぞ。

 

中村文則と又吉直樹――『何もかも憂鬱な夜に』『夜を乗り越える』

私は中村文則の『何もかも憂鬱な夜に』という小説を崇拝しているんですが、又吉直樹がその本の感想を『夜を乗り越える』って本の中で書いてて、それ読むと私が『何もかも憂鬱な夜に』読んで思ったことがほとんどそのまま書いてあった。私が書き添えること、もう何もない。でも『夜を乗り越える』読んで居ても立っても居られなくなったので、何か書く。

本の感想というよりは日記に近いかも。

 

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